菊花と忘憂(3)

 お決まりのように、深玉は風邪を引いた。時折そろそろと梔子が様子をうかがいにくる以外に部屋を訪うものはなく、青浪は変わらず玉蘭にべったりと張りついている。玉蘭の膝に伏せる青浪は、そのまま連理の樹のように癒着してしまうのではないかと思った。

(あれ……)

 視界になにか見慣れぬものを映した気がして、鈍く痛む頭をかばいながら、深玉は身を起こした。

 時間の感覚が曖昧だが、部屋は薄暗い。白けた闇の色は明け方近くだろう。ぐずりと洟をすすって、慎重に立ち上がり、小卓に手を伸ばす。

「誰が……こんなものを」

 そこには、籠に盛られた柑橘があった。まるく転げる愛らしい見た目の果実は、ここらに果樹園も多い。玉蘭が持ち帰ったものだろうと思われたが、いったい誰がこの房まで届けてくれたのだろう。梔子はいつも深玉にひと声かけてゆくだろうし、贈られたものであればなおさら言伝を欠かすことはあるまいと思われた。

(……お義兄さんか)

 ひとつ手に取ろうとすれば、おぼつかない指さきから蜜柑が転げた。よいものなのか、ずしりと思いのほか重たげな音が響く。腰をかがめて拾い上げれば、落ちたところがへこみ、湿り気を帯びていた。

(食べなければ、ここから傷んでしまうのだろうね)

 皮を剥くが、厚く、ぼろぼろと千切れてしまう。橙色の果実の皮を床に捨てて、大ぶりな房をひとつ剥がす。口に放り、ぷつりと薄皮をかみ切れば果汁があふれた。甘味と酸味が瑞々しく舌のうえに広がり、突然ふわりとかおる芳香に、一瞬むせそうになる。玉蘭の土産とすれば、きっととても良いものなのだろう。

「おいしい」

 からからに乾いた喉を潤すには、蜜柑はちょうどよかった。深玉はひと玉をぺろりと平らげて、果汁に濡れた指を舐める。

 不意にそのとき、息を呑むような音が聞こえて、深玉は暗い部屋を見渡した。誰もいない。だが……とさらに意識を広げかけて、深玉は意地の悪い気持ちで寝台に戻った。見えもしない侵入者の鼓動が、聞こえてくるような気さえする。しばらく布団に丸まってじっとしていると、不器用に階段を下る足音をとらえた。きっと必死に音を隠そうとしているのだろう、足運びはひどくのろく、不揃いな足音がよけいに響いていることなど気がついてもいないに違いない。

(お義兄さん)

 掛布のなかで忍び嗤って、深玉は目をつむった。頭に濃く煙っていた霞は晴れ、痛みは遠ざかった。蜜柑の酸味が舌の裏に残っているように感じて、ぞろりと己の口中を舐める。唾液がどっと湧いて、笑いながら蜜柑をもうひとつ手に取る。はっきりと操者を取り戻した手は、今度は甘い実を取り落とすことなく、しっかりと掴んだ。橙色のまるい実は、暗闇のなかでも見事な艶を放っていた。籠に盛られた蜜柑はあと三つ。深玉は皮を床に捨てながら、だらしなく寝そべったまま房の薄皮を犬歯で破る。





 玉蘭が街方に戻ってしまってからというもの、青浪の機嫌は山の天気のごとくうつろいやすい。もとより気ままな性質の娘ではあったが、深玉に対してはどこか遠慮と呼べるようなものがあった。それが取り払われたことを、彼は喜ぶべきか、それとも。

「深玉さま、こちらに泉があるの」

「青浪、足もとに気をつけて。ぬかるんでいるよ」

「あら、大丈夫だわ。深玉さまがきれいにしてくださるもの」

 嫣然と笑う妻に、深玉は微笑みをかえす。

 ちいさな沓は踊るように森を進み、言葉通りに雨上がりの泥濘を跳ね上げる。ここに至るまでともに椅子を運んできた春峰は、待っていてとの言いつけに従っている。振り返ればその背中が見えて、深玉は青浪と彼の背中を時折比べながら、不思議な高揚感に息を深くするのだった。

