摘果の音(2)

【3-6】摘果の音(2)


 春峰は無事な片目を眇めて、一人夜の森に立っていた。

 誰も来ないことは分かっている。青浪と梔子は麓にあり、深玉は丹と寝ているだろう。丹は昔からそうだ……おとこがあれば見境なく、誘惑する。かつての春峰も、幾度となく彼女に意味ありげな視線を送られたものだ。何も分からぬ時分から、容貌が変わり果てる前までは。丹の欲望が異様なものなのか、そうでないのかは分からなかった。春峰は戦場で、おんなを犯すおとこたちを見てきた。春峰はまったくと言っていいほど、その欲望を感じることが出来ない。彼の脳裏に熱くひらめくものといえば、と考えかけ、ひどく褪めたかおりが森を走り抜けた。

 野山で育ったにもかかわらず、花や樹木の名を知らない。青浪もそうだ。きっと深玉も。玉蘭も、丹も梔子もそうだろう。商品として扱う花なら分かる……だがそこらじゅうに茂る青々とした草や、茸や、濡れて光る苔たちのことを、ひとつとて知らなかった。この山がいったい何で出来ているのか、想像もつかない。それが春峰や青浪が戯れに口にして見せる幾種類かの花々でないことは確かだろう。

 遠くで天瀑の音が聞こえる。山の腹にごうごうと籠り、響いている。揺れていた。

 いつも青浪が腰かける切り株に、静かに腰を下ろす。青竹が傍らにたてかけてある。細く、節は低く、青浪が扱いやすいように春峰が削り、布を巻いてやった。作為により生み出されたそれはもはや竹ではなく立派な笞で、作り上げたにも関わらず春峰はこれで打たれているのだ。

 笞の両端をしっかりと握り、己の膝に中ほどを押し付ける。ぎりぎりと両端を下に沈めても、ただやわらかにしなるばかりで、罅の入る音さえ聞こえなかった。湿り切ったこの山の空気にあって、乾燥しようというほうがおかしいのか、それとも春峰の力が衰え、足りないのか。それとも、この笞を損なうことを、春峰の意識の下のなにかが、拒んでいるのか――。

 強張った手から力を抜けば、笞はあっけなく朽ちた落葉のうえに落ちる。音を立てず、ひっそりと、誰にも知られず死ぬひとのように。

(青浪は……麓で、何をしているのだろう?)

 こんなことは今まで、あまりなかったように思える

(……いいや、一度だけあったはずだ)

 思い出す。鈍く頭が痛んだ。尻から冷えが這い上り、膚が粟立つ。己の腕をさすりながら、春峰は己が戦役に出る前……父が死ぬより前のことを思い出していた。

 青浪が帰ってこないとは思っていない。彼女は必ず帰るだろう。そして常よりひどく、嵐のように、春峰を打つだろう。かつてのそれは転機だった。受くるものが、与えるものへと変わる、その瞬間にたしかに春峰は立ち会っていたのだ。青浪は……今度も、かつてのように変わるのだろうか。それはもはや未知だった。

 春峰が変わり果てて家に帰り、深玉が婿としてこの家に入り、予期せぬ時に玉蘭が家に戻ったように、何か良くないことが起きるのではないかという予感がしていた。変わりすぎているのではないかと思えるのだ。己が帰ったことから、まず間違っていたのか、それともかつて青浪が麓に降りたときからだったのか……。

 どれほどの年月を経れば、変化は唐突なものではなくなるのだろうか? どの期間にどれだけのことが起これば、それは異常なのだろうか。すべては連続しているのだろうか?

