断章

落花春峰

 雪は積もらなかった。

 瑞雪を幕切れとして、冬は少しづつ消えていった。玉蘭の狂乱の痕跡をすべて消すような暖かい空気が山々に満ちて、春峰が帰ったいつかの日のように、青い細草がそこらじゅうで丈を伸ばす。瑞々しい若竹を見ても、青浪はもう心動かされなかった。春の気に誰も浮かれない。放置された花苑は雑草に埋め尽くされ、花々は栄養を競って奪い合う。例年通りに花をつけるのか、どうか……青浪にはわからない。

 谷川のほとりで、身を横たえていた。

 地を伝い水の流れる音が耳に流れこむ。梔子は蝶を追いかけてどこかへ行ってしまった。目を瞑っていると、色々な音がきこえる。水音が遠ざかり、ぬるい風が草の上をさらさらと撫ぜながら走ってゆく音……生命が芽吹く音、家のほうまではうかがい知れないが、きっと兄は房でぼんやりとして、夫はどこかで無聊をかこっているのだろう。夫、と己の思考が紡いだ彼の役割を示す語に、目を瞑ったまま青浪は笑った。

「ん……」

 ぞろりと顔の上を何かが這っていく。たくさんの足が顔じゅうをくすぐる。とても長い虫だった。きっと牙があって、毒があり、噛まれれば己の顔も赤く腫れあがる……だがいまの青浪は自然そのものだった。何をも脅かすことのない細草の一葉だった。母が死んだ家の女主人という役目を青浪は放り棄てたのだから、何も脅かさず、何者でも這うに任せる細草であろうと思ったのだ。

(青浪には、家を賄うことなど出来ませんもの……)

 花々を愛でるのは好きだった。だが育てるのは好きではない。やったこともない。やろうとも思わないし、ましてやそれを行ったこともない街方で売るなど、想像もつかなかった。一度だけ、母とともに商売をやっていたおとこが見舞いにきた。玉蘭が死んだと告げると、今にも狂わんばかりの涙を見せ、山の下ではなく上へと還っていった。その背中を見ながら、春峰が「天瀑へゆくのだろう」と言っていた。

 母が支配していたのはこの家だけじゃない。きっと玉蘭の異様は、あちらこちらでたくさんのひとを巻き込み、惹きつけ、発揮されていたのだろう。そこまでの器が己にあると青浪には思われなかった。ただ己は、母に愛されて育ったという誇りと己自身を鎖するものがないという安楽に身をゆだねていた。

「お嬢さま……?」

 ふと呼ばれ、青浪はまぶたを持ち上げた。

 眩しい光に目を細め、己を覗き込むあどけない顔を見つめる。心配そうな表情をした梔子は、手に蝶々を持っていた。羽を摘まむ手に力が入りすぎていて、弱弱しく身をくねらせる蝶は今にも潰されそうだ。

「まぁ梔子、蝶が潰れてしまうわ」

「あ……」

 慌てて手を放す。不器用な子だ、と思った。梔子の手から飛び立った蝶は、しばらく低いところを蛇行していた。だが不意に山から吹き下ろした風に当てられ、川の方へと飛ばされていった。己の力で飛んだのではなく、より大きな何かに押し流されるように、ひどく寂しげで痛ましい風情を残して、視界から消える。

「……手を洗っていらっしゃい。かぶれてしまうかもしれないでしょう?」

「はい、そうします」

 素直に頷き、梔子が川べりに駆けていく。しゃがみこむと一瞬すがたが見えなくなる。眠気に誘われるが、青浪は身を起こした。すぐ近くを、百足が這っていた。先程己の顔の上を歩いたのはこの虫だったのかと思いながら黒々とした虫を眺める。複雑で繊細な造作をし、鮮烈な色合いを持っていることに感心する。青浪は不意に傍らの石を振り上げ、その胴を分断した。身ふたつに断たれた百足はしばらくのたのたと蠢いていた。