「ねえ……」

 顔を前に戻すと、青浪が彼を覗き込んでいた。大きなまるい眼が深玉の眸の底を浚おうと試みる。彼女のすきにさせながら、深玉は微笑みを絶やさなかった。それが気に入らないのか、青浪がすっと目を細める。見通せないと駄々をこねるように、深玉の首に腕を回す。甘えているかに見えるだろう。彼女がからだを近くするとき、深玉はいつも、春峰を思わずにはおられない。彼女がこうしたいのは、春峰なのではないか。深玉という、透く玉を通して、春峰を求めているのではないかと、そう思うのだ。そしてそんな己と青浪とが、滑稽でたまらなくなる。

(僕の眸を見たって、どうにもならないだろうに)

 深玉は青浪を愛しているのだから。それ以外の事実が見通せようはずもない。それが青浪の気に入らぬところであろうとも、深玉はいっさい変わるつもりがなかった。妻を愛しているというそれだけのことに、不都合があろうか。この、婚姻を結んだ己と青浪のあいだに。

「深玉さまは、どうして青浪に隠しごとをなさるの?」

 拗ねた口調に、苦笑を返す。

「隠しごとなんて、ひとつもないよ」

「うそだわ」

「じゃあ、なにが知りたいんだい? 君はなにを聞きかじって、僕を不誠実だと言うのかな」

 お返しとばかりに青浪の眸を覗き込む。渦を巻く黒い眸は純粋で、揺れることがない。だが、意地の悪さや計算高い色が見え隠れして、深玉をどう躱そうかと考えているようにも思えた。それはかわいいものであり、深玉にとってはどんな脅威でもない。妹のことを思い出して、深玉は彼女が悪いことをしたときにこんな目をして甘えてきたと懐かしむ。幼児は、誰であれば許してくれるのかを、驚くほど鋭く見抜くものだ。許されぬひとに許されぬことはしない。その点青浪は、幼児であるのかそうでないのか……深玉には判じがたかった。

「麓を追い出されたのは、なにか悪いことをしたからって、本当?」

「本当だよ。……追い出されたのではなくて、君の家に婿入りしたのだけれどね」

「なにをしたの?」

 青浪の問いに、背後で誰かが――春峰が身じろぐ音がした。

(あぁ、彼はなにも知らないはず)

 くすりと笑って、深玉は身をかがめる。青浪の薄い耳にくちびるをつけて、声をひそめた。

「ひとを殺したんだ]

「まぁ」

 青浪が目を見開き、ぱちぱちと瞬く。あどけない反応に恐怖はにじまず、ただ猫の子のように好奇心を示す。深玉がくちびるに指を当てると、青浪は目を輝かせてつづきをねだる。

「くわしく教えてくださいな。麓のことは、あまり上まで聞こえないの。それってどんな気持ちでしたの? 騒ぎにはなりましたか? いったい深玉さまは、どなたを殺したんですの?」

「君、すこしも怖くないんだね」

「えぇ。だって、おにいさまは戦から帰られたんですもの。そんなことはちっとも話してくださらないけれど、きっと誰かを殺したのでしょう。だから、おにいさまは帰ってきたんじゃありませんか」

「どうだろう。戦にだって、たくさん役割があるからねぇ……」

 そうか、青浪は春峰のことを人殺しだと思っていたのか、と奇妙な合点がいく。

 深玉の殺人とは違うそれを、彼女はどのように受け止めていたのだろう。あの罰にも似た夜ごとの逢瀬は、いったいどんな意味をもって、彼らきょうだいを繋いでいるのだろう。

「それよりも、深玉さまのお話を聞かせて」

「いやだと言ったら、どうする? お義兄さんだって、そんな話は君にしないのだろう」

 囁きながら、青浪の薄い耳を食む。耳孔にそって舌を這わせて、ぴちゃりと卑しい音をたてる。青浪の肩が震えて、深玉は彼女の背をぞろりと撫で上げた。耳の裏に鼻を押し付けて、そっと甘いかおりを嗅ぎながら、首筋を舐め上げる。そうして下っていけば、白い襟にたどりついた。

