四章 三月尽
清怨の娘子(1)
麓には池がある。
春になると水の中で発芽した菱がするすると伸びゆき、やがて水面は叢生する菱の小さな緑色の葉で覆われる。夏になれば白く可憐な花を咲かせるそこが、妹の気に入りの場所だった。彼女を腕に抱いて、少年だった彼はよく池の周りを歩き回った。
「わたくしだったら、お兄様に蓮の実を擲るのに」
「ほんとう? そうだったら嬉しいなぁ。でもお前には、もう婚約者がいるからね」
「でも……顔も見たことがないもの」
「僕はよく知っているやつだが、きっとお前の気に入るおとこになると思うよ。頭もいいし、僕よりもずっと優しいんだから」
「蓮の実を贈ったら、わたくしに何をくれるひと?」
「さぁ……あんまり金持ちじゃないからなぁ。でも、お前のためなら無理をしてでも、素敵な贈り物をくれるはずだよ。お前は何が欲しいんだい?」
「玉の環!」
「おやおや、この前の芝居が随分気に入ったんだね。たくさん持っているだろうに……」
「だって、好きなひとからもらうのは特別だもの」
おしゃまなことを言う少女に、少年はくすくすと笑った。愛すべき妹だった。少年にそっくりの愛らしい面貌に、豊かな感情を漲らせていた。きらきらと輝く眼を覗くとき、いつも少女は「お兄様はおかしな目!」というのだった。そう言われることが何よりも好きで、好きで、好きで……少年は妹と額を合わせて、鼻が触れあいそうに近いところから、つやつやとして黒い眸をじっと覗くのを止められない。
そこにある兄への愛情、そして憧憬、そして恐れを、書物を読むように掬い取りながら。
◆
はっと目を覚ませば、そこが山の上の「化生の家」だと思い出す。
しかしその魔物も死んだのだ……深玉は笑った。かたわらには胎児のように身体を丸めた青浪が眠っている。膝を折り曲げて胸に抱え込み、小さな足を大切そうに守っている。飾り格子の小さな窓から射す光が、春の柔らかな朝の訪れを告げていた。小鳥の囀りが聞こえてきて、深玉はこの家に入ったときに画眉鳥を持ち込んだことを不意に思い返す。
(結局、お義兄さんのところへ渡ったんだったか……)
睡床を下りる。未だ寒さは抜けきらないが、長い九九の日々を終え、春は花とともに咲いて久しい。
玉蘭が死んだことを忘れたようにして、しかし放置された花苑の燃えるほど烈しい生命が、異変を伝える。深玉は、丹の完璧な支配のもとにあった花苑よりも、いまの狂おしいほど必死に花を咲かせる苑のほうが好きだった。彼は従順なものよりも、奔放なもののほうが好きだった。理性で封ずることのできないものをこそ愛していた。
目を覚ます気配のない青浪を放って、深玉は衣を着こみ、房を出る。
妻たる彼女と「仲直り」をしてから、丹との関係も途切れた。というのも、深玉が拒んだというよりかは、丹がぱったりと彼を求めなくなったといったほうが正しい。だがどちらでもいいことだった。深玉にとって、丹などあってもなくても変わらぬ存在なのだ。目立つようになった腹に、誰もが気が付いているだろうに、丹当人も含めて誰もそれに触れようとはしない。孕めば具合も悪くなるだろうに、丹は変わらない。
歩いて家を出、彼は花苑へと向かった。近頃の春峰は、いつもそこにいると知っていた。
青浪と深玉が睦まじくしていれば、彼は驚くほど穏やかに、茫洋として、生きているのか死んでいるのかさえ分からぬような穏やかな表情で息をひそめている。それは冬のあいだ、彼がほとんど死人のように房に籠っていた時とは明らかに違う。見かけることがあっても、意識せねばその存在を認識出来ぬような朦朧としたものに成るのだ。
「お義兄さん、おはようございます」
だから深玉は、毎朝の時間を彼との対話に当てていた。青浪はとてもよく眠る子だったし、丹は早朝忙しく立ち働いている。梔子も同じだ。
「おはよう、深玉」