「蛇ではないけれど……そう、百足も断たれても、蠢くのね」

 まなうらに、夜更けの白い光景が蘇る。白くちらつく雪花ほど、うつくしい花を見たことはない。ゆく先の吉兆を示す瑞雪……花々のうえに降り注ぐ花、のなかで、首を吊った母は揺れていた。はじめ軋みをきき青浪が駆け付けたときには、もしかすると玉蘭は生きていたのかもしれないと思うことがある。

(青浪が、すぐにおかあさまを下ろしていたら、おかあさまは今も、生きていたのかしら。でも青浪には、そんなことは出来なかったはずだわ。だって青浪は小さくて……とても手が届きませんもの。そうでしょう、おかあさま)

 玉蘭の身体から排出された液体が湯気を立てて、煙っていた。とかく白い晩だった。そしてそのあとは、森で兄とともに眠ったのだ。母の死を悼むようにして、何かの機能を取り戻しながら、兄妹というこの家でもっとも確かな関係を思い出したのだ。否、少なくとも青浪はずっと覚えていた。思い出したのは、春峰の方だ。

 梔子が駆け戻ってくる。

「お嬢さま! あちらに綺麗な花の茂みがありますよ!」

 目を輝かせる彼に引っ張られ、立ち上がる。裳裾には、無数の染みができていた。草汁の緑が桃色の裙を汚す。点々と印をつけて、時には引きずるようにかすれた線となったその染みを見て、青浪は溜息をつく。玉蘭が死したのだ、新しい反物を手にすることもないのかもしれない。

「何の花が咲いていたの?」

「杜鵑花です! 真っ赤な……ほら、不如帰と鳴いていますよ」

「まだ早いと思うわ。きっと違う鳥よ……」

 梔子はにこにこと青浪の手を引く。

(おにいさまは、青浪を無邪気だと言うわ。子どもであると……)

 彼がいるから、玉蘭がいるから、青浪は子どもなのだ。だがこうして梔子と一緒にあるとき、青浪はふと自分の無垢がすでに幻であるということを痛いほど感じる。百足が顔を這っていたように、己の胸のうえを様々なものが這っていった。或いは、小さな足にも。

「ほら!」

 梔子が青浪の手を放って走り出す。

 彼の言った通り、杜鵑花が固まって咲いていた。真っ赤な花は見事に咲き誇り、時折風に戯れて揺れる。

 目に痛いほどに赤い。

「杜鵑花が赤いのは、杜鵑が垂らした血のせいというのは本当ですか?」

「いいえ、それは伝説よ。血を垂らしたって、花は赤くなったりしないもの。それに、鳥の血で染まった花を、お前はうつくしいと思うの?」

「……少し、不気味です」

 梔子が肩を竦めるのがおかしくて、青浪はころころと笑った。

「でも、赤すぎるわ。青浪は、赤い色があまり好きじゃないのよ」

「そうですよね。お嬢さまは青や緑がお似合いです……あ! 今お召の裙が似合わないと言っているわけじゃありませんから!」

「あら、青浪に似合うから好きとか嫌いだとかを決めるのではないのよ。ただ、赤色は……お前の言う通り、何だか不気味だもの」

「お嬢さまでもそんなことを思うのですか?」

「もちろんよ。婚礼衣装も不気味でしょう?」

「お顔が見えないのは残念だと思います」

「お前はそんな風にしか考えないのねぇ……でも、石榴は好きだわ。杜鵑花を山石榴と言うこともあるでしょう。だから杜鵑花だけは、認めてあげる」

「おい、お前たち、お嬢さまが認めて下さるって!」

 梔子が楽しそうに花々に声を掛けるのを見て、青浪はふと峰を仰いだ。川に近いここをずっと上がっていくと、天瀑にたどりつく。この地は赤に縁があるのだ。昔は紅石が取れたとかで、他には紅谷と呼ばれもする。その紅の谷の水を、青浪はずっと飲んで生きてきたのだ。

