うつくしい花婿(4)

 果たして青浪は、三人で出かけた折から機嫌を直し、近ごろは深玉とも睦まじい。若い腕が青浪を軽々と抱き上げて、いたずらに駆けては青浪は悲鳴をあげ、それから笑いさざめく声が聞こえてくる……そんな日常に、春峰は至極満足していた。彼に声がかかることは極端に減り、画眉鳥の鳴き声は想像していたよりもうるさくなく、いつしか春峰の房には欠かせないものとなっていた。鳥の声を愛でながら、静かに微笑んで時折妹たちをうかがう。つねの晩秋の愁いに満ちた空気は、まるで春のごとく朗らかだった。

(また、おまえは……どうして)

 そんな日常のなかでも、唯一取り除くことのできない憂鬱があった。

 夜に沈んだ森のなかで、青浪が切り株に腰かけている。毒蛇は冬眠につくころとはいえ、彼女は無防備で、呆けているようにも見えた。夜闇を見通せない目で、不自由ながらも森を分ける春峰には、妹の顔貌だけが白く浮き上がるように見えて、その様はおぞましかった。どうしてここへきてしまうのか……夫婦の閨を抜け出してこんなところへ来る青浪を、叱るためだと言い聞かせる。

「……いい加減にしないか」

 お決まりのせりふを言うと、青浪がゆらりと彼に視線をくれる。猛禽のような首の動きに、春峰は震えそうになる足を叱咤した。

「深玉にいったいどんな不満がある」

 重ねると、青浪の目がぼうっと光った気がした。彼女は細い竹を手に、立っている。

「おにいさま、木に手をついて」

 ぐ、と空気が重くなった気がした。膝を折りそうになる。肩をいからせて重圧に抗うと、青浪はもう一度「おにいさま、木に手をついて」と同じせりふを繰り返す。空虚でさえあるその声は魔魅の力を帯びて、眩暈にも似た感覚を呼んだ。くらくらとして、ただでさえ不明瞭な視界がいっそうひどいものとなった。

「おにいさま」

 媚態があるわけじゃない。むしろ気の乗らないような声音で、青浪は言う。だが、だが、といくら言い訳を探しても春峰はいつの間にか、操られるようにしてそばの木に両手をついているのだった。彼女に向けた背中が、まだ何もされぬうちから、ざわざわと粟立つ。ぶるぶると震える手ゆびをなんとか伸ばして、樹皮をつかめば。

 ひゅ、と風を切る音がした。そして、

「うっ……うぅ……」

 青浪が無言のうち、無表情のうち、淡々と笞を振り下ろす。二度、三度と叩いて、彼女は不意に手を止めた。ひどく冷たい夜気を感じているのに、春峰はだらだらと汗を垂らした。食い締めた歯が痛む。

「…………」

 青浪が身じろぎ、あたりを見回す気配がする。もしや誰か――深玉が――いるのかと、春峰は水で打たれたような心持になって振り返ろうとした。だが、その動きを禁ずるよう、こちらを見ないまま無造作に振り下ろされた笞が、彼の背中を打ち据える。細いながらも確かな節がしたたかに背をひっ叩く。骨身にじんじんと響く痛みに、思わず呻きをあげて、春峰は樹皮に額を押し付けた。

「やめてくれ……青浪、誰が見咎めるかも……」

「おにいさまがいらっしゃらなければいいのよ。どうしてそれが出来ないの?」

「それはおまえが……ひとりで夜の森に出るからだろう。おれはおまえを、連れ戻すために……来ているだけだろう」

「嘘よ。おにいさまは青浪に打たれるためにいらしているでしょう」

 幼いころの、くちびるを尖らせて拗ねる青浪の顔がちらつく。そんな懐古を戒めるように、夜を引き裂いた竹が鳴き、肉をぶるりと震わせた。

「うっ……おっ……」

「深玉さまのことを好きよ」

「ならば……」

「おにいさま」

 青浪が笞を捨てる。それから、春峰の背に覆いかぶさるように抱きついてきた。妹の小さなからだは、肉も薄く、折れそうなほどに細い。そんなことがありありと感じられて、春峰は吐き気を覚えた。

(なぜこのように……おれに触れるのだ)

