終 室家の鰥

柳の環(1)

 春が過ぎ、山はいっそう深い青を湛え、夏が訪れようとする頃だった。

 家の外に並んで、春峰たちは青浪と梔子を見送る。

「おにいさま、どうかお元気で」

 青浪に頷き返し、春峰はずっと手に持っていた柳の環を彼女に手渡した。それは旅の人間に贈るものだったが、青浪がこれから送るのは旅の日々ではなく、暮らしだ。旅であれば彼女は再びここに帰る。だが春峰も、青浪も、それを望んでいないことを互いによく了解していた。

「お前の日々が、息災であるよう願っている」

「……ありがとう、おにいさま」

 妹の小さな手が、確かに環を掴んだのを見て、春峰は微笑んだ。そして隣りの梔子の頭に、ぽんと手を置く。

「青浪を頼んだぞ、梔子。きっともっと背が伸びる。お前が青浪を助けてやるんだ」

「はい! 春峰さま、今までありがとうございました!」

 青浪とともにゆく梔子にとって、いまこの場に「別れ」は存在しないのだろう。屈託のない笑顔を見て、春峰は安堵する。少年には、髪一筋の未練だって抱いて欲しくはなかった。彼にとってここが帰る場所にならないことこそが、春峰を穏やかにさせる。先を思えば思うほど、彼はきっと青浪の標となるだろうことが想像できた。梔子がいればこそ青浪があり、青浪がいればこそ梔子がある……そんな関係を築いてほしいと、身勝手にも願った。

「お嬢さま、これ、昼にでも召し上がってください」

「ありがとう、丹。元気な子を産むのよ」

「ええ、万事うまくいきゃそうなりますよ」

 丹は彼女たちが出て行けば、いよいよこの家を離れるだろう。彼女は一通りのことは上手くこなす性質だし、麓でも仕事の口は見つかるはずだ。何なら春峰から口を利いて、深玉の生家へと入れてもらえるよう頼むつもりでいた。

 その深玉は、一時見せた迷子の表情を脱いで、いっそ穏やかな顔をしていた。

 彼は進み出ると、青浪の細い体を強く抱擁する。

「……青浪」

「深玉さま。気が変わりましたら、いつでも青浪のところへおいでください。青浪はずっと深玉さまの妻ですから」

「ああ……」

 青浪の首に顔を埋めて、深玉が目をつむる。

 二人の間にあるのは確かな情愛であり、春峰はその様子に目を細めた。離れ離れになろうと、彼らはどこかでつながり続けるのだろう。そういう予感があった。深玉はともにゆかないことを選んだが……春峰は、彼もいつまでもこの家にいるとは思えないのだ。己のような老人めいたおとこと暮らすのは、きっと彼のような青年にとっては、耐え難いことだろうと。いつか彼が旅立つのなら、春峰は青浪が取らなかった玉蘭の財産とともに送り出すだろう。

 夫婦がゆっくりと離れ、名残惜しく見つめ合う。だがすぐに、青浪はゆくさきを向いた。頼りなくも思える背だった。

「行ってまいります」

「さようなら、春峰さま! さようなら……おかあさん!!」

 梔子の声を最後に、小さな影がふたつ、並んで山を下りてゆく。

 朝靄は甘く纏いつくような、少年の名と同じ花の香がしていた。春峰は、丹と深玉が家へと戻り、二人の姿がとうに見えなくなってしまっても、ずっと、ずっと、麓へと続く山の道を眺めていた。

 妹はここを去り、もう二度と戻らない。故郷を発ち、彼女は母の足跡をたどるのだろう。そのあとはどうするだろうか? 梔子と……弟とともに、あちらへ、こちらへと遊び歩くのかもしれない。小さく歪められた足で、しかし小鹿のように軽やかに跳ねる足取りで。いずれは広い背に頼って……寄り添って生きていくのだ。

 なんと希望に満ちた姿だろう。

 なんと、うつくしい光景だろう――。

 たといそこに己のすがたがなくとも……ないからこそ春峰は、眩しさに目を細める。朝方のすがしい空気を深く胸に吸い込んで、吐き出す。この門出を見守るために生まれてきたのだ。そんな感慨さえ湧き出でてくる。己は妹を、守れたのだ。