 赤と青、あまりにも土地と根強く結びついてしまうようで、青浪は赤色が嫌いなのだ。

 身の内に這う赤も同じ……青浪が流す血は赤い。打って打たれて知った色は、厭わしいから欲しくなる。奇妙だと己自身でも思いながら、抱え込んだ矛盾に苦悩するほどの脆さは持ち合わせていなかった。

(おにいさまと青浪は、違う。青浪は、ここが……)

 耳を澄ませると、梔子の息遣いが聞こえる。天瀑の轟きも聞こえる。春峰の穏やかな呼吸も、深玉の平坦な呼吸も、丹の不思議な呼吸も聞こえる。暮らしがあることが手に取るようにわかる。ここは青浪の故郷だった。

「お嬢さま? お嬢さま? ……大丈夫ですか?」

「もう、うるさい子ね。青浪は少し耳を澄ませていたのよ。山にある色々なものがお話しているの。雲が、いつ洞窟に帰ろうかと言っているのが聞こえたわ」

「お嬢さま……それは嘘だって知っていますよ! 梔子は確かに勉学はしませんが……春峰さまが時折色々なことを教えて下さるんです。雲は山の洞窟に帰ったりしないんだって聞きました!」

「おにいさまは物知りだもの。おとうさまは偉い人だったのだから」

「そうだったのですか?」

「ええ……そうよ。きっとね」

 杜鵑花の茂みを抜けて、竹の生えるあたりまで戻っていく。梔子は枝を拾ったり、草をいたずらにむしったりとちょこまか動き回ってはひとりで笑っている。のどかな、あまりにものどかな彼のすがたは、確かに青浪の希望だった。

「……梔子、青浪は深玉さまと仲直りをしてみようと思うの」

 聞いていないかと思ったが、梔子は青浪のもとへと飛んできた。

「本当ですかっ!?」

「ええ、本当よ。仲直りもなにも、喧嘩だってしていないのだけれど……」

「でも、仲直りしたほうがいいと思います。その……僕が余計なことを言ったから、お嬢さまと……あのう……」

 縮こまる梔子に、青浪は笑いかけなかった。

「そうね。でも、お前が言わなくたっていずれ知れたことだわ。お前の妹か弟が、丹のお腹にいるんですもの」

「え……?」

「なぁに、気がついていなかったの?」

「うそっ!」

 梔子がこぼれそうなほど大きく目を見開く。青浪はこれこそ無邪気なものだと思いながら、伸びやかな竹に手を置いた。

「……丹のお腹が大きいでしょう? 生まれるのはいつかしら。深玉さまの子よ。でも青浪は、別にそれを怒っているわけじゃないの。むしろいいことだと思わない?」

「それは……僕には、分かりません」

「あたらしい子が産まれるんですもの。いいことに決まっているわ」

 そう言っても、梔子はどこか複雑そうな顔をしたまま黙り込んでしまう。その様子をみて、青浪はくすりと笑みを漏らした。

「あら、梔子を捨てたりなんてしないわ。心配しなくたっていいのよ」

「本当ですか? ……もし、妹でも、お嬢さまは僕を捨てたりしませんか?」

「そう言っているじゃない。青浪はおんなだから、おとこだからって梔子を選んだわけじゃないのよ」

 梔子は明らかに安堵しているようだった。この家でもっとも力ない存在である少年は、自分の置かれている立場をいつもよく理解していた。だから怯えていたのだ。気まぐれで無邪気な「お嬢さま」しか庇護者がいない……さらにその「お嬢さま」を「お嬢さま」たらしめていた玉蘭が死したいま、この家の均衡は崩れている。どれだけ不安定なところにいるのかと梔子は思い悩んだことだろう。

(これほど小さな……たった四人ぽっちしかいない場所で、ばからしいこと)

