清怨の娘子(2)

「深玉さま! こちらにいらして、ほら!」

 先を歩いていた青浪が振り向き、にこりと笑う。小さな頭、その丸い頬の桃のように産毛が生えた曲線が、柔らかな陽射しを受けて黄金色に輝いている。漏射降り注ぐ山奥、下りながら深玉は跳ねまわる青浪を眺めているだけで幸福だった。どれだけ景色が美しかろうと、彼の目に入るのは淡い桃色の裙を履いて、時折土や葉を愛らしく蹴立てながら進む青浪だけだ。

「どうしたんだい」

「鹿の親子が居たのです。でも、深玉さまがいらしたら逃げてしまったわ」

「青浪が音を立てて歩くからだと思うけれどなぁ……」

「いいえ、そんなはずありませんわ。だって青浪は、鹿のように歩いておりますもの。深玉さまはひとのように歩いているから、きっと鹿の親子は怯えてしまったのです」

 くすくすと笑って、青浪が深玉から離れる。先を行っては何かを見つけ、見つけては立ち止まり深玉を呼ばう。

(可愛い子)

 深玉のうしろには、少し遅れて春峰がついてきていた。彼はやはりぼんやりとしながら、深玉とは違い、木々や花々を丹念に観察して、時にはしゃがみこんでそれを見つめていた。奇妙なことだ、と思う。三人で出掛けよう、と誘ったのは深玉だった。言い出した青浪は遊びに出掛けるのなら何でも良かったのだろう。はしゃいで丹に弁当を作らせ、春峰がその籠を持っている。梔子に持たせればいいと言ったのだが、春峰は少年に着いてこなくていいと言った。そのときの梔子がほっとした様子だったのが、深玉には興味深かった。春峰に怯えていたものと思っていたが、梔子はいつ打ち解けたのか、春峰を頼りとしているような仕草さえ見せるのだ。子供の表情の変化は、大人のそれより分かりやすいのだった。

(僕は何か……あの子に怖がられるようなことをしたっけ……)

 昔から子供には好かれる性質だと思っていたのだが、と考えかけて、再び「深玉さま」と呼ばれる。

 青浪が谷川のふちで、領巾を揺らして微笑んでいた。安定に欠く小さな足、布靴に包まれた足で岩を掴み、危うい均衡に遊ぶように手を振る。

「危ないぞ、青浪」

 深玉が言葉を発するより先に、背後から怒声が飛んだ。春峰の声だった。

 声だけ聴けば、耳に心地よく堂々たる青年の声だ。振り向けば醜い容貌があることを承知で、深玉はうしろを仰ぐ。

 と、耳のすぐそばを素早く彼が通り過ぎる、その風を受けた。驚くほど俊敏に、猛然と、春峰は青浪の傍へと駆けた。そして妹の両脇に手を入れると、軽々と持ち上げて地面へ下ろす。

「……おにいさま?」

「危ない真似はよせ。……深玉、ちゃんと見ていてくれ。青浪は何をするか分かぬから」

「え、ええ……すみませんでした。青浪、こちらで休もう。岩は滑るし、危ないよ。君が川に落ちてしまったら、僕は助けられないかもしれないからね。もっとも、お義兄さんなら魚のように泳いで君を救うのだろうけれど……」

 春峰は一瞬、複雑そうな表情を浮かべた。かつて深玉が、彼の髪紐を追いかけて川に飛び込んだこと、そしてそのあとを……思い出しているのだろう。悪戯心が湧いて、深玉はにこりと笑った。

「ね、お義兄さん。お義兄さんはとても泳ぎが上手でしょう」

「……そんなことはない。あのときは必死だっただけだ」

「おにいさま、泳ぎが得意だったの? 青浪が泳ぎたいと言っても、いつもいつも頑として聞き入れてくださらなかったのに」

「お前とおれは違うんだ。まだ川の水も冷たいだろう、馬鹿なことを考えるんじゃない」

 そう言って、春峰は籠を置くと、ふらりと森の木々に紛れて消えてしまった。

 青浪は唇を尖らせて兄を見送り、深玉の方を向く。

「……深玉さま、おにいさまと水泳をする機会があったの?」

「べつに秘密にしていたわけじゃないよ。冬の入り、風邪を引いた時があったろう? 菊花摘みのとき、お義兄さんが髪紐を川に落とされて……僕はそれを追って、水へ飛び込んだんだよ。でも思いのほか流れが速くてね……」