 青浪をこの家から、送り出すことが出来たのだ。

(もう、死んでもいい。いつこの生が終わっても、おれは何ものも惜しまない)

 どれほどそうしていたろうか――断末魔が山を裂き、いっせいに鳥が飛び立ちつ。耳の奥で天瀑の轟きがすべての音を凌駕して響き渡った。





 異様の声に家へと駆け入ったものの、厨房やかつての玉蘭の房、そして丹と梔子の房を確認しても、誰の姿も見えない。すでに声はなく、先程聞いたのは春峰の勘違いだと考え始めた。だが、と彼は階段を見上げた。二階にあるのは、青浪と深玉が暮らした房だ。激しく胸を打つ鼓動に息を浅くさせて、春峰はゆっくりと階に足をかけた。

「…………」

 階段を上り切り、簾を手で分ける。青浪がいつも刺繍を指していた房を覗き、誰の姿も見えないことに汗を流す。残すは寝室だけだった。ぶるぶると震える体を厭わしく思いながら、はっはっと息をして、春峰は奥へと足を進めた。臭いがしていた。むっとするような血の臭いと、汚臭が漂ってくる。頭の芯がぼうっとして、束の間恐怖が遠ざかる。

 熱に浮かされたようにして、あらかじめ知っていた答えにたどり着くようにして……彼は足を動かした。

 春峰の目に飛び込んできたのは、血に濡れた丹のすがただった。

 血はいまだゆっくりと床に広がり、染みついていく――。

「丹……丹……?」

 おんなは青浪の睡床にもたれかかるように座っていた。その体の前面が、目を覆いたくなるような有様を晒していた。骨肉が、臓腑が、翳む目にはただ鮮烈な赤だけが……膝が折れ、春峰は不明瞭な呻きをもらしながら床を掴んだ。その手ゆびの先にぬめりが触れ、ぞろりと背筋に戦慄がはしる。

 腹から込み上げたものを吐き出そうとしたが、何も出てはこなかった。幾度も嫌な空気を吐き出して、唾液を床に垂らす。

 生まれたときからこの家にいたおんなが、目の前で死んでいる。もう一度目を上げてつぶさに見ようとは思えなかった。どうして青浪の房で、丹が。どうして……誰に。

 そう思ったとき、不意に何かが動く気配がした。

「丹……?」

 もしやまだ息が、と思ったが、おんなはやはりおそろしいほどの沈黙を貫いたまま微動だにしなかった。動いたのは、この房にいたもう一人の人間――深玉だった。

 ゆっくりと首を回す。小ぶりの鉈を手にした深玉が、そこにあった。彼は何故かもの悲しげな表情で、春峰を見下ろしていた。

「なぜ……」

 ひゅうひゅうと胸の鳴る音で、言葉は声にならなかった。深玉はふと丹に視線を移し、やはり悲しそうに言う。

「このおんなが……青浪のものを盗もうとしたのです」

「そんなことが……」

「あるはずがないとお思いですか? でも僕は見ました。なので罰したのです」

 淡々とした口調に、怖気がはしる。片目を見開いて深玉を見つめていた春峰は、幼子のように頭を振っていた。

「お義兄さん……青浪は行ってしまいましたね。このおんなの血を分けたおとことともに……」

「あるはずがない。丹は、丹はひとのものを盗むような、卑しいおんなではない……!!」

 丹の眸は虚ろに濁り、かっと見開かれて何処とも言えぬ場所を見つめていた。

 深玉がゆるく首を振る。「残念です」。そして手にした鉈を持ち上げ……春峰はびくりと大きく震えて、咄嗟に身を庇っていた。

「……お義兄さんはまだ、死にたくないとお思いなのですね」

 義弟はそう言って、彼の横をすり抜けていった。鉈が揺れ、こびりついていた血の色が一瞬、彼の視界を断つように這入りこんだ。

「深玉……!」

 春峰ががくがくと戦慄く体を持ち上げ、ようやく青浪の房の窓に縋ったとき……山を下りてゆく彼の、何かに取り憑かれたようなすがたが見えた。

 

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