うつくしい花婿(3)
むかし、春峰は青浪の大切にしていた衣に、果汁の染みをつけてしまったことがあった。青浪はわがまま放題の娘であったが、そのときしまったと青ざめた春峰を怒ることはなかった。癇癪も起こさなかった。ただ、おそろしいほど静かになり、むっつりと黙って欝ぎ、春峰が様々に機嫌を取ろうとしても、頑として応じない。そんな彼女の静かな反抗は子供のころでさえひと月は続いた。しかし母玉蘭が家へと帰り、新たな花の株を彼女にくれてやると、ようやく不機嫌は解けたとみえて、まるで何事もなかったかのように春峰にも接するのだった。
感情豊かな娘の怒りかたの驚くほどの静けさに、春峰は彼女の機嫌を損ねるたび、戦々恐々としたものだ。ひとたび怒らせれば、彼女は決して機嫌を直さない。その頑固な封印を解けるのはただ母と花のみで、春峰は怒らせたのが自分だとしても、そのあんまりな頑なさに、たびたび腹を立てた。だがやはり、その怒りを青浪にぶつけても、返るのはただ黙殺のみで、春峰はやるせない気持ちになったものだった。
「青浪、僕が君を怒らせたのなら、わけを教えてくれないかい」
深玉が、花苑で穏やかに語りかけるのを聞きながら、春峰はそんなむかしのことに思いを馳せていた。
(おれがなにをしても、青浪は機嫌を直さなかった……丹でも、梔子でもだめだ。母上か……父上でなければ)
春峰は花苑の入り口で柵にもたれかかっているのだが、鋭くなった耳はふたりの会話を拾ってしまう。ここから離れようと身じろぐと、そのたび青浪の無言の視線を感じて、縫い止められてしまうのだった。いったい何がしたいのか、春峰にはわからぬまま……深玉は婿入りの翌日からずっと、青浪の不機嫌に付き合わされている。
(母上は、余計なことを)
玉蘭につき合わされて麓までとんぼ返りをしていた深玉は、疲れ切っていたろうに、それでも身を清めてから青浪のもとへと戻り、許しを乞うたのだという。おしゃべりの梔子が言うには、まるで進士のように穏やかな話し方をする素敵なかただ、ということだ。実際春峰も、深玉に悪いところがあるとは思えなかった。彼は気立てもよく、優しく、根気強い。青浪の態度にも気を逆立てることなく、今のように愛情深く語りかけている。未だ年若いおとこにしては、すこし驚いてしまうほど、彼はよく出来ていた。
しかし、青浪は頑なに口を聞こうとしない。
(いったいどうして、こんな娘に育ったか)
春峰が呆れかえっていると、「おにいさま」とのっぺりとした呼び声がした。これが嫌なところのひとつだ。青浪は決して深玉を足代わりに使おうとせず、家の真裏の花苑でさえ、春峰に抱かせて運ばせる。もともとはひとりでもふらついていた場所だというのに、まるで当てつけのように春峰を呼びつける。
「戻りたいの」
「……あぁ」
そっと腕に青浪を抱き上げると、春峰は深玉と視線を合わせた。彼は微笑んだようだった。春峰はただ申し訳なく、妹のわがままを謝罪するような気持で、小さく頭を下げた。
◆
「すまないな、青浪が。もともと甘やかされてきた娘だから、あなたにそうしても許されると思っているんだ」
「いえ、僕がもっとしっかりしていればよいことなのですが」
「そんなことはない。そもそもは母上が悪かった。あなたはよくやっているよ、深玉」
「お義兄さんこそ、からだがお辛いことはないのですか?」
「あぁ……もっと寒くなると、手のしびれがひどくなるが。いまのところは大丈夫だよ、ありがとう」
青浪を部屋へと運ぶと、梔子ともども追い出されてしまった。刺繍の道具を出していたところ、しばらくは近寄るなということだろう。そう思って、花苑へと戻ってみれば、やはり深玉はまだそこにいた。玉蘭の仕事のせいもあって、この家にはたくさんの花や草木が植えられている。もともと山も緑豊かだが、家の裏の花苑は玉蘭がもらい受けたり買い取ったりした花々が集められていた。
玉蘭の花は、役人や貴族たちがこぞって求める一級の品だという。詳しいことは知らないが、麓のものはそう言う。とはいえ庭師がいるでなし、苑と称するにはあまりにもむさくるしく、風雅とは程遠い。ただ、噂通りに玉蘭の花がよいのか、あるいは丹の世話がよいのか、花々の生命力は漲るようで、どの季節でも押しも押されぬ百花咲き乱れの光景を見ることができた。
