三章 幽天

長恨(1)

 春峰らは、例年通りに新年を迎えた。つまり、何を祝うこともなく、ただつねの生活を送るだけだ。この山にある限り暦は意味を持たなかった。春峰はそこにいっぺんの寂しさのようなものを覚えたが、麓で暮らしていた深玉はそんな様子を見せず、彼の順応力を恐ろしく思う。

 ただつねと異なることもあった。玉蘭はついに帰ってこなかった。だが、玉蘭の元から一通、文が届いたのだ。街方からこの山へ届けられるまでに、添えられた花は枯れていた。水分を失い、微妙な生柔らかさを保ったままぐんにゃりと死んでいた。

「病を得ました。しばらくはこちらから動けませんが、小康状態に入れば家へと帰ります。皆、よくやるように」

 たったそれだけの文章だったが、玉蘭の手跡ではなかった。おそらく彼女の部下が代筆したものなのだろう。この報せに最も衝撃を受けたのは青浪だった……少なくとも、最も激しい反応を示したのは彼女だった。麓から帰って以来、体調を崩したままぐずぐずと床を離れなかった青浪が、朝に昼にさめざめと泣くのだ。

 春峰とて何も思わないわけではなったが、そのような青浪のすがたを見ていれば、複雑な心持ちに真っ直ぐに向き合うだけの余裕などはない。

(……以前、おかしな時期に帰ってきたのは、あの人なりになにか変調を兆していたのだろうか?)

 今も春峰は、彼女の睡台の横に座っていた。泣きつかれて眠った青浪を、見ることもなしに見つめながら、しんと冷たい冬の陽射しを浴びる。

「春峰さま、お嬢さまは……」

 梔子が水差しを手に房へと入ってくる。少年の顔はどこか疲れており、青浪をいたく案じているのがよく分かる。春峰は浅く頷き、「今は眠っている」と低く囁いた。

「……青浪は、麓ではどうしていたんだ?」

 何度も聞いたことだった。そう訊ねると梔子は、決まってくちびるを固く引き結ぶ。眉根をぎゅっと寄せる梔子に、少年が何も知らないというよりかは、(口止めされているのか?)と春峰は疑っていた。そうであるならば、この少年は何があっても口を開かないだろう。たとい玉蘭に命じられても。少年は青浪のものであり、母である丹も、この家の支配者たる玉蘭も、侵し難い領域を持っているのだ。

「言えぬのならそれでいい。だが……麓から戻ってからずっと具合が悪いだろう。丹は何と言っている」

「母上は……子が出来ぬことを、気に病んでいるのではないかと。先に玉蘭様が帰ってらした時、子はまだかと言ってらしたことをずっと気にしていたので。身体におかしなところはないそうですが……」

 梔子のたどたどしい言葉に、春峰は唸った。

 彼にはまさか青浪がそのようなことを気に病むとは、とても思えなかったのだ。いくら母・玉蘭にべったりとついて離れず、度を越した愛情を抱いていたとしても……青浪が真に大切にするものは青浪であろうと思っていた。だからこそ、この妹が未だ子を宿さぬことでここまでぐずぐずと床に就くとは考え難かったのだ。

 具合が悪かったところに玉蘭が帰らぬと聞いて、単に衝撃を受けただけなのか。それともやはり、何か悪い病を得たのか……深玉が訊ねても、ただ消沈した様子だという。彼はそれを慰めていると。ただ、連れ出そうとしても嫌がるのだと言っていた。

「深玉はどこへ?」

「水を汲みにいってくださいました。ですが……あまり深玉様には近くに居て欲しくないと、僕に」

「何だと?」

 初めて聞いたことだ。もっとも春峰は、青浪がまともな状態の時に居合わせることは少ないのだが。

 そう思って妹の寝顔を見ると、その目が開いていた。

「おにいさま……?」

「起きたのか。具合はどうだ、青浪」

「……胸が悪いの。おにいさまのお顔を見ていると、つらいわ」

 青浪が掛布をかぶる。梔子が戸惑った風に春峰を見た。

 今更面貌のことを言われても何とも思わない。春峰は潰れた目の側を背けて、青浪の目に映らぬようにした。

「食事は摂っているのか。深玉とは話さないのか?」

「おにいさまはどうして青浪の房にいらっしゃるの?」

「お前が心配だったからだ」

「どうして?」

「……どうしても何もないだろう。おれは妹を案じているんだ」

「おにいさまは青浪のことなんてお嫌いでしょう」

「何を言っている。おれがそう言ったことがあったか?」

「……梔子、何か果物が食べたいわ。持ってきて」

「はい、お嬢さま」

 梔子が出て行く。取り残された春峰は、苦り切った気持ちで青浪を見つめた。すると青浪はその視線を察知したかのように、掛布からそろりと顔を出した。春峰も顔の向きをもとに戻し、青浪の様子に目線を走らせる。

 白目は充血し、赤く血走っている。頬も上気し、熱がある様子だ。乾いて切れたくちびるには血が滲み、愛らしい容貌は病んでいた。肉の削げた顔が痛々しく、そっと手を伸ばす。かさつく膚から感じられるのは、柔らかさより無味乾燥とした肉の手触りだった。乾いているのに、膚のしたのものはぶよりとぬるついている。

