松柏に瑞雪(4)
「子を孕んだのです」
深玉はじっとおんなの顔を見つめた。
丹はただ「夕食の支度ができました」と言うのと変わらぬ表情をしていた。細い目、その黒い目を見る時、深玉は淫乱な性が何を望んで己を求めたのかが分かるような気がする。だがどれも思い違いだろう。深玉はひとの気持ちがわかった試しがないのだから。
「子を孕んだから、どうだって言うんだ?」
「さぁ、産みましょうかね。梔子に弟か妹ができることになります」
「青浪がそれを許すと?」
「お嬢さまは何も言やしませんよ。私と深玉さまが寝ていることだってお気づきなんですから」
「…………」
丹がだらりと立ち上がる。ぬらぬらとして白い腹をまじまじと見て、深玉は息を吐いた。青浪に子ができないのに、丹がこうして孕むとは思わなかった。己に原因があると思っていたからだ。
「……青浪は、またお前の子をもらい受けるのか?」
「お嬢さまが望むなら、差し上げましょう」
「いらぬと言ったら?」
「私が育てればいいだけです」
「……男の子だったら?」
「縊るとでもお思いですか? そんなことしませんよ。あなたがたは私達の暮らしを誤解していますね」
あなたがた、という言葉に含まれているのは、この方楼に暮らさない、麓の人間たちのことだろう。深玉は己が他人であることを、誰よりも知っている。そしてそれは麓に居た頃から変わらないのだ。彼はどこにいても他人であった。誰もがそうであるというのに、信じない人間が多い。ひとは一人だと言うと、奇妙な目で見つめられる。
(そう思っていたが……この家の人間は、違うのかもしれない)
時折そう思う。ひとは一人だ……斜に構えるでもなく深玉が獲得したはずの世間の当然は、麓よりよほど血族の結束が弱く、祭祀も行わぬようなこの家で、何故か嘘のように感じられる。
「梔子の父親は誰なんだ?」
そう言うと、丹は気だるげに深玉を振り向いた。どんな感情も浮かべないただ黒いだけの小さな目が、しばし返事を吟味する。それからおんなは小さく笑った。
「気になるんですか」
「ああ、気になるな。あの子はどうも、青浪に似ている気がして」
「そりゃ、父親が同じですからね」
「やはりそうだったのか」
「玉蘭さまだってこのことを知っていますよ。あの人はそんなことに頓着しない。娘が産まれりゃ良かったんですが、生憎息子だったので、お嬢さまに差し上げたんです。お嬢さまは梔子を可愛がっているようですし、何もかも丸く収まったということですよ」
「その父は、いまどこに?」
「死にましたが」
深玉は驚かなかった。ここに居ないのなら、死んだのだろうと思っていた。そしてまともな神経をした人間が生きてゆける場所でもないと思っていた。己がここでそれなりに居心地よく過ごしているのは、春峰という中途半端な存在がもたらす不均衡のうちにあったからだ。おとこがひとりこの家に入るのは、きっと快くないことだろう。
祖先を祀らず、女主人によって賄われ、娘はまるで公主のように振る舞う……愛情の何たるかも知らず、無邪気に家族を信じて。
(家族か……そう言った時、お義兄さんがおかしな顔をしていたっけ)
ふと思い出して、衣をまとう丹を眺めながら、戯れに問いかける。
「つまりお前達は、みな家族ということなのか?」
丹が動きを止める。結びかけた帯をそのままに、袷からだらりと乳房を覗かせて、うるさげに深玉を見やる。
「……家族ですって?」
「ああ。お前とお義母さまは身内同然だろう? そこに、同じ父から生まれた子供が三人……まるきり家族じゃないか。庶子が本家で一緒に暮らすことだって、なくはないさ。召使の母親から取り上げられた子が、時に権力を持つことさえあるだろう」
奇妙な表情で己を見つめるおんなに、春峰と同じものを見た。
家族という単語の奇妙な響きが、何か不吉なものであるかのように、理解しがたいと言わんばかりの渋面で咀嚼する。
「……あなたが庶子だからですか」
「いや、僕は正室の胎だよ。妹は下女の子供だったけどね。青浪と一緒さ……僕は妹をもらい受けたんだ。父上にお願いして、一緒に住むように取り計らってもらった」
「それを殺したから、あなたはここに居るんでしょう。私にゃ分かりませんよ、玉蘭さまが何故あなたのようななりそこないをこの家に入れたのか。春峰さまはご自分を責めるようですが、私はあの人に悪いところがあるとは思えません。邪なものを持ち込むのはいつでも外のおとこです」
「言うねぇ……」
飾り格子の嵌められた窓は、寒さを防ぐために冬の間は塞がれている。光の射さぬ房で、丹がすっかり身づくろいを終えた。その胎は未だ目立たず、外から見ても孕んでいるのかそうでないかなど、深玉には分からない。丹が嘘を言っているのかもしれないと思った。
「青浪は、どうして僕の子を孕まないんだろう……」
独り言のつもりだった。だが房を出て行こうとした丹が、ひどく厭らしい笑みを浮かべる。
「そりゃ……」
それからふと口を噤み、にたにたと気味の悪い笑みを張り付けたまま、おんなは出て行った。
その夜しばらくして、玉蘭が首を吊り、死んだ。
はちきれそうに蕾を膨らませた梅の木、この家に古くからある……玉蘭たちが住むよりも前からある梅の木、その低い枝に、つま先が地面に擦れるくらいの高さしかない枝に、玉蘭は首を吊った。その花の色も知らず深玉は、瑞雪降りしきる夜、彼女の大きな身体を見上げて、目を細めた。
「玉蘭さま」
丹が呆然と呟く横で、梔子は恐れに目を見開き、唇を戦慄かせていた。真っ白い顔色を見ていると、鬱血した玉蘭と梔子と、どちらが生者であるのか、深玉にはふと判断がつかなくなる。妹の姿が梔子に重なり、玉蘭に重なり、いま再び深玉の身近に降り立った死というものが、雪に纏われていっそううつくしいものに思えた。
煙る息を吐き出して、動き出したのは丹が最初だった。
「下ろして差し上げないと」
青浪は森へと分け入り、春峰は房になく、丹と震える梔子とともに彼女を木から下したあと、花のない梔子の垣の前に、そっと屍を横たえた。
(いのちはめぐっている)
そう深玉は思った。生まれる前に発生した生命と入れ替わるよう、この家の主が去り……丹の胎にぬくんでいるものが、娘であるような気がしたのだった。
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