 うつむいた視界に、白い手が映る。蛇のようだった。帯を解き……寝衣を暴く。帯が落ちれば、青浪はしゃにむに衣を取り去って、放った。裸の背を見られていた。冷たい空気のなか、背が熱い。笞で打たれた傷が、ただただ熱い。屈辱にくちびるを噛む。どんな感情だって青浪にはあたえたくなかった。

 愛しているだとか、いないだとか、この気味の悪い接触のうえには不要な感傷と思える。あまりにも常識や良識からかけ離れ、一線を越えているとしか思えないこの接触は、春峰がひどく劣った人間ゆえ起こるねじれのように思えてならないのだ。青浪が異常なのではなく、春峰が不良だから起こるのだと。彼が引き起こしているのだと……そう、妹の手は彼の背に語り掛ける。

「おにいさま、とても痛そう」

 ぬるい手が背中を這いまわり、傷を検分する。ぐ、ぐ、と押されて、痛みのあまり春峰はからだをくねらせた。

(どんな無様なことだろう)

 大のおとこが、それも醜いおとこが醜いからだを露わにして、小さな娘の、妹の手に暴かれている。

「でも、あぁ、ほら、傷跡で引き攣れた文様ほりものが……見て、断ち切られた蛇のようよ。この前ね、丹が花苑の手入れをしていたら、蛇が出たんですって。丹は、鎌を持っていたから、叩っ切ったと言ったわ。そうしたら、ふたつに分かれた蛇は、しばらくうねっていたのですって。どうしてかしら? 不思議だわ。深玉さまも、何度試してもうねらない蛇はいなかったとおっしゃっていたの。青浪は蛇を断ったことがないから、わからないのよ」

 ――なんと悪辣な手だ。

 脂汗がこめかみを伝い落ち、そのしずくを追うように青浪の視線が逸れた。

 ふと、闇夜に浮き上がる手が、地を指す。

「ほら、見て。木瓜かりんの実が腐れている」

 どこまでも無感動な声が言う。てらてらと青白い指さきが示す地面の色は判然としない。春峰には見通せない。だがこの森に分け入った時から、ずっとそのかおりは彼に纏いついていた。甘く腐れた木瓜の実の、淫靡なかおりが。

 青浪がしゃがみこみ、その実を拾った。そしてそれを、たおやかな手が春峰の背に押し付けた。ぐじゃり、と潰れた。不快な感覚が背に広がる。冷たく濡れて、春峰は震えた。腐れた果実はあまりにもやわく、痛みはない。だが、ぞっとするようなかおりとともにずるりと果肉が背を這い落ちて、尻にまで伝う感触はおぞましく、春峰は身震いした。どろどろとした果肉を、小さな手が塗り広げてゆく。治療ではなく、なにかの儀式のようだった。ぬめる果肉の感触の隙間に、冷たい手ゆびの先がかする。爪を立てられて、春峰は樹皮をつかんだ手に力をこめた。

「やめろ……こんな夜に、水浴びをせねばならなくなる」

「もう遅いわ。おにいさま、ねぇ、おにいさまはむかしから、花や実のかおりがお嫌いよね」

「知っているならば」

「よいかおりよ。ねぇ、青浪は木瓜の実が好きなの。深玉さまとの房にも、飾ったのよ。ぐずぐずに腐れてしまうまえに、捨てられてしまったのよ……」

 もうひとつ実を拾って、押しつける。押し潰す。またしてもあの不快な感覚が背に張り付き、なにか魔物を背負っているような気になった。青浪という魔物が、春峰の肉体を浸蝕せんとしているようだった。

「青浪」

 咎めると、彼女はふと手を春峰の脇腹にこすりつけた。青浪の手に残っていた果肉がなすられ、同時にひどくこそばゆい手ゆびが脇腹をくすぐり、のぼってゆこうとする……春峰は反射的に彼女の手を振り払っていた。ぱしん、と音がして、森には沈黙が落ちる。

「…………」

 振り向くと、青浪が春峰の衣を拾っていた。その衣で手を拭くと、差し出してくる。衣を奪うように受け取った。

 春峰の無残なからだを見て、下腹に目を止める。そして何故か切ないようなため息をつくと、青浪はくるりと背を向けた。

「おにいさま、いつになったら、還ってくるのかしら」

 そんな、甘えるような言葉に、春峰は戦慄した。

(おれは、ここにいる)

