二章 无名草
菊花と忘憂(1)
深玉がこの家へ来てから、ひと月あまりが経とうとしていた。
秋は終わりかけ、森には果実の骸がそこかしこで甘いかおりをはなつ。しんと冷えた夜など、死からにおいたつ気に胸を膨らませて、深玉はひっそりと笑うのだった。森に足を運ぶのは、彼の日課となっていた。そのあとは房に戻り、何事もなかったかのように青浪を迎える。寝たふりをして、あるいは眠れなかったと、目が覚めてしまったと微笑んで。
明くる朝の遅い目覚めを咎めるものはなかった。梔子は「お嬢さま」の目覚めを今かと待ちわびているが、深玉がいると彼は黙りがちになる。
夜ごと森に響く殴打の音、おとこのうめき声、そして叱りつけるような、甘えるような、滑稽な媚態……。
「おはよう、青浪」
幼児のような寝顔にそう語りかけると、彼女はぼんやりと目蓋を持ち上げる。睡り足らないのだと言いたげなとろけた目は愛らしく、小さなあくびを噛み殺す様は深玉の劣情を掻き立てる。佳人という顔だちではないが、青浪はただ青浪としか言いようのない愛らしさを備えている。真っ黒い眸と真っ黒い髪に映える白皙は、昼に夜にと野山で遊ぶ娘とは思えない。肌理細やかな頬をするりと撫でて、深玉は思う。
――僕は彼女の虜だ。
稚く獰猛なこの娘は、彼の心を捕えて決して離さない。くしゃくしゃに乱れた前髪を手で梳ってやると、青浪が花綻ぶように笑った。すこしだけ歯がのぞき、そのくすんだ黄色が蕊のようだと思った。
「おはよう、深玉さま」
音韻のはっきりしない、おっとりとした話しぶりに、深玉はやはり笑う。深窓の令嬢のように育てられたであろう青浪、その身の異様を知ってしまってからはなおさら、深玉は愉しくて愉しくてならないのだった。
「ずいぶん眠たそうだよ、青浪。もうひと眠りしたらどうだい」
「ううん……起きるわ。今朝はうんと冷えるのね」
「そうだね。やっぱりこちらは、麓よりは寒いみたいだ。真冬がおそろしいよ」
「でも、深玉さまがいらしてから、夜は温かい日が続いているようですの」
「そうだねぇ……僕もそう思うよ。君はとても温かいから、湯たんぽを抱いているみたいだ」
うふ、と青浪が笑って、深玉は睡床から滑り出た。青浪も次いで布団からもぞもぞと出て、小さな足が床に着く。
「今日は何して遊ぼうか」
そう言うと、青浪は目をきらりと光らせて、谷川へゆきたい、と言った。
「菊が終わってしまうまえに、見にゆくのよ。しばらく雨は降っていないでしょう? だからきっと、おにいさまもよいとおっしゃるわ。深玉さま、青浪を谷川に連れて行ってくださるかしら?」
「もちろん。この山はどこを見てもうつくしいから、僕が気を取られていたら、叱ってくれるかい。君の椅子を滑らせたりなんてしたら、お義兄さんに殺されてしまうよ」
「まぁ、それは大変よ」
その言葉の抑揚のなさが、深玉の気を引く。ふと顔を見れば、青浪は窓の外を見ていた。
「おかあさまだわ」
「……何だって? この時期の前後は、いちばん忙しいのじゃなかったかい。取り立てで、どこでも大わらわだと……この前話してらしたけれど」
「そうね、おかしいわ。おかあさまは、冬にならないとお戻りになりませんのに」
「迎えにゆくよ。青浪、着替えておいで。外はとても寒いはずだから」
「えぇ……」
深玉は手早く着衣を整え、羽織を取った。廊下へ出れば梔子が立っていた。深玉に気が付くと少年は卑屈な笑みを浮かべ、うかがうように腰をかがめる。深玉は鼻を鳴らし、「青浪の支度を手伝え。お
「え……? 奥様が!?」
梔子は目を白黒させて、迷った挙句に房へと飛び込んでいった。
(丹は知っているだろう。あの子が知らせずとも)