 ひらりと揺れる襟を噛み、背に回していた手で細い腰をぐっと掴む。

「ほしいの」

 青浪が聞く。肌寒い森のなかで、背を向けた春峰をきっと……青浪は見ている。深玉と向かい合った彼女の目線の先には、居心地悪げに背を丸めた兄がきっと、見えている。

「いいや、君が僕をほしがるんだ」

 深玉が答える。青浪はぐっと喉を逸らして、白いそこを深玉の前に捧げる。歯で襟を開いて、深玉は青浪の喉笛に食らいついた。きつく噛みつけば、青浪のくちびるを割って低い呻きが漏れる。あどけない少女の高い声はいずこ、獣のようなうなりに深玉は憂いを忘れる。彼女に与えたいという切ない思いで胸が満たされるのだ。青浪は、与えるものではない。与えられるものであるはずだと、痛いほどに感じるのだ。

(お義兄さん、そうでしょう。それともあなたにはわかりませんか。青浪に与えられる、いまのあなたには)

 片手で取り去った上着を落ち葉のうえに広げる。そのうえに青浪を横たえれば、幼げな笑い声が響いた。

「深玉さま、愉しそうだわ。おにいさまが近くにいらっしゃるから?」

「さぁ……どうだろう。ひとのことはあまり気にならないんだ。君はどうだい、青浪」

「わからないわ」

 小さな顔を両手に包むと、青浪がすっと目を細めた。黒い光は黒いまま、深玉を検分するように見つめる。いつでもそうだ、彼女はなにかを探している。それが何だってかまわなかった。青浪が己を見ていなくてもよいのだ。どうでもよかった。

「君を愛している」

 囁いて、細いからだに覆いかぶさる。もう一度喉笛に噛み痕を残そうと顔をうずめた深玉に、青浪が吐息を漏らす。

「……おにいさまは、おとこでなくなってしまったのよ」

 青浪の告白を聞かずとも知っている。しつこいほど「おとこ」と言う春峰の口調、その響きがわからぬほど鈍いつもりはなかった。深玉はがぶりと強く彼女の喉を噛む。血があふれるほど乱暴にしたい。そんな思いを押し込めた。慈しみたいという気持ちがあった。彼女を孕ませたいという思いも。

(この家で、君が孕んだとして……僕はいったいどうなるのだろう)

 義父の不在。ほとんど聞くことのない存在は、果たしてどのように葬られたのだろう。

 深玉はこの家のおとこの不在を、単なる偶然と済ませるほど素直ではない。春峰と青浪の父にして、玉蘭の夫であったはずのおとこが、まさか生きているとも思わない。そして梔子……丹の息子はいったいどこの種なのか。そんなことも、思わずにはおられないのだ。梔子の顔は、そう、春峰や青浪とよく似ていないか。

 うふふ、と青浪が笑う。深玉の賢しらな推測を嘲るように。

「お義母さまが帰ってしまってさみしいかい?」

「ええ、とても。でも、深玉さまがいらっしゃる」

 媚びる口調は、嘘だと如実に伝えた。こんなことはすべて戯れに過ぎぬと言う。深玉も同じように思っている。彼と彼女のやりとりなど、すべて茶番だ。だが、身を硬くする春峰は本物だった。彼だけが、この劇の筋書きを知らぬまま、舞台に立たされている。そう思えてならない。だからこそ深玉は、義兄のことを愛おしく思っていた。

(あなたはどうあっても、盲目の滑稽にしかなれない……役目も果たせずに。寡黙な舌は要らぬものと切って捨てられてしまうかもしれない……)

 彼は悪辣な人間ではない。後ろ暗いところがあるわけではない。

 青浪や、深玉のようには。丹のようには。

 卑小で醜い鬼どもが、ひとの皮を被ってこの家に棲みついているのだ。深玉は血の違う鬼だが、鬼であることに変わりはない。あるいは玉蘭も、気が付いていないかもしれない。だが、彼女は別格だ。踊らされることはない。もっと純粋で酷なものだ。

「君に与えたい。快楽を、愛情を、そして子を。娘を」

 低い声で告げれば、青浪がふと表情を消す。

「……すべてくださらなければ、いやよ」

 返事の詰まらなさに笑って、深玉は行為に没頭する。

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