深玉は春峰を見ると少し笑って、東屋へとともに腰かけた。冷めきった茶があり、うまく動かぬ手でかちゃかちゃと騒々しい音を立てながらも、青浪が手をつけなかった茶を、深玉とともに舐める。
彼の目線はずっと、東屋の陰にひっそりと咲く秋海棠に注がれていた。
陽のもとで見る深玉の顔は、見慣れてきたこともあってか、端正な造作までがよくよく見通せた。すっきりと流れるような眦は、今や切なげに下げられていた。薄いくちびるはささやかな笑みを浮かべながらも、彼の落胆を如実に伝える。
「うまくいかぬものですね」
そんな言葉が物寂しく、なんとも言えぬ気持になった。春峰はすっかり彼に同調し、憐れんでさえいた。
もはや深玉の前で顔を晒すことを厭とは思わなかった。彼は青浪とは違う無関心さで、或いは義兄への礼でもって、彼の面貌をつとめて無視する。本当に、まったく気にもかけていないのかもしれない。そうとさえ思えた。己の顔をどう思っているか、などと問うのは憚られるが、少なくとも春峰は貴重な友を得たような気持で、この義弟に接していた。
(気立てのよい朗君に、よくもあんな態度がとれる)
秋昊に雲の錦がたなびいて、山から鼻先へとかおる肌寒い空気に、胸が締めつけられる。
「深玉、つらいことがあれば、おれに話すといい。井戸の底だとでも思って。何も出来ぬおとこではあるが、あなたがこの家に来たことを、うれしく思っているんだ」
「お義兄さん……」
出過ぎたことかと思いつつ、かつての己ならばきっと言ったであろうせりふを口にしてみる。卑屈な色がにじむのは今の春峰ゆえだが、ただ真摯に、彼の力になりたいという思いがあった。
「秋海棠を見つめて、ままならないと言うよりかは、何か気分が変わることを考えたほうがいい。あなたが来てくれたおかげで、青浪を乗せた椅子を運べるだろう? 山を少しゆけば、紅石谷という奇景もあるし、谷川のほうへ下りれば、菊の群生がある。青浪はむかしから、花か母上かを見れば機嫌を直すんだ。あなたさえ良ければ、ともにゆかないか。夫婦のあいだに割って入るのは、とても心苦しいのだが……」
そう言うと、深玉は小さく肩を震わせた。
「ありがとうございます、お義兄さん……。僕は、実の兄とは不仲でしたから、こうして力になってくれることが、うれしくてなりません。青浪という妻を得て、それから親切な兄を得て、僕は果報者ですね。丹と梔子にお願いして、万事用意を整えてもらいましょう。お義兄さんが邪魔なんてことはありません。きっと三人で、たのしい時間が過ごせるでしょう」
「あぁ。今ごろ山には、木瓜が熟しているだろう。青浪に贈るといい。あれはおとこどころか、家族以外の人間ともろくに会ったことのないような娘だから、きっとあなたに戸惑っているだけなんだ。だからどうか、あれを諦めないでやってくれ」
「もちろんです。僕は青浪のことを、ひと目見たときから、ずっと愛そうと思ったんです」
深玉の低すぎない声がつむぐ言葉は、ぬくもりを感じさせた。春峰はかすかに目を細めて遠くを見やり、新たな風の吹きこんだことを確信していた。この家が変わる。それも、きっと、良いほうへと。
(深玉と青浪がいずれ子を成して、賑やかにやってくれたら。おれはその陰でひっそりと息をひそめて、しあわせな孤独に甘んじて、生きてゆきたい)
そんな希望が胸のうちに小さく宿り、春峰は瑞々しい深玉の横顔を思った。しかし、その瞬間になぜか眼裏を過ったのは、深玉がやってくるすこし前……青浪が己に投げつけた石榴の、無残に破れたすがただった。
「もう戻ろう。あなたも慣れない暮らしだろうし、からだを壊してはいけない」
「あぁ、僕のほうこそ、気が回らなくてすみません。ずいぶん肌寒くなりましたね。きっと冬には、もっと冷たい風が吹くのでしょうね……」
東屋を出る深玉のきれいな背を眺めて、春峰は静かに頷いた。
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