柔らかく笑う義兄は、牡丹の垣の前で佇んでいた。この家の牡丹は、花の真中から滲むように濃やかな赤がうつくしい、八重の花をたくさんつける。大輪と呼ぶに相応しい華麗な花の前に立つ醜いおとこ、その光景の不釣り合いの奇妙に嵌まったすがたは、深玉を不思議と興奮させる。
「見事なものです。国色天香というのも頷ける」
「おそらく例年より早いな。雪が降った割には、今年の春は暖かいのかもしれない」
「それか、花神がお義母さまの死を悼んで、春の花を早く咲かせたのかもしれませんね」
そう言って春峰を窺っても、彼の表情は読み取れない。深玉には境目が分かっていた。玉蘭が死ぬ前に交わした会話だ。お互い何かを演じている、とそう漏らしたときから春峰は深玉に対する態度を変えたように思える。とはいえ深玉は、元々彼に限らず誰かの心の機微を察するのは苦手だ。表面上変化しない春峰の異変になぜ気が付けたか……単なる勘にすぎないのかもしれないとも思っていた。
「この前青浪が、森のなかで燃えるような杜鵑花を見たと言っていました。梔子と一緒に見たのだと」
「そうか。あれはあまり、赤い花を好まないと思ったが……」
「そうなのですか?」
「むかしから、嫌いなのだと言っていた。婚礼衣装を着なかったのも、この家のならいというよりは、単に青浪が赤い色を嫌いだからという理由だと思うぞ」
「ならば、僕が花婿の衣を着ていなかったのも良かったのですね。大仰な衣装であの山道をゆくのは大変だからという理由でしかなかったのですが。しかし……牡丹には白い株も、薄桃色の株もありますよね。どうして花苑には赤い牡丹だけが?」
春峰が首を傾げる。彼もそこまでは知らないらしい。
「白い花を特別に好むという話は聞いたことがないな……母上もきっと、知らなかったのではないか? 青浪が赤色が嫌いなどということも。あれは何が嫌い、という話をあまりしないだろうから」
「へぇ……?」
それでもお義兄さんは知っていたのですね、という言葉が喉まで出かかり、それを飲み込む。
深玉は薄く笑って、牡丹に手を伸ばした。
「深玉」
その手を、驚くほど素早く掴まれる。ざらつく手の平の感触に目を瞠ると、すぐに放された。顔を上げると、顔色を変えぬ春峰が彼を見ていた。
「……すまぬな。母上はこの花を、殊更愛していたのだ」
「そう、ですか……」
呆けたように呟いて、深玉は義兄の醜い容貌をまじまじと見てしまった。
潰れた片目、髪がまばらな生え際の一部分、そして瘡蓋に覆われた左の表皮……。無事なままの黒い片目が、静かに己を見ている。何を思っているのか分からぬその眸に、胸がざわついた。先に目を逸らしたのは深玉だった。牡丹に視線を戻し、掴まれた手首をもう一方の手でそっと握る。
「青浪とは、うまくやっているのか」
「はい。花の盛りですから、またお義兄さんも含めて三人で、谷川まで下りようと話していたところです」
「そうか」
行くとも行かぬとも言わず、春峰が頷く。風が吹いて、牡丹がざわりと揺れた。大ぶりの花が揺すられて振れるさまは、なにか淫靡なところがあって、深玉はもう一度手を伸ばしたくなる。だが戒めるように掴んだ己の手がそれを止めた。もう一度、春峰に触れられたらば? 深玉はひっそりと背を震わせ、窯の煙が立ち上る家の方を仰ぐ。
「……もうすぐ朝食ですよ、きっと」
「戻るといい」
「お義兄さん。たまには一緒に召し上がりませんか? 僕たちはお義兄さんが一緒に居てくれた方が嬉しいのに」
「いや、遠慮しておこう。おれはもう少し……ここを見ているから」
「……分かりました」
深玉は春峰を置いて、家へと戻る。
彼がなぜずっと花苑にいるのか、なぜ花は狂おしく咲くのか、理由は同じだ。あそこに玉蘭を埋めたから。あそこが玉蘭の墓だからだった。
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