一章 華燭

潰れた石榴(1)



「おかあさま、わたし婚礼衣裳なんて着たくない」

「どうして?」

「知らないおとこのひとが、わたしの紗をあげるんでしょう? そんなのって……」

「そうね、だったらやめにしようね」

「ええ。それにわたし、あまり赤が似合わないのよ」

「いいのよ、青浪。あなたの好きにすればいいの。だってあなたの婿ですからね」

「結婚してからも、髪をきつく結い上げたり、歩瑶を挿したりしなくてもいいの?」

「そうよ、だってあなたが、あなたが……」





「う、う、うぅ……」

 硬いものが背中へとぶつかり、皮膚に弾けて濡れ、ぬるりと嫌な感触を残した。鉤のように強張る指さきで土を掴んで、春峰はただ耐えていた。叫ぶほどの痛みはないが、さんざん笞打を食らったあとの背中にぶつけられる石榴はひどく重たく、ときおり尖った部分がぶつかっては鋭い痛みがはしるのだった。いくら娘の細腕とはいえ、青浪は一条のためらいも見せずに淡々と、何か仕事のようにして腕を振るっていた。

 ひょう、と風が吹いて、春峰はぶるりと身震いした。翳む目を凝らさずとも、己がいま獣のように四つん這いになっているのは、切岸に転げ落ちること容易い場所だと理解できる。ここから落ちれば、岩壁にこの身を打ちつけ、あるいは怒濤に呑まれて、いくらかの痛苦を味わいながらも、あっけなく死ねるだろう。そんな死に惹かれる春峰を見抜いたかのように、声がかかる。

「おにいさま、なにを見ているの?」

 振り向くと、石榴をもてあそぶ青浪が、ことりと首を傾げていた。その表情までつぶさに観察することはかなわないが、きっと幼いころの青浪ならば、にこりと歯を見せずに愛らしく笑っていたはずだ。くちびるだけがやわらかく曲がり、月のようなまろい線を白皙に浮かべたはずだ。

 春峰が口を開きかけると、青浪が腕を振るった。視界がさっと翳り、開いていた片目に石榴がぶつかる。

「……っ」

 ぐっと眼を圧迫されて、一瞬息が詰まった。次いでぼたりと涙が落ち、春峰は幾度も目を瞬く。顔にぶつかったときに潰れたのか、果汁が目に入って、視界は不明瞭だ。春峰は無意味にあたりを手探りした。青浪のつま先が見えるばかりだ――と思うと、その小さな靴先で、顎を蹴られる。大した力でもないのに、くらりと眩暈を感じて、春峰はその場に突っ伏した。畳んだままの足がじんじんと痺れたが、こうして伏していなければ、青浪がつぎにどんな仕打ちをするか……春峰にはそれを防ぐことがどうしたってできないのだった。

(傷ついたからだとはいえ、青浪ひとりをねじ伏せることなど、容易いはずなのに……)

 そうは思えど、くちびるを割り滑るのは媚びたような低い呻きだ。

「青浪……やめてくれ……」

「おにいさま、どうしたの?」

 鋭くなった耳だけが、彼女の感情をとらえるための器官だった。だが彼女の声はどんな感情ものっぺりと延ばされて、どこか茫洋としている。「疑問」という役割のみを伝える。

「傷が痛むんだ。これ以上すれば、おまえを家へと運べなくなってしまう」

「わたし、まだ帰りたくないわ」

「だが、もう日も暮れるだろう」

「そうしたら、ここで夜を明かすのはどう? 星がよく見えるわ。今日はとても気持ちのいい晴れだったもの」

 言葉になにかうっとりとした色が混じるのを感じて、春峰はこわごわと頭を上げた。そこにはもう何も――竹も、石榴も――手にしてはいない青浪が、体のうしろで手を組んで、娘らしく空を見上げていた。すんなりとした首が、襟からちらりとのぞき、見てはいけないものを見てしまったような心地になる。

 春峰の視線に気がついたかのように、青浪は顎を引くと、じっと彼を見下ろした。

「けれど、そうね。おにいさまを困らせてはいけないわね。ごめんなさい、おにいさま。青浪を許してくださる?」

「あぁ……だから帰ろう」

 春峰は安堵して言った。だが青浪は、無残に潰れて土に汚れた石榴をひとつ、しゃがんで拾い上げる。裾が汚れる、と声を掛けようとしたが、青浪はそれを、春峰のくちびるに押し当てた。

 甘酸っぱくみずみずしい香りと、山の柔らかな土の香りが、春峰の鼻に抜ける。

「食べて、おにいさま。そうしたら、わたし帰るわ」

 青浪がそう言って、手を放す。ふたたび石榴は地に落ちて、潰れた実の濡れた部分に、土を纏いつかせた。

 いつか春峰が切り倒し、磨いた切り株にちょこりと腰かけて、青浪は膝に両手を乗せる。

「食べて、おにいさま」

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