菊花と忘憂(2)


「まさか僕たちが菊花摘みを頼まれるとは思いもよりませんでした」

 かすかに微笑みながらそう言うと、春峰も苦々しい頷きを返してくれた。深玉は山に分け入り、谷へと下りて、群生する野菊の若々しいものを摘み取ってゆく。片手に下げた籠に山盛り持ってゆかねば、玉蘭の言いつけた用には足らぬだろう。不器用な手でぶちりぶちりと花をむしる春峰をわき目に、深玉は身を切るように冷たい川につま先を浸した。片手では気のない風に花を摘みながらも、彼は足先の凍える心地に目を細める。

「冷たくはないのか」

「いえ、冷たいですよ。とても。お義兄さんにはおすすめしません、傷が痛むと困りますから」

 そう答えながらも、深玉の声は愉しい気持ちでいっぱいだった。春峰がわからない風にため息を吐くのを聞いて、彼は笑う。

「おかしいとお思いでしょう」

 言えば、春峰はぎくりとしたように身を強張らせた。これ以上おかしいものを認めたくないとでも言いたげだ。彼はどうも、深玉を「立派な若者」と考えすぎるきらいがあるように感じる。深玉はしばしば会話のなかで己のことをどうしようもないものだと告げるのに、春峰は律儀にもそれをいちいち否定してくれる。それは心地よく、同時に疎ましいものだった。あなたはまだ若い」

「たしかに、お義兄さんに比べれば、まだほんの子どもかもしれませんね」

 実際、深玉と春峰は一回りも違う。春峰と青浪の年齢はかなり離れているから、義弟といえども齢の近いきょうだいとは違うのだろう。どうも春峰と青浪のあいだにも幾人か子どもがあったようだが、いずれも長ずることなく死んだらしい。梔子が、伝え聞きをさらに教えてくれたのだが、彼はその話を忌んでいたように思える口ぶりだった。幼い少年には、自分の身にも振りかかる可能性のある死が、恐ろしく思えるのだろう。

 幼児は死ぬものだ。

「それにしても、菊花酒ですか。風雅なものですねぇ。この家のかたは、どなたもお酒を召し上がらないものかと思っていました」

 玉蘭が今朝、ふいに言ったのだ。菊花酒を作っておくれと。ただ、丹は玉蘭がいる以上家を離れることはあり得ず、まさか青浪がそんな用聞きをするわけもなく、梔子では幼すぎる。深玉と春峰という、この家に仕事を持たないおとこたちが花を摘むという似合わぬ役割を得たのは必然だった。

「僕は、青浪と菊花を愛でようと言っていたところだったんです。お義兄さんもお誘いしようと話していたのですが、まさかその青浪が来ないとは」

 肩をすくめて見せると、春峰は幾分か強張った顔で顎を引いた。

「母上がいるときは、あれはそばを離れぬだろう」

「そのようですね」

 今朝も、食事を終えれば、青浪は玉蘭の膝にべったりと張り付き、街の話をねだっていた。つねはそんなことに興味を示す青浪ではないのだが、母は特別と言ったところだろう。深玉は見向きもされず、青浪は夜でさえ母親の寝室で眠っている。

「僕は寂しいものです」

「いずれ慣れよう。それに、母上とてまさかこのまま家に居つくわけでもないと思うが」

「そうでしょうか? 僕にはどうも、母上は青浪を僕に与えたくないのかとばかり……いえ、邪推でした」

「いや、それもあるだろうな。あの女人は青浪を溺愛しているんだ。それこそ目にいれても痛くないほどには。おとこのおれには見向きもしなかったが、初めて生まれた娘には、むかしから目じりを下げる。あの女人なりに、青浪を愛しているのだろうな。花苑にあれほど花があふれたのも、青浪が望んだからだ。むかしはもっと殺風景な、ただの草原だった」