 春峰の頭では分からなかった。ただ漠然と、恐ろしいことが続いているような気がしていた。同時にそれはほとんど錯覚であると断じている部分もある。彼は怯えているのだ。怯えが嫌な記憶だけを引き出しつづけ、つぎに起こることもまた、避けがたく彼を打ち据える恐怖に違いないと思いこませている――。しかし、思い込みだから恐ろしくないわけではないと、己の考えは当たるのであろうとも理解していた。

 それはある意味で、思索よりも肉体に蓄積された痛みの記憶が囁くことだ。そしてそれをこそ信じるのが、春峰というおとこだった。

(ほかに信ずるべきものがないだけだ……おれには……)

 視線を落とせば、屍のように横たわり沈黙を守る笞がある。ごくりと唾をのむ己の喉の動きまでがつぶさに理解される。淫乱な像が閃く前に、春峰は腕をさすっていた手で、己を抱きしめた。

(あぁ……醜いおとこが、ひとり森のなかで、なんと……)

 誰かが見ていたらば。どれほど滑稽だろう。その妄想は恐怖とともに言い知れぬ昂ぶりを与える。味わったことのないおんなの肉体などではない。呼び起された父のすがたと、青浪の小さな手、そしてわざとらしく音を立てる森のどこかの誰かが……春峰を取り囲み、一心に与えるのだ……そう、春峰はいつも拒んだ素振りを見せながら、あらゆる快楽を享受してきた。待望してさえいた。今も、さみしくて空しくてたまらないのだ。大きな身体で、滑稽がすぎる空想を遊ばせて、自虐さえ快いと、どこかで感じているではないか。

 真に醜いのは容貌などではなかった。この髪が焼け、歪な顔となり、目が潰れ、膚が爛れようとも、より醜いのは春峰の、生まれた時から変わらぬ、卑しく猥らな性根ではなかったか。そう考えながら、春峰はぶるぶると身を震わせながら、そっと己の性器に触れた。だらりと萎えたそれが、いつかの……誰かの……もののようにそそり立つことを願って、叶わないことに打ちひしがれながら、その痛みさえをも、魂の、血膿を溢しつづける傷へと摩りこむのだ。

(……やめるんだ。こんなことに意味はないだろう。青浪が言ったはずだ)

 手を放し、再びぎゅっと己を抱き、背を探す。

 背中をまさぐる己の手は、まるで他人の手であるかのように思えた。引き攣れ損なわれてしまった文様ほりものは、呪力を失ってなお春峰が人に成ることを許しはしない。彼は蛮族であり、戦役で共に戦ったものたちとは違う生き物であると伝える……幾度も考えてきたことだ、戦役、あの忌まわしい戦いで、春峰はいたずらに、同族殺しを犯したのではないかと。

 寝衣の上から、ぎりりと背中の文様に爪をたてる。取り留めのない思索を罰するためにも痛みが必要であった。

 だが――。

「お義兄にいさん」

 息が止まる。春峰は硬直して、動くことも出来なかった。足音を立てて、誰かが近づく。深玉だ。低くて甘い声をしている。その容貌にふさわしく、おんながときめくような声だ。春峰は、「はっ……」と響くほど大きく息を吐き出して、荒く呼吸をついだ。そして身を倒す。己をきつく抱きしめたまま。胸を交差した腕、そして背中の文様をきつく掴んだ手が、寝衣にひどい皺をつける。

「お義兄さん、どうしたんですか。こんな夜中に、ひとりで」

 深玉の声音ににじむのは真心からの心配、であるはずだ。春峰はきつく目をつむり、ゆっくりと身を起こした。強張る指から一本一本力を抜いて、背中を解放する。しかし――その背中に、熱い手が触れる。再び息を止めかけて、怯えまいと、いつも通りであると見せかけるためにもひどくゆっくりと呼吸をした。深玉の手が、おとこの大きな手が背中をさする。

「具合が悪いんですか。こんなに冷えているのに……寝衣一枚で出るなんて、風邪を引きにきたようなものですよ」

「いや……眠れずに、こんなところまで出てしまっただけだ。心配をかけてすまない」

 やっとの思いでそう言うと、深玉が春峰の前に回り込む。だが、その手は変わらず春峰の背をさすったまま……まるで抱きしめるように、春峰の両脇に深玉の腕があり、囲われていた。

