松柏に瑞雪(3)

 酒を食らってから少しだけ眠り、深夜、春峰は森へと足を運んだ。

 久しく訪れていなかったのは、厭っていたからだ。青浪を、深玉を、そして己自身を……。

 月は暗かった。獣の爪のように細い月には雲がかかり、脆い光も途絶えがちに落とされるばかり。春峰は手を伸ばし、松が枝を折り取った。常緑の木の気高く潔い立ち姿をしばし眺め、己の手のなかにある枝を眺め、しばらく黙って夜気のなかで薄く呼吸をしていた。己の胸の蠢きが手に取るようにわかる。目が翳むようになってから、人の気配にも鋭敏になっていた。もっともそれは、春峰が物思いや卑屈にとらわれていないときだけであったが。

 とにかくいま、春峰の肉体は春峰のものだった。

 夜に紛れる濃緑の衣は、玉蘭が帰ってきた折、土産のなかに何故か紛れていた唯一のおとこ物の着物だった。丈からして明らかに深玉に宛てたものではなく、渋い色合いの生地のそれはどう考えても春峰のものだった。仕舞っておいたそれを今夜広げたのは、いつか立ち寄った村で聞いた擣衣の音を思い出したからかもしれない。そのとき春峰は、ともに行軍していたおとこに聞いたのだ、「これは何の音か」と。するとおとこは「妻が夫を思って、衣を擣つ音さ」と言った。そのおとこは死に、春峰もとうとう今まで思い出すこともなかった。

 冬も更けた日に、新たな寒衣を下ろすことになるとは思わなかった。玉蘭が彼に衣を与えるのも初めてのことであった。家に持ち帰る反物のなかから、誰も選ばなかったものを適当に示して、衣が古びれば新たなものを丹に作らせるだけだった。だが、こうして与えられた衣の糊のきいてきりきりとした風合いは、いかにも春峰に似つかわしくなく、何故玉蘭がこれを持ち帰ったのか……いまの母に聞くことは叶わないが、衣と死とは強く結びついたことのような気がしていた。

(今更、母上は、おれに……)

 呼吸が乱れ、春峰はひとり首を振る。

 吐く息の白さが夜に染む。ぼんやりと消えていく。

 小足を運ぶ音は鹿のそれよりはるかに軽やかで、彼女は相当に夜目が利くのだと春峰は何故か不思議な感慨とともに思った。

「死んだのか、母上は」

 ぱきりと枯れ枝を踏む音、そして淡々とした呼吸、青浪の表情は分からない。だが春峰と同じよう、この冷えた空気に息を煙らせていた。

「首を吊って」

 春峰は幽天を仰いだ。ちらちらと雪が落ちてくる。

 どれほど寒かろうと雪の少ない土地だった。だが年に一度か二度は降る。そんなとき、春峰は心を弾ませて、雪花を眺めたものだった。松枝を持ったまま、空に手を差し伸べる。掴むことの叶わない白い冷たい花は、すぐに消えてしまう。

「おかあさまは、書き置きを残していらっしゃったのよ。今までと変わらない、とても見事な手跡でね……何と書いてあったと思う?」

「さぁ……おれにはあのひとの考えることは分からないよ」

「春峰、ごめんなさい」

 春峰は目を細めた。月と同じほど細めた。薄雲のように、彼の眸にも朧な膜が張り、すぐに乾いた。

「春峰、ごめんなさい」

 笞打つように、青浪は言う。

「春峰、ごめんなさい……」

 春峰は切り株の横に落ちていた、忘れ去られんとしていた竹の笞を拾った。乾燥しきった空気のなかに捨て置かれたそれは、固く張りつめていまにも折れそうだった。あれほどしなやかな粘りを見せた竹であったというのに、いま膝でたわめてみれば、きっと容易く弾けるだろう。

「春峰おにいさま、どうしておかあさまは、おにいさまに謝るの?」

「おれには分からない。そんな残酷をどうして行えるのかなど。お前になら分かるのではないか? お前はあのひとにそっくりだから」

「青浪は、おかあさまには似ておりませんのに」

「似ている。時折見間違えるほど似ている。あの人は弾むように歩く。あれほど重たい身体をしておきながら、お前の小足のように、鹿の子のように、ほんの娘のような足取りで花苑をゆく」