 三年前に、この家に帰還した春峰。そこから狂い始めた何かが、とうとうすがたを露そうとしているのではないか。青浪の儀式の意味が、春峰に理解できるようになってしまったらば。いったい何が起こるのか。深玉は青浪に、何をもたらしたのか。春峰は彼女の結婚の意味を、いま一度考えるべきではないだろうか。

(母上。あなたの娘を、あなたは知っているのか)

 青浪が、ふとくちびるを割る。稚い声がつむぐのは、よく知れた戯れ歌だ。

「夜天に木瓜の実擲げたらば、あなたは何をくださるかしら……」

 狂ったか、と思った。

「瑶の環をくださるかしら……木瓜の実みっつ、くださるかしら……」

 青浪の小さな足が、ふらりと離れてゆく。

(そうだ、おまえは、ひとりでゆける……ゆけるというのに……)

 きつくくちびるを噛んで、春峰は怖気だった背を乱暴に拭いた。熱はいつしか冷め、ただ痛みの余韻と粟立った膚だけがざわめいている。




「おかえりなさい、青浪」

 待ち人が房に戻り、深玉はもてあそんでいた玉の環をかたわらの卓に置いた。

 暗い室内にぼうっと浮かび上がる白皙を、つぶさに観察する。魂の抜けたような呆けた表情で、青浪はまるで病人だった。その視線がゆっくりと深玉のほうを向き、捕えた瞬間に彼女の中に魂が返る。常人の生活を思い出したように、眸に生気が返る。

「深玉さま。起きてらしたのね」

「うん。目が覚めてしまってね」

 深玉は薄く微笑んだ。青浪がぱちぱちと瞬き、衣を脱ぐ。その裾は泥に汚れていて、彼女が外に出ていたことが知れた。うっすらと甘いかおりが漂う。彼女はいつも花や木の実の、自然にありながらひどく不自然なかおりを身にまとっている。深玉は深く息を吸い、下着姿になった青浪に胸を開いた。

 青浪がとてとてと歩き、彼に身を預ける。白く細い首筋に鼻を押し付けて、耳の裏をちらりと舐めた。冷たいからだと甘いかおりが、深玉をひどく興奮させる。夫がありながら夜ごとどこかへ出てゆく彼女の裏切りが、深玉をたまらなくさせるのだ。切ないような、苦しいような、奇妙な心持に。

(それでこそ君だ)

 深玉は、ひと目見たときから、彼女をずっと愛そうと思った。そう春峰に漏らしたことがある。その通りだ。

「君を抱きたい」

 そう言って笑う。滑稽だと思っている。夫だ、妻を抱こうが己の勝手なはずだった。だがそうではない。そうではないと知りながら深玉はこの家へと入ったのだ。麓では有名な話だった……山の上に、魔物が棲みついていると。それは玉蘭のことを指して言う言葉だったが、深玉は青浪にこそふさわしい言葉だと思った。もっとも、魔物の子が魔物であることは当然だろう。

(見た目だけならば、魔物はお義兄さんのことだろうけれど)

 戦役で、と言っていた。彼はきっと、ああなってしまう前には、青浪のようにうつくしいおとこだったに違いない。玉蘭の美貌を見ればわかることだ。義母も、ひどく不自然な顔をしている。この土地の顔じゃない。貴人の面でもない。もっと野卑で、野蛮な面だ。それを、この家の者はみな備えている。丹でさえそうだ。彼女は玉蘭についてきたおんなだという。故郷を同じくしているのだろう。余所者の一族には、麓のものや深玉とは違う血が流れている。

 青浪が、ふと身じろいだ。首だけで振り向いて、間近に深玉を見つめる。真っ黒い眸が、深玉の感情を浚った。

「足を清めなければならないの」

 一瞬、深玉は首を傾げた。それから彼女の小さな足を見て、あぁ、とうなずく。麓の村人にこんなことをする人間はいないが、深玉は腐っても名家の人間だった。姉や妹は、確かに小足のおんなたちだったと思い出す。

「僕に、しろと?」

 からかうように問えば、青浪はくちびるの端をきゅっと持ち上げる。えくぼが出来て、幼い容貌と笑顔に不似合いな煽情的な返事だった。

「本当に、しようのないひとだね」

 深玉は寝台を下りて、青浪の前に跪いた。布靴を片足ずつ脱がせると、独特のにおいが鼻をつく。むっと胸を濁らせるような不快なにおいだ。さらにやわらかな下ばきを脱がせれば、包帯に包まれた足がすがたを見せる。三角形の小さな足だった。深玉は包帯越しに、足に頬ずりをした。

