柳の環(2)
飛ぶような速さで駆けていた。とうに道を外れ、森へ分け入って。木々の枝が視界を阻み、時にはこの足を止めようとさえする。もっと速く、もっと速く、もっと、もっと速く――梔子はなりふり構わず、目許にかする葉や枝に気を払う余裕もなく、肩を弾ませて駆けていた。大きく口を空けて喘ぐ。空気が足りない。虫が飛び込んでくる。知ったことではない。両手で抱えたものが胸をじとりと濡らす。決して落としてはいけない。これだけは持ってゆかねばならない。梔子は走った。
と、飛び出した木の根に躓き、彼は思い切り体を投げ出した。一転、二転してようやく止まる。「あっ……!」。足首が焼けたように熱くなる。だけどすぐに地を掴む。目から迸る涙に、顔じゅうにびっしりと浮き出した汗に、土が纏いつく。唾を吐いて、素早く顔を拭って、立ち上がる。後ろで茂みが鳴り、梔子は短い悲鳴を上げた。恐ろしくて振り返ることができない。だが、だが……!
「どこ……どこ、お嬢さま!!」
悲痛な声で叫び、彼はあたりを見回した。しかと胸に抱いていた荷物がない。転んだ拍子にどこかへ投げ飛ばしてしまった。焦燥が少年の呼吸を浅くする。そのとき見慣れた布の色が目に入り、彼はまろぶようにその元へと向かった。包みは解けていなかった。ぼろぼろと涙を流して、再びそれを胸に抱く。
逃げなければ。逃げなければ。お嬢さまと一緒に。
己がどこにいるのかはもうわからない。だけど下るのだ。まずは麓に行かなければならない。あの人は、そこまでは追いかけてこない――もう山を下りられない。その確信があった。梔子は息を整えるだけの余裕もなく、再び足を動かした。飛ぶ鳥のように地を駆けるのだ。鹿のようではいけない。鹿では、間に合わない。
真昼の太陽が昇っても、鬱蒼とした森に十分な陽光が射しているとは言えなかった。薄暗いこの舞台を脱することが未だできず、執念深くこちらを追いかけるおとこを振り切れない。幼いころから駆けていたはずの森なのに、全く違う顔をしている。
足首がひどく痛んだ。このまま走り続けられるだろうか。走り続けなくてはならない、すぐにそう告げる声が聞こえた。そうだ、梔子は走り続けなければならない。逃げるのだ。
お嬢さまと、一緒に。
半ば転がり落ちるように、梔子は山を下りる。無数の切り傷や擦り傷があった。細い血を流していた。だけど己はここでは死なない。死にたくはない。生きなくてはならない。ぎゅっと強く、手に力を籠める。もう二度と放ったりはしない。もう二度と、怯え見捨ててなるものか。
(春峰さま……僕を、ゆるしてくださいますか……!)
歯を食いしばり、少年は駆けた。背に迫るものから逃げて、逃げて、逃げ切るために。
◆
本当ならば、昼には麓についているはずだった。
青浪のゆっくりとした歩みに合わせたとしても、夕方までにはついているはずだった。梔子は全身に傷をこさえて、朦朧とした表情で、ふらふらと山を下りた。山道の入り口、見慣れた麓の集落の端、菱の花が白い花を無数に浮かべる池の横で、彼はぺたりと地に尻をつけた。
呼吸が荒れ狂い、吸うのも吐くのもままならない。その場に数度嘔吐を繰り返し、池の水をすくった。藻がからみつき、池の水は濁っていた。その汚れた水で唇を湿し、喉を鳴らして飲み干した。何度でも掬って水を飲んだ。しきりに涙が流れる。洟が垂れる。汗は顎先からぽたぽたと落ちる。黒っぽい水面に、己のすがたは映らなかった。
苦しさが胸を満たしていた。痛みに身巻かれ、もはやどこが痛いのかもわからない。荷物のほとんどは落としてきてしまった。青浪から預かった金も、着替えも、ない。ただ一つの包みだけを持って、麓へとたどり着いた。
もう、夜更けだった。家々には灯りは見えない。あばら家ばかりのこの集落で、池のほとりで蹲る少年に気がつくものもない。梔子はしゃくりあげながら、包みを解いた。
夜更の涼しい気を重くする、梔子の白い花の香が、広がる。
小さな足。沓を履いたままの小さな足。そして柳の環。彼に残されたのはたったそれだけだ。
梔子は震える手で、その沓を脱がしかけてやめた。
この下にあるものを、少年は知っている。目にせずとも知っている。ちんまりとした足を両の手の平に捧げて、彼はそっと頬刷りをした。鼻腔を侵す梔子の香が、胸を焼く。ねっとりと重い。この花の香を嗅ぐたびにきっと、梔子は思い出す。
足を包み直して、梔子は顔を上げた。
少年の頬には幾条もの涙の痕があった。
「さようなら、春峰さま」
柳の環を、池に放った。それはぷかぷかと浮いて、沈もうとしない。だがそれで良かった。旅人が無事帰りますように。その願いが沈んでしまうことは、あまりにも悲しく思えたから。青浪が帰らないことを知ってこれを贈ったひとの情までをも、捨てたくはなかった。
慎重に、彼は立ち上がる。細い体を支える足を、右、左、とゆっくりと伸ばし、地を踏みしめる。ぼろぼろに裂けてしまった衣を見下ろして、少年は再び包みを抱えた。そして一度だけ、山を振り仰ぐ。
「…………」
彼は山を下り、麓へとたどり着いた。
少ないが、知り合いがいないわけではない。青浪と幾度か訪れた、老婆のもとへとまずは赴こう。
天瀑の轟きは少年の心臓の音と重なり、力強く、絶え間なく鼓動する。
己が生きるのだ、ときつく拳を握り、真っ直ぐと前を見据え、梔子の夜を踏んだ。
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