「……すきなの? 愛しているの?」

「おれには、分からないよ」

「おにいさま……その笞を青浪にください」

「嫌だと言ったら、お前はどうする?」

「おにいさまは青浪に従うはずです」

「そうだろう」

 春峰は竹を振り上げた。青浪が一瞬目を見開き、すぐにその眦が赤く染まる。いっそう吐息は猥らに煙り、そう、「その笞を青浪にください」という言葉は……確かに春峰を従えた。

 乾いた音が鳴り、しかし森を揺るがすには小事に過ぎた。幾度繰り返そうと同じだった。ちらちらと舞う雪を、笞が散らす。弾けるような音、おとこの目一杯の力の込められた音、それは春情よりずっとやさしさに近かった。与えるものと与えられるものはいつでも逆転し得た。忘れていただけなのかもしれない。或いはこれもまた春峰の仮面かもしれない。そう己を俯瞰しながら春峰はしかし、小さく縮こまることを止め、妹を打った。幾度も、幾度も、彼女が立っていられなくなり、もみじのような手が霜の降りた冷たい土をきつく握りしめ、桜桃のような唇に噛み締めたため血が滲んだとしても、煙る吐息の色、雪花の色、白は無垢なまま自然において汚されず、汚されたとして物の数には入らないような、そんなやりとりであった。

 止めるときがもっとも決まり悪いものだ。

 春峰はぜぇ、はぁ、と荒い息を吐いて、額の汗を拭った。

 青浪は地に伏せていた。彼女の頬にも朱が刷かれていた。だらりと力なく伸びる青浪の、艶美なさまに、春峰はひどく厭なものを見たように目を逸らした。それは深玉が家に入った翌日、夫婦の房に呼ばれたときのようだった。青浪は妹でありおんなではないのだ。春峰がおとこでないことを、青浪が言ったのは、ずっとずっと変わらぬ意味しか持っていなかったのだ。

 彼らは兄妹であった。

「…………」

 ぱちん、と間抜けた音がした。春峰の膝を真中に、竹の笞が二つに折れた。

 その二つを、春峰は切り株のそばにそっと突き立てた。標のように突き立てた。どっしりと重々しく大きな切り株と、細く削られた頼りない竹が二本並ぶ。

 青浪が横目で、じっとその様を見つめていた。

 春峰は不意に、青浪の隣りへ身を横たえた。羽織っていた寒衣の帯を解き、青浪と自分に掛ける。汗が滲むほど笞を振った彼の身体の熱が、衣を通して妹へと与えられる。青浪がもぞもぞと動き、春峰の胸に頬を摺り寄せる。かつて、幼い頃、そうして眠ったことがあった。

「寒くて死んでしまうかしら?」

「この程度じゃ、死なないさ……北辺はもっとずっと寒かった。火を焚いていても、ばたばた死んでいった」

「おにいさまは、どうして死ななかったの?」

「死にたくなかったからだ」

「そう……」

 春峰は片方の手にじっと握り締めたままだった松の枝を思い出す。手の平にくっきりと、枝の凹凸が鱗のように刻まれていた。尖った葉が少しだけ肉に埋まっていた。ゆっくりと力を抜いて、春峰は愛おしむように枝を握る。目を瞑ると、青浪の視線を顔じゅうに感じた。その視線には幾分かの不安が含まれているように思えた。同時に、予感が胸を掠める。青浪はいつでも、無邪気で無垢な特別な娘だった。

「これから、どう生きてゆけばいいの?」

 そんな問いに、春峰は少しだけ笑う。玉蘭が死ねば、丹も永くはこの家に居つくまい。

「お前には深玉と、梔子が居る。お前を守るおとこが二人もいる。さぁ青浪、これをお前にやろう」

「なぁに、おにいさまぁ……」

 枝を青浪に手渡す。彼女は夢を見ているような表情で、その枝を受け取った。春峰は確かに枝が渡ったことを見届けて、妹に微笑みかけた。

「もう、終いだ」

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