(なんてひどいにおいだろう。彼女はこんなにも甘いひとなのに)

「ほんとうに?」重ねて問えば――「してくださらないの?」、青浪が足を引っ込めようとする。その足をやわくつかむ。

「おとこのかたに見せるのは、深玉さまが初めてよ」

「お義兄さんにも見せたことがない?」

「当たり前だわ。どうしてわたしが、お義兄さまに見せられるかしら。そんなことは外でもないでしょう?」

「そうだねぇ……」

(足は見せないのに、君は彼を)

 深玉は包帯をさすり、それからそっと手をかけた。くるくると包帯を取り去ってゆく。その下からのぞいたものに、深玉は一瞬、まだ何か履いていたのだろうかと勘違いをした。それから、すぐに自分の間違いに気が付く。左足の包帯を去ったところで、深玉は手を止めた。

「…………」

 ゆがめられた小さな足、その甲をびっしりと覆う褐色の文様が、深玉の呼吸を浅くする。汚臭はいっそう濃密になったが、もはやそれは深玉の興奮を高めるための淫香だとしか思えなくなった。はだかの足に、文様。異民族の証。彼らと深玉らとを決して交わらせない、越えられぬ溝たるうつくしい、文様……深玉は気が付けば、青浪の足に舌を這わせていた。

「深玉さまぁ……」

 目だけで上を向けば、青浪がうっとりとした顔で己を見下ろしていた。いたいほどの満足感が胸を満たし、ぴちゃぴちゃと唾液を足に垂らす。小さな足、ゆがめられた足の隙間という隙間にたまった垢や膿の名残りを、舌さきを硬くして浚う。清める。汚した。咥内にざらざらとした汚物の感触がある。唾液でほどなく柔らかくなったそれを飲み込む。ごくりと動く喉元に青浪の視線を感じた。

「すきよ」

 手が伸ばされ、深玉の髪に差し入れられる。くしゃりと掴まれて、深玉は足を噛んだ。ぴくりと足が跳ねかけて、深玉は歯を立てる。とても嫌なにおいがする。隅々まで、あますところなく、彼女の足を舐めしゃぶる。空いた手で右足の包帯を外してゆく。彼の甘露はまだ尽きない。下腹と言わず、全身が熱かった。何かに取り憑かれたように、深玉は夜明けまでずっと、ただひたすらに背を丸めて、異様な息を吐きながら、汚く小さな足の味を覚えた。

(あぁ僕は、彼女の夫になるために生まれてきたんだ)

 つる草と花の文様は、小さな足がねじれるまえに彫られたものに違いない。ぐんにゃりと曲がって、人の手を借りずに伸びるままに伸びた野草のごとく、いびつな生命を誇っている。彼女は野辺に咲いた花とはまるで違う存在なのに、その足でさえゆがめられたものだというのに、文様だってまさか生まれたときから刻まれていたものではないというのに。なのに。

 青浪という娘は、自然に生まれいでた畸形だった。誰の力も及ばないものだった。外がわからどんな力を食らい、そのすがたを変えようと、春峰が容貌とともにその性質を変えたようには、彼女は変わらないだろう。愛らしい顔が失われようと、小さな足に縛られようと、彼女の心は羽ばたくだろう。飼い鳥を嫌うのは当然だ。とくにそれが、画眉鳥のごとく鳴き真似をする鳥だったらば。万年青の鉢とて同じだ。深玉を森ではなく花苑にともなうのも。同じだ。

 唾液にてらてらと光る足を見つめて、深玉は顔を上げた。朱い頬をした娘が、熱い息を吐く。その肩を押せば、彼女はくすくすと笑いながら睡床に倒れた。襟に手をかけて、深玉は彼女の薄い胸に顔をうずめた。決して越えられない肉体の壁を食い破りたいのだと伝えるために、彼女のからだを暴く。それが深玉にゆるされた唯一の行為であり、同時に無駄なあがきだと悟っている。

(だが、本当に? ……僕はたしかめずにはいられない)

 貝に硬く守られた真珠を、ひとは盗むだろう。その宝に穴をあけて糸を通し、首に飾るように、深玉は青浪を抱く。

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