「へぇ……何やら以外な心地です。青浪が愛されて育ってきたことはわかりますが、お義母さまがそのように娘をいとおしむすがたはあまり想像がつきません」

「おれもだよ。子どものころは、彼女がひとを愛せる人間だとは思わなかった」

「娘だったからでしょうか」

「さぁ……」

 谷川をゆく風は道を誤らずに冷たく、強く吹きつける。ゆるく束ねただけの春峰の髪がぶわりと膨らみ、紐があえなく水中に落ちるのを見た。深玉は何気ない風に花籠を岩のうえに置くと、着衣のままざぶんと谷川に身を投げた。

「深玉? ……深玉!?」

 春峰の叫びが聞こえたが、彼はまず追ってはこないだろう。急流に紐が遠ざかる。褪せた若芽色の紐はほとんど白く、あるいは血染めで薄い褐色に染まってはいたが、それだけ春峰が大切にしているものであろうことは簡単に予測出来る。つかんだ、と思ったときに激しい流れに打たれ、凍えるような水中で深玉は身を砕かれた。

 一瞬意識が吹き飛びそうになったが、流れの時宜を図り、岩に手をかける。つるりと滑りかけて、爪を立てた。ゆび先が軋みを上げたが、痛みが遠いのは冷えたせいだろうか。それにしても、谷川というのは激しいものだ……深玉が今まで戯れてきた湖沼や細い川とは何もかもが違う。

 顔を出して水を吐き出し、ぶるりと頭を振る。

「深玉!」

 そんな声とともに、力強い腕が脇に差し入れられ、まるで子どものように持ち上げられてしまった。思い下半身がずるりと水から脱け出でて、風がぶつかり寒さが増したように思える。だが、それもつかの間で、深玉は温かいからだに包まれていた。岸に引きずりあげられて、おとこの胸に抱かれていた。膚は熱く感じるほどで、深玉が震えれば抱く腕はいっそう強くなる。

「おまえは……! いったい何をしているんだ!」

(そう、声だけならば、お義兄さんはまるで……)

 ひそかに笑って、深玉は震え強張る手を開いた。水にぬれた髪紐があり、それを見た春峰の胸が深くうごめいた。

「飛んでゆくのが見えたのです。大切なものだと思ったので、飛び込んだまで……」

「馬鹿が。そんなもの……おれの髪紐など」

「ですが、僕は水には慣れていますし、ひとりでも上がれましたよ。それにここの水は不思議ですね、とても冷たいのに、何故だか甘い」

 微笑むと、春峰の顔が強張る。からだに緊張がはしり、彼は今更のように深玉から顔を逸らした。

「……ありがとう。だが、このようなことは二度とするんじゃない」

 ぶっきらぼうだが律儀な礼に、深玉はくすりと笑い頷く。ふるりと震えると、驚いたように春峰が飛び退り、深玉は解放される。熱いからだが離れてゆく感覚がなにか名残り惜しく、深玉はすこしばかり目を細めるのだった。醜い顔に羞恥の色を浮かべる春峰は、言いようもない奇妙さをたたえていたが、深玉には彼に対して嫌悪の情などはふしぎなほど湧かない。

 無論、その顔にくちびるを寄せたいなどとは思わないが、春峰の容貌を見つめながら青浪の面影を重ねてみたりするとき、深玉ははたして春峰が無事だったらばどうであったろうと考えてしまう。

 深玉の不躾な視線に居心地悪げに身じろぎ、春峰は上着を脱ぐ。深玉を抱えたせいで湿ってはいるが、春峰のぬくもりを分けられた衣はあたたかく、青浪と同じ果実の甘い香りがする。

「羽織っていたほうがいい。しばらく、おれが花を摘むから、あなたはそこで休んでいるんだ」

 かすかに耳が赤いままだ。

 深玉は彼のことをすこし見つめて、素直に顎を引いた。

「ええ。ありがとうございます、お義兄さん。かえって面倒をおかけしますね」

「いい。あなたの言った通り……大切なものではあった」

 一瞬、春峰が髪紐に愛おしむような視線をくれた気がした。彼は乱雑に髪を束ねると、再び花籠を手に菊花を摘む。不器用に強張る指さきが、花をむしる。まるで無造作に、花を痛めつけるような手に思えたのは、深玉の思い過ごしだろうか。