「大丈夫ですか、お義兄さん」

 かがみこむ深玉の顔が近い。ふっと甘いかおりがして、それが丹のにおいであると気が付く。春峰は首を振り、そっと、慎重に深玉の腕に触れた。退けようと思った。しかし深玉の腕は春峰の力に抗うように強く、退かない。彼の目を見ることはどうしてもできなかった。醜い容貌を間近に見られていると思うと、震えがはしる。この暗闇が、深玉の視界を遮ることはないだろうと、何故かそう確信していた。

「深玉……戻ろう」

「お義兄さん、さみしかったんですか」

「何のことだ。戻るぞ。あなたこそ、風邪をひいてはいけない。おれは丈夫だからいいんだ」

 矢継ぎ早に短い言葉を吐き出すと、深玉は笑った。

「おにいさん」

 ぞくりと悪寒が駆け抜けて、春峰は弾かれたように立ち上がる。あれほど堅牢に思えた深玉の腕も外れる。立ち上がればなおのこと距離は近づいた。一歩退こうとして、切株に足を取られ……深玉に支えられた。その手も、すぐに離れる。

 じんわりと残されたおとこの手の熱が、春峰のうちのひどい傷を掻き乱し、悦ばせ、震えを残した。

「……丹と寝たのか」

 今聞くべき問いではなかった。月が雲に隠れ、森はいっそう暗くなる。春峰の視力では、あたりに何も映らなくなるほどに。だが暗闇は深玉の存在感をいっそう強めるばかりで、春峰は月が再びすがたを現すことを切に願った。

「寝ましたよ。あれは卑しいおんなですね。それに支配的なおんなだ。僕の上に乗りたがる」

「おれは青浪の兄だ。おまえが青浪を傷つけることは……」

「許しませんか? ……僕を叱りたいのですか?」

 春峰は深玉に背を向けて、ぎくしゃく歩き出した。背後で身じろぐ音がする。振り向くまいと思いつつ、身体は意思に反して顔を背後へと向けていた。深玉が腰を屈め、笞を取った。春峰は息を呑みまろぶように駆け出す。

 駆け出したと思っていた。

 しかし未だそこに立ち尽くしたまま、飴のように引き延ばされた時間を、敏感になった膚だけが感じている。釘付けされて、春峰は片目を見開いた。潰れた目で妄想していた。あの笞で、深玉が己を打つ様を。赤くなった膚を、文様を暴かれて春峰は、その膚の下の真に醜い何もかもを見透かされて、屈辱と羞恥に燃える凹凸だらけの頬を、快楽に代えて――。

(あぁ……)

 幻であると誰が言えよう?

 それが現実であることと同じほど、幻であることは不確かだ。

 春峰はいつしかひとり、湿った落葉に両膝をつき、頭を垂れ、森羅に許しを請うように跪いていた。泥と血に汚れた寝衣を、春峰はきっと焼き払うだろう。その罪穢れとともに、汚れとともに。

(おれのこの身も、同じように出来たらば。燃やし尽くしてしまえたらば。すべて罪を葬れるだろうか)

 そう思わずにはおられなかった。この家の、もはや無用のものとなり果てた彼は、とっくに生きながらえる理由を喪失している。この家を出て、どこか知らぬ地で野垂れ死ぬのがもっともふさわしいだろう。しかし、どうしても彼には選べないのだ。この家から解き放たれる己を想像できないのと同じように、この家を捨てる己も、存在しえなかった。

 森のどこかで、冬に入ろうとするいま、木の実が落ちる音がする。それなりの重みをもった実であろう。しかしすぐに腐れ、消え、やがては霜と雪に埋もれるはずだ。白く輝く穢れなき地の下で、人知れず、春までに姿を消すだろう。

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