梔子青の足
跳世ひつじ
序 三年前
帰還
はるか遠い峰は白い領巾のような霞に身を隠し、その有様を暴くことはかなわない。ゆっくりと視線を下してゆけば、青々と茂る草木と、神仙の刃で絶たれたかのような岩壁が同時に眼に映った。その対比のえもいわれぬ味というものは、この山を憎んでいるのだとしても、吐息のひとつもつかずにはおられないだろう。耳を澄ませばどこかで水が砕ける音がする。地を震わせる大瀑布は、この山の抱えるもののうちでもこと凶暴なものだった。絶壁、瀑布、そして高すぎる頂き……そしてその腕に抱かれた、一軒の家。前門こそないが、悠々と大きく、威圧感さえ醸しているその家を前にして、春峰は思わず足を止めた。掻き立てられた郷愁がゆえではない。
もう一歩も動けないような気がしたのだった。重い負傷は醜い痕跡をこの身に残したが、すべて快癒した。足が動かないわけでもなかった。だが春峰は、この家に二度と戻らないつもりで、戦に出たのだ。いつ死ぬのかと心待ちにしながら、ただいたずらに、怪我を重ね……そしてついには死ねぬまま帰った。帰る羽目になってしまった。
(母上……青浪……おれは)
帰路で幾度、自らの命を絶とうとしたか。今更自らの肉体を傷つけることにおそれを抱いたわけではなかった。だが、思い切ることができないまま、醜いからだにはさらにためらい傷が幾条もはしった。その痛みに目の覚めるような心地を覚えながら、いっそ気がちがってしまったらと願いながら、一歩一歩、この道を踏みしめてきたのだった。遠い山に抱かれ、決してその威容を埋もれさせることのない《家》へと。引きずるように足を動かした矢先、春峰は遠雷を聞いた気がした。
「おにいさま?」
記憶のままの、幼いままの青浪の声がして、春峰は弾かれたように顔を上げた。
二階の窓から顔をのぞかせ、春峰の妹がにいと笑う。春の野花の可憐な色をした唇を割り、小さな尖った八重歯がのぞく。のぞいているはずだ。遠くがよくは見えない目で、翳んだ妹の顔を思う。
「青浪……」
知らず、春峰は歯と歯の隙間から絞り出すように呻いていた。そんな彼を知ってか知らずか、青浪ははしゃいだ声をあげる。
「おにいさまね? わたし、すぐわかったわ、すぐよ」
青浪は頬を上気させているのだろう、すぐよ、と繰り返す。そわそわとしている様子は愛らしいが、彼女が彼を迎えるために駆け出してくることはない。
「はやくいらして、おにいさま!」
急き立てる青浪に、春峰はかろうじて頷いて見せた。もう一度にこりと笑うと、青浪は房へと頭を引っ込め、見えなくなる。
(どうしてすぐに、おれだとわかるのだ)
変わり果てた面貌に、こわごわと手を這わせる。伝わるのはおよそひとの膚とも思われぬ感触だ。激しい凹凸、蚯蚓腫れのような傷跡、盛り上がった部分はつるつるとして引っ掛かりがない。感覚はにぶく、まるで仮面でも被っているかのようだ。傷跡をたどる指さきもひどく強張る。特に左手は、夜明けになるととくにしびれがひどく、眠れなくなった。
なにも感触だけの話ではない。己の見た目が、いかに他人を不快にさせるか、春峰はこの帰路ですでに痛いほど理解していた。誰もが顔を背け、指をさし、無垢な子どもは声を上げてその醜悪奇怪な面を詰った。片目は潰れ、無残にも髪の一部まで焼けてしまった。火傷痕から新しい毛髪は生えず、未だ薄らと赤い新たな皮膚を晒している。
未だ三十にも届かぬ齢で、春峰は生きながら死んだも同然だった。
(きっと悪むだろう、このおれの顔を、いやおれ自身を、疎むだろう……)
水を掬うたび、春峰自身こそがもっとも、この面貌を、ままならぬ震える手を悪んだ。二度とは見たくない。この山間の家で、他人のおそれに触れることはなくなるだろう。だが、肉親が、昔なじみの使用人らが……春峰をどんな目で見つめるのか。それを思うとき、彼はやはり死を選ばなかった己と、己の運命を呪った。むざむざと生き延びた己の生き様というものこそが、もっとも醜悪だと思った。
(こんなはずでは、なかった)
外の世界に水を得た。同じように徴発されて兵士になったおとこたちは、気のいいものも多かった。ごく狭い場所で生きてきた春峰にとっては、たといそれが死と隣り合わせの過酷な環境だったとしても、この《家》よりはどれほどましかと思ったものだ。
(なんとむごいことだろう)
(ああ……青浪は、変わらず絹のような膚をしているだろうか。つぼみのような貌をしているだろうか。おれはもう二度と見られぬ顔となった。なにもかも変わってしまった。死にぞこないの、無様なおとこ……役にも立たぬ、おとこに)
苦心して動かす足は鉛のように重く、心はそれ以上に暗い淀みに在った。
「おにいさまぁ、はやく!」
明るく変わりないように思える青浪の声の不吉さが、山から下りる靄とともに春峰を取り巻き、食い荒らす。もはやこの世のどこにも、彼の安寧は存在しないのだと理解される。
――初夏。
むせるほど甘く、ねっとりと重い梔子の媚態だけが、春峰をこの家へと招いていた。
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