(お義兄さんはきっと、花神を信じているに違いない)

 ぎゅっと胸元で衣を掻き合わせて、深玉はその襟のかおりをそっと吸った。

 かすかな汗と、やはり果実の甘いかおり、そしてどこかほこりっぽいようなおとこのにおいがする。

(あなたが未だうつくしいままであったらば、そう、僕が這入りこむことは出来たでしょうか? 青浪が僕を夫としたのには、あなたが思うよりずっと、いろいろな情があるように思いますよ、お義兄さん)

「……菊の群生のせいで、谷川の水が甘くなるという。ここの谷川の水は神仙の甘露だといって、不老長寿の効能があるとか、病が治るだとか……そういったうわさを真に受けたものたちが、時折足を滑らせてここで死ぬことがある。遺骸は引っかかっていることもあれば、どことも知れぬ場所まで遠く流されてしまうこともある」

 突然放られた言葉にしばし首を傾げて、あぁ己の言ったことだったかと深玉は頷いた。

「へぇ……では、死体のせいで水が甘くなるんでしょうか?」

「え?」

「果実が腐れたと青浪がよろこんでいました。甘いかおりが森じゅうを漂っているのだと。ひとの死骸も腐れると甘くかおるのかもしれません、きっと、この森のなかでは。そんな気がしませんか」

 春峰が奇妙な顔で振り返り、まじまじと深玉を見つめた。

「あなたはすこし変わったことを言うのだな。ひとの死骸は甘くかおったりなどしないよ」

「あぁ……戦役が」

「あなたは死を……」

 春峰が、不自然に言葉を途切れさせる。そのどこか気持ちの悪い沈黙を甘受して、深玉は立てた膝に顎をつけた。春峰は何事もなかったかのように菊をむしる。ちょっとした戯れだったが、深玉はもうすこし春峰を慮るべきだったのだろうと思った。

 春峰がつぎの群生にあたりをつけ、しっかりとした足取りで離れてゆく。深玉は寒々しい岩のうえから、凍てつく風を受けてなおゆらりと咲く菊を眺めた。くちびるがすこし痛い。関節も。

「……そうですねぇ。ひとの死体はひどいにおいがしますね。それに醜い。あなたのようではありません、もっともっと醜いですよ。死体の浸かった水なんて、きっと酸いでしょうね。でも、それが愛するものの死だったらどうです。水は甘くなりますか、それとも苦くなりますか、酸いままですか。僕は、戦争なんざ知りませんし、あなたの啜った水の味も知りませんが……それでも、この川の流れ落ちゆくそのさきに暮らしていたんですよ。死体の流れる川の水は、あたりまえすぎて、どんな味もしやしません。ただ……湖沼の水はいけませんね。口に苦くて仕方ない。蓮が咲いても、清められぬだけの汚わいが沈んでいるんです。あなたの知らない俗悪が、戦場にもない粘つくものが、たくさん……蓮を咲かせるんですよ。そう、だから、甘いかもしれませんね、やはり」

 寒風が谷をはしる。打ち据えられて深玉は身震いし、立ち上がった。ぐっしょりと濡れたのだ、春峰の衣ももう乾いている部分はなく、ただ身に張り付いては冷たいばかり。遠い背中に呼びかけるために、白くなった手を口に添えた。目につく己の手ゆびは細く、春峰の手とは違う。同じおとこであろうと、己はむしろ青浪おんなのような……やわげな容貌をしているのだろうと思った。

(立派な若者、の、ような……?)

「お義兄さーん、そろそろいいんじゃないでしょうか。ここらの菊花をみんな摘んだら、きっと花神がお怒りになるでしょう。お義母さまよりもずっと恐ろしくはないですか、そちらのほうが……」

 言いながら、深玉は水を吸った分重くなった衣を引きずって、ぼんやりと立つ春峰のもとへと向かう。

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