「深玉さまを助けてくださったのね」

「そう。僕が髪紐を拾おうとして飛び込んだのに、結果助けられてしまって驚いた」

 青浪は面白そうに笑った。片側だけに浮かぶ愛らしいえくぼを見つめて、深玉は合点がいく。

「あの髪紐は……もしかして、君が贈ったものだったの?」

 ひどく色褪せて、汚れたためか茶褐色に変化していた。それでも大切に使っているように見えた。落ちたとき、春峰は迷っていた。飛び込むべきか、諦めるべきか……棄ててしまおうとしているようでもあったが、繋いだのは深玉だ。

「そうよ。青浪がおにいさまに差し上げたの。でも……おにいさまがあれを大切になさっているのは、青浪が贈ったからという理由ではないと思いますわ」

「へぇ……それはどうして?」

「あれは、おにいさまが戦役に向かわれるときに差し上げたものだから」

 青浪はそう答えると、籠に手を伸ばした。丹が作った粽や餅がたくさん入っている。菊花酒の残りが小さな瓶子に移されて、杯が三つ重ねられていた。深玉は青浪の言葉の意味を測りかねていた。

(戦役につけていったものだから大切にしている……?)

「青浪、今のは答えに……」

「深玉さまは、そんなにおにいさまのことが気になりますの?」

「え……」

 青浪が顔を上げる。白い小さい手が深玉の手に重ねられる。ぬるい体温、肉の感触に、彼は首を傾げた。

「どうだろう……? 僕は君を含めて、この家のひとのことがとても好きだから」

「いいえ、嘘です。深玉さまは、おにいさまのことを気に入ってらっしゃるわ。おにいさまはそれを疎ましくお思いなのよ」

「おや……そんなことをお義兄さんが言っていたの?」

 青浪が唇を曲げる。にい、と笑うその表情は、何故か口もとばかり目について、彼女の眸を見ることが出来なかった。滲んだ桃色の唇、そこに吸い寄せられるように、深玉は唇を重ねる。舌を伸ばせば歯の粒に侵入を阻まれて、重ねられた手を握って合図した。舌さきで青浪の唇を舐めながら、入れてくれと乞う。

 青浪の低い鼻から漏れる息が、笑い含みにぽんぽんとぶつかる。戯れているのかと思ったが、彼女は一向に口を開ける気配を見せなかった。焦れてもう一方の手を髪へ差し入れると、とうとう青浪は身を引いた。そればかりか、軽やかに立ち上がると、先程春峰に下ろされたばかりの、岩の上へとひらりと飛び乗る。繋いだままの手が引かれる。本来ならば軽い青浪が引き戻されるはずなのに、腰を浮かせたのは深玉のほうだった。追いかけてしまう。手を放すことは出来ず、不格好に深玉も岩のうえへと立っていた。

「今度は何の遊びだい?」

 湿った唇を舐めながら、青浪は川を指差した。

「青浪は、小さなころからずうっと、水泳をしてみたかったのです」

「……飛び込むつもり?」

「深玉さまは泳げるのでしょう? 青浪に教えて下さるでしょう?」

「衣を脱がなければならないよ」

 だからお止め、と言おうと思った。だが青浪は頷くと、手を振った。呆気なく深玉との繋がりは断たれ、彼は一瞬態勢を崩す。その瞬間だった。紅葉のような手が、彼の背を押したのは。