「おにいさま、深玉様は?」

「水を汲みに行ったと聞いた。お前が遠ざけたのなら、ここには来ないだろう」

 そう言うと、青浪は安堵の息を吐く。

「だが、何故そんなことを。深玉は申し分のない夫だろう? お前は一体、どうしてしまったんだ」

 春峰は、丹と深玉との間にある密事を、この妹に告げる気は一切なかった。おとこにはそんなこともあるものだという気持ちもあったが、何よりもそうすればどんなに青浪が悲しむことか、そしてどんな不和をこの家にもたらすことかと、震え上がるほど恐ろしいのだった。春峰にとり、夫婦の仲が悪いこと、その家のなかの冷たい断絶というものは、ひたすらな恐怖の象徴だった。己の子供時代、その父と母を思い出すだに何とも胸の悪いような思いをするのだ。口の中にこみ上げた酸っぱいような苦いような唾を飲みほして、春峰は臥した青浪に懇々と言い聞かせる。

「お前が深玉に何か不満を持つということは、間違っている。麓の暮らしを捨て、家を捨て、あいつはわざわざこんな山の上までやってきたのだぞ。婿になるということがどんなに大変で、人によっては居心地の悪いものか……ましてやここは普通の家ではないだろう。それなのに深玉と言えば、このおれとも、丹や梔子とも何ともうまくやっているじゃないか。お前だって、あれほど仲良くしていたのに、どうして突然深玉を遠ざけるのだ。そんなのは、並みの夫婦ではない。子はいずれ出来よう。母上の言うことを気にしているのなら、心配はいらない。だがお前が深玉を遠ざけ続けるのならば、子を生すどころではないのだぞ」

 青浪の底知れぬ眸が、じいと春峰を見ていた。充血しているせいで、その目は何か恨みを孕んだもののように思われて、春峰はまた苦い唾を飲み込む。膝の上においた拳をぎゅうと握り、具合の悪い妹を叱責しているという罪悪感から逃れようと声は力んだ。

「母上は、お前に人並みの幸せを与えたいと思って、婿をあてがったのだろう。おれがこんなになってしまわずとも、あの人はおれに妻をもらおうとはしなかったはずだ。お前だから、母上はわざわざ麓へ下り、己で深玉という婿を選び抜いたんだ。……裏切るつもりか。母上を。あの人は病だ、若くもない。そんな人へ心配をかけるのか。おれはあの人のことなどどうでもいいが、お前はそうではないだろう。お前はあの人を愛し、あの人とてお前には無二の愛情を注いでいるじゃないか!」

 己の妬心や恨みをぶつけているのか、それとも青浪とのあいだにある歪んだ行いへの罪から逃れようとしているのか、春峰にはわけがわからなくなっていた。だが今の状態は間違っている、それはおおむね青浪が悪いのだ……そんな思いが胸に満ちていた。

「もう娘の時分とは違うんだ。深玉は寛容だから、お前の行いに文句の一つも言わない。それどころかこのおれには、青浪とうまくいっているとそう言う。お前を庇っているんだ。そんな夫を、そしてお前にだけは甘い母上の気持ちを無碍にして、お前は一体どうしたいんだ。それ以上の何を望むつもりだ。一体……お前というやつは……満足するということを知らないのか?」

 青浪の返事を期待していたわけではない。春峰がこうして叱ったところで聞き入れる娘ではない。

「…………」

 だが春峰は、言わずにはおられなかった。この家に不穏な空気を起こしているのは青浪だ。ただそれだけのことで、すべて青浪が悪いと思っていた。青浪がそういう態度を取っていたとすれば、深玉が鬱屈するのも無理はないだろう。そして誘惑者は丹だという確信もまた、彼を庇い立てする理由になるのだ。

 青浪はうつろな眸をしていた。どんよりと濁った赤い目が、春峰を見るともなしに見る。不意に春峰は、猛烈な罪悪感に押し潰されそうになった。

(青浪の話を聞くべきだ……おれは……弱っている妹に、何ということを)

 そう思えども、今更やはりお前の気持ちを聞こうなどとは言い出せなかった。春峰には守るべき対面も自尊心もなかったが、その心を芯から揺るがす恐れがただ、在るのだ。青浪を傷つけてしまう? それが恐ろしいのか、或いは青浪に傷つけられることが恐ろしいのか、判然としない。くちびるを戦慄かせる春峰を見つめていた青浪は、何かひどく奇妙な間をおいて、唐突に言葉を紡いだ。

「おにいさまは……青浪を恨んでいらっしゃるの? 青浪が、おにいさまを差し置いて結婚をしたから? 青浪が……青浪だけが、おかあさまに愛されているから?」

 それはあまりにも直截な問いかけだった。

 もはや誰も触れぬ、そして春峰自身もつねは封じている憎悪を、青浪は自ら掘り起こす。

 春峰は化石して、硬い声音で否定した。

「そんなことが、あるわけないだろう。おれは……おれはもはや己が結婚できると思ってはいない。おれの妻となるものがあわれで、そんなことはできない。母上のことなど、とうの昔に諦めているよ……」

 力なく背を丸めると、青浪の眸に申し訳なさそうな色が滲み、みるみるうちにその目は濡れた。白く細い喉が震え、乾いたくちびるがぴっと切れた。血の玉が浮かび、青浪はそれをひどく不器用に舐めた。くちびるの隙間から覗く赤い舌が強張っていた。春峰の胸は引き絞られたように痛んだ。同時に、重苦しい倦怠が背中にのしかかっていた。

(おれは……青浪を、重荷と思っているのか? どうして……? 荷物であるのは、おれのほうだろう。そうだろう。そうだろう、春峰……)

「……ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい、おにいさま」

 もはや春峰は何も言えなかった。椅子から立ち上がることも出来なかった。

「おにいさま、青浪を許して……青浪がいけなかったの……わたくしが……ごめんなさい、おにいさま」

 冬の陽射しが、不意に翳る。青浪の表情が見えなくなる。春峰の醜い面も閉ざされ、やがてどちらのものとも知れぬ嗚咽が、部屋に小さく落ちた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る