 何が不均衡だろう。何が不安定だろう。

 ――こんなことは尋常ではないと知っている。春峰が、青浪を、何も知らぬ娘だと思っていることもまた。

 だが青浪にはひとつ、考えがあるのだった。

「お嬢さま……お嬢さまは、どうして子を産みたくないのですか?」

「青浪が産みたくないと言ったことがあった?」

「ありません、けど……お嬢さまが麓に行くのに、お供しているのは僕だもの」

 梔子が目を逸らす。その目には罪悪感のような、子どもなりの後ろめたさが滲んでいる。そう、彼は青浪の共犯者だった。

「誰にも言っていないでしょうね」

「言ってません!! ……でも、こんなことは良くないって、僕は……」

「青浪がいいと言ったら、いいのよ。おにいさまだって、青浪に子を生せだなんて言うけれど、きっと想像できないに違いありませんもの。そうねぇ……おにいさまに嫁いでくださる方が見つかると、いちばんいいのだけれど……」

「春峰さまは……その、お顔は怖いけれど、優しいかただと思います。どうしてお嫁さんを貰えないのですか?」

 青浪は曖昧な微笑みを浮かべた。

(おかあさま……あなたのせいよ。あなたの謝罪の意味を、いちばんよくわかるのは、青浪ですもの)

 兄の不遇が、己の不遇と表裏を成し重なる。ずっと近しい存在になった彼を、誰よりも愛おしく思う。梔子と同じように、青浪たちにしかわからぬ連帯がある。梔子は知らないのだ。己の父が誰なのか、お嬢さまとは誰なのか……。

「姓じゃないのだわ……おかあさま」

「お嬢さま?」

「青浪の姓を知っている?」

「もうっ、当たり前です。お嬢さまは、蘇青浪さまです!」

 胸を張って答える梔子に苦笑する。

「ここらの地域に、ずっと昔からあるお家でしょう? 母さんが得意げに話していました」

「そうね……」

 族譜を買ったのだ。最後の蘇氏から、この家とともに。彼は葬られ、何処とも知れぬところに埋められているはずだった。姓氏を乗っ取って……文様を持った玉蘭たちは、この家へと這入ったのだ。

 梔子の背にも、文様ほりものが彫られている。魚の文様だ。古くからある、神を模した文様……春峰の背の歪んだそれと同じ、馴染まない水に泳ぐことを是として玉蘭は、街方に、麓に、故地を離れて違う血を求めたのだ。或いは丹も同じかもしれなかった。あのおんなが執拗なまでにおとこを求めるのは、何かを生み出すためだった。己の欠片を、血脈を、この地に毒のように流そうとしているのだ……青浪はだから、兆しがあったとき、麓に下りた。

「でもね、青浪は、青浪でしかないのよ」

「どういう意味ですか?」

「お前には難しいわ。でも、覚えておきなさい。お前が梔子であるのは、青浪が名付けたからなのよ。それと同じことよ。お前の根本は青浪にあるの。だから、いつでも青浪と一緒に居るのよ」

「もちろんです。僕はお嬢さまとずっと一緒にいます。僕をもらってくれたのはお嬢さまですから!」

 屈託のない愛情が捧げられる。青浪は胸に湧く温かな感情を秘めて、遠く山の向こうを眺めた。

「……そういえば、この山には桃がないわ。お前は桃を食べたことがある?」

「まさか。お嬢さまは?」

「一度だけ。とってもおいしかったの。それに、桃の花はとっても可愛らしいんですって」

「へぇ……見てみたいですね。奥様がいらっしゃれば、きっと、お嬢さまのために桃の木を植えたのに」

「……そうね」

 だがもう母は居らず、青浪は待つ必要がないのだ。

 桃、桃、と繰り返して、梔子がその味はどんなだったかと問うてくる。瑞々しくて甘かった、口の中でとろけそうに柔らかいのよ、でも腐れているわけじゃないの、とても……そうねぇ、何て言ったらいいのかしら、とにかく、美味しいの。説明しながら青浪は、家へと戻る。

 ――母のない、家へと。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る