そんな確信があり、深玉は迷うことなく家屋を出た。
行列がやってくる。
玉蘭は輿に乗り、幾人もの人足を引き連れていた。たくさんの行李や包みが馬に荷車にと満載されており、深玉はほうとため息を吐いた。いったいどのような商売で、これだけの富貴を誇れるだろう。それなのになぜ、このような辺鄙な場所に居を構えるのだろう。
「お帰りなさい、お義母さま」
止まった輿に近づいてゆく。御簾をよける手は青浪のそれよりも幾分か大きく、乾燥している。その手が黙って空で止まり、深玉はそっとそれを引く。まず左足が、それからかがんだ首がぬうと外へと突き出され、左足が地を踏みしめると深玉の手にも力が込められた。右足をずるりと引き抜くように輿からいだし、ようやく両足でしゃなりと立った玉蘭が首を伸ばす。
そう、彼女は大女なのだ。深玉よりも背が高い。
「深玉、子は出来ましたか」
ゆったりとした視線が向けられたかと思えば、ただいまと言うでもなく玉蘭はそんな言葉を投げた。深玉は苦笑いして、首を振る。
「まだではないでしょうか。もっともおとこの僕にはきざしは分かりませんから、お義母さまが検分なさるとよいでしょう」
ふん、と鼻を鳴らす。玉蘭はその身長もあって、ひどく威圧的な印象をひとに与える。実際、青浪や春峰、そして梔子らはこのひとを異様なほど恐れている。深玉がこの家に初めて来て悟ったのは、そんなことだった。
(身の丈が大きく、おんなだてらに商売をやろうが、彼女は尋常のひとだろう。魔物と言われようと、なにもひとを取って食うというわけでもあるまい)
そう思っているが、深玉はまだ玉蘭の残酷な面を知らないだけかもしれぬと思いなおす。それを知ったとて、まともに驚くことが出来るかは疑問だったが……深玉は首を振った。玉蘭の手を引き、家のなかへと導く。
予想していた通り、丹が湯を張った桶を手に待機していた。かたく絞った手巾を載せた盆を梔子がささげている。その横には青浪があり、手巾をひとつ取っては、玉蘭の汚れを繊細な手つきで拭った。輿に乗っていたのだから、人足のようには汚れようがないだろうに、まるで墓を清めるように畏れを多分に含んだ手で、娘は母を拭う。
深玉はその光景をしばし見てから、その場を離れた。誰に何を言われずとも、自分が部外者であることくらいは察せられる。
中庭に出ると、ちょうど離れの入り口に春峰が腰かけているのが見えた。彼はかたわらに画眉鳥の籠を置き、ぼんやりとしていた。その面貌さえ見なければ、すがたはとても涼やかですっきりとしているというのに……深玉が近づくほど、おぞましい顔が陽光に照らされ、そのいびつな凹凸をくっきりと見せる。
「おはようございます、お
「あぁ……おはよう、深玉」
深玉は春峰の隣へ腰かけた。つとめて彼の顔を見ないように、方楼の真中、この庭から空を見上げる。冷えた空気は澄んでいて、濁りがない。甘い果実の腐臭もしない。人足が家の外でなにかを怒鳴りあったり、荷を運ぶ騒々しい音だけが聞こえた。方楼の壁は高く、そのすがたは見えないのだ。
「母上は、あなたたちに子が出来たかと尋ねに帰ったんじゃないのか」
「その通りですよ。開口いちばんに聞かれました。ぼくにはわかりません、と答えましたけどね」
「あなたは度胸があるな。あの
春峰の荒んだ口調に、おやと思って深玉は彼の顔を覗き込んだ。すばやく首を逸らされて、「すみません」と咄嗟に謝る。
「お義兄さんたちが、みなお義母さまのことを恐れるような口ぶりだから、気になってしまったのです」
「いや、きっとあなたには関係のないことなのだろう。あなたは母上に気に入られたからこそ、ここへいるのじゃないか。あなたの家に、母上は行っただろう? 婿にと望むのだから、当然のことだろうが……」