「――え?」

 ざばりと音がたち、白く粟立つ飛沫が上がる。冷たさに身巻かれて、深玉は束の間狂乱に陥りかけた。

 突き落とされたのだ。

 次第に冷静になっていく。口から泡を吐き出して、力強く水を掻く。顔を出すと、岩の上にしゃがんだ青浪が、じっとこちらを見つめていた。

「……突然、何を?」

「深玉さまが泳ぐところを見てみたかったのです。お上手ですのね」

「ふざけているなぁ……僕は驚いたよ。まさか君に突き落とされるとは。念の為、流れのゆるやかな場所を選んできていて、正解だったね」

「急流なら、深玉さまは流されていましたの?」

「うん、多分ね。君に突き落とされて……流れに巻かれて、どこかで岩に砕かれて、いつかは引っかかって、そのまま溺れ死んだのではないかな。麓の人びとのところまで屍がついたら、きっとあの家の深玉だと分かっていたはずだよ。魔物に殺されたってね……」

「魔物?」

「君のことさ」

「ふぅん……」

 青浪が目を細め、眩しそうに深玉を見つめる。春の陽にきらめく水面、揺らめく深玉の衣を見つめる。

「とてもきれい」

「君もおいでよ、青浪。水の中でしよう」

 重たい腕を伸ばす。青浪は目を輝かせて、帯を解いた。

「青浪が流れぬよう、ちゃんと捉まえていてくださいますか?」

「もちろん。僕の帯でふたりを結ぼうか」

 上衣も袖なしも裙も脱ぎ捨て、薄物一枚になった青浪が、思い切りよく水に飛びこむ。あがる飛沫に手をかざして、深玉はすぐに彼女を捉まえた。水蛇のように揺らめいて流れに従う帯で、二人の腰を結び合わせる。

「水が冷たいわ」

「お義兄さんだってそう言っていたじゃないか。風邪を引いたって、僕のせいではないよ」

「うふふ、どうかしら……」

 青浪の手が首に巻き付く。縋りつく体温がいっそう熱く感じられ、深玉は震えた。水のなかで絡み合う足が、奇妙な感触を伝える。揺れながら衣を割って、ふたりは繋がった。

「へんね」

 笑う息が頬にあたり、深玉もだんだん愉快になってくる。持ち上げるのが苦ではない。水のなかで青浪はひどく軽い。首に縋る彼女が足を深玉の腰に巻き付けて、深玉は彼女の中に身を埋めた。ぬるい感触と、水のふよふよとした弾力に、ふたりは顔を見合わせた。

「本当、へんだね。冷たい?」

「冷たいけれど熱いわ。それよりずっとおもしろいの」

 青浪が片一方の足を放して、思い切り岩を蹴る。川の中程へ流されて、深玉は仰向けに浮かんだ。彼のうえに張り付いた青浪が、胸に頬を預けてうっとりと息を吐く。朱に染まった面を見、深玉は目を瞑った。

「このまま眠ってしまいそうだ」

「繋がったまま?」

「温かくて気持ちがいいから」

 腰を揺らすと水が入る、あぶくが上がる。青浪が途切れ途切れの声を上げ、時折笑い、じゃれながら交わる。鎖骨を噛まれて、深玉は瞼を持ち上げた。

「……流されてしまいたいねぇ、このまま」

「嫌だわ。岩に砕けて死ぬなんて」

「そうかな……僕は悪くないと思うけれど。だって痛みだって流れてゆく気がするだろう? 汚れも、色々なものが清水に晒されて、そのうち身体の中身もどこかへ流れていってしまえばいいのに」

 すいと流されて、話している間にも岩に軽くぶつかる。流れというほどの流れがないせいで、深玉が軽くその岩に触れていれば、ふたりは浮かぶだけになった。岩のまわりをゆるやかにめぐって、半周し、また戻る。本当に微睡んでしまいそうなほど気持ちがよくて、深玉は胸のうえに熱のかたまりを乗せたまま、夢見心地になっていた。

 だが青浪は、半目で深く胸を蠢かせながらも、水と同じほど冷たい思考を保っているように見えた。黒い眸の底知れぬ光が、玲瓏としている。響き渡るまなざしを受ければ、深玉は甘美な予感に喉を震わせた。これほどぬるい交わりであっていいはずがない。唇を開けば甘い水が注ぎこむ。春峰と飛び込んだときのよう、この谷の甘い水が……。

「……深玉さまは、妹君を殺したのでしょう?」

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