深玉は、半年ほどむかしのことを思い出して、不意に笑った。
(お義兄さん、あなたの母上はどこにあっても魔物扱いでしたよ。我が家でも、まるで主人のように振舞った……だから僕が青浪の婿という栄誉に浴することになったのです)
ぎょっとしたように春峰が肩を弾ませ、一度は目を逸らしたのも忘れて深玉を凝視する。醜悪な容貌を正面からしかと見つめて、深玉はなお笑った。
惨い火傷のあと、それから刀剣による負傷と思われるいくつもの引き攣れ、凹凸の激しい膚、ゆがんだ鼻筋……片目はつぶれ、髪の生え際は剥げてしまっている。三年前からこうなってしまったというが、春峰の傷はいつでも生々しく、今でも痒みがあるのだろう、掻き壊しによる瘡蓋が顔面の凹凸をいっそう醜く見せている。乾燥した皮膚が垢のなにか不気味な渦を成し、剥がれては薄桃色のつるりとした膚を晒す。半端にめくれた皮膚のかけらは血がにじむせいで赤く、見ているだけで痒みが伝染りそうだった。
きっと傷を受けるよりまえは、左右対称の見目うるわしい青年であったろう。そんなことを思いながら、深玉はふっと目を伏せてくちびるを開く。
「僕は、なりそこないなんです。家にいても、どうせ四番目の男児でしたから、婿入りできてしあわせなんです」
「なりそこない……? あなたは立派な若者だと思うが。なりそこないと言うならば、おれのようなおとこだろう」
卑屈な言葉に内心で肩をすくめつつ、深玉は薄く微笑んだ。笑いが腹の底で暴れている。外に出たいとざわめいている。
「僕のよいところといえば、青浪を愛しているところくらいです。僕を立派なひとだと言ってくれるのは、きっとお義兄さんくらいなものでしょう。そうですね……僕はあなたのことも好きですよ、お義兄さん。僕たち、うまくやっていると思いませんか?」
くっ、くっ、と深玉はかすかに体を震わせた。春峰がじっと己を見つめているのがわかる。うまく着つけられていない衣の袷が不格好で、深玉は忍び笑いながらその袷を整えてやった。喉首にさらりと指をかすめてみると、春峰がひゅっと鋭く息を呑んだ。
「すみません、指がかすめてしまった」
そう言うと、春峰はいや、と目を細める。
「ありがとう。どうも寒い日がつづいて、手ゆびの先が細かに動かないんだ」
「つぎからは、丹に頼むとよいでしょう」
「あぁ、そうしよう。あなたはひとの世話焼きに慣れているようだ」
「きょうだいがたくさんあったのです。僕はひとつ下の妹の世話係でした。ですから、青浪を可愛く思うお義兄さんの気持ちもよくわかっているつもりなんですよ」
春峰が黙り込み、その沈黙が不穏なものに思えて深玉はゆっくりと立ち上がった。
そろそろ玉蘭も身を整え、食事を共にすることになるだろう。春峰はきっと来ない。そう思いながらも、深玉は軽い調子でくちびるを開いた。
「お義兄さん、お義母さまも帰っていらしたことですし、たまには朝食を一緒にどうです」
「……いや、それは」
春峰は籠に手を這わせ、鳥がひょろろ、と鳴く。目蓋の引き攣れのせいで細い目が、深玉を捕える。真っ黒い眸にじっと見つめられると、深玉の胸は弾んだ。たといそれが、醜い義兄の眸であろうと。この家の人間の視線というものを、こわいほど欲している己があった。深玉はにこりと笑う。
「あぁ、気が回らなくてすみません。余計なお誘いだったようです」
言い放って、深玉は見せつけるようにしなやかにからだを伸ばし、うーんと天に腕を突き出した。そして、すたすたとまっすぐに、誤らぬ足取りで母屋に向かった。
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