清怨の娘子(3)

「青浪は、麓で聞きましたの。深玉さまのお家のこと……深玉さま自身のこと……おもしろかったわ。麓に菱の池があるんですってね? 春には緑に覆われて、夏には花を咲かせる。船を浮かべて、おんなのかたが実を採るの。深玉さまの妹君……容英さまと、そこをお散歩するのが習いだったんでしょう? とっても愛らしいかただったのですね」

 深玉は深く笑った。夢をみて間もなく、こうして青浪と妹のことを話すとは思いもよらなかった。だがこの娘には、そういった何か自然ではない力があっても不思議ではないような……奇妙に勘のいいところがあるのだ。それを思い出し、初めて会ったときの畏れが、まざまざと蘇るのを感じる。

 妻と夫となってから、ただ無邪気な面ばかり見てきた気がする。彼女の小さな足や、夜更けの森でのこともすべて、青浪の無垢で無防備な愛すべき点だった。だが深玉が畏れたのは、そういった部分ではなく、彼女の悪意に満ち満ちた玉蘭への態度、丹への態度、ひとりで居るときの彼女の無表情であったのだ。

「殺したとは、穏やかじゃないね。僕はたしかに、容英のことをとてもとてもかわいがっていたよ。あの子の世話係でね、いつでも腕に抱いて、その池の周りを歩いていた……纏足を始めたばかりで、ひどく足が痛むから、歩けなかったんだ。可哀相に」

 未だ繋がったまま、熱い結合部を感じたまま、深玉は語る。

「僕はね、たくさん兄が居たし、末の息子だったんだ。だから母上や姉上たちにはたくさん可愛がってもらって……でも、父上や兄上たちにはいじめられたよ。今となっては懐かしい、みな必死だったんだね。そんなとき、容英が産まれて……僕はひと目であの子の虜になったんだ。いつも一緒だった」

「深玉さま、ねぇ、青浪とおにいさまのようにですか?」

「そうだよ」

「嘘よ」

 青浪がふたりを結んでいた帯を解く。彼女が身を引くと、ずるりと抜ける。冷たい水に包まれて、深玉は目を瞠った。青浪は仰向けに浮かび、水面をゆらゆら流れてゆく。まくれた薄物の袷から、足の間の黒々とした洞だけが見えて、ひどく不気味だった。

「青浪? 泳げないんじゃ……」

「青浪は、足をお見せしましたのに。おにいさまの背中だって、ご覧になったでしょう? どちらも歪んでいたかもしれませんけれど……でも見たはずですわ、青浪たちの文様ほりものを」

 青浪が水に身を沈める。するりと身を翻す。彼女はおそろしく滑らかな泳ぎで、流れに抗い、深玉の横を通り過ぎていった。息継ぎもせずに、身をうねらせて、薄物とその下の膚を陽光に輝かせながら。

「…………」

 そうしてもとあった岩のうえに帰り、彼女は深玉に手を振る。

「ねぇ、深玉さま。あなたは妹を殺したから、うちへ来たのでしょう。青浪は、知っていますの」

 薄い衣はぐっしょりと濡れてからだに張り付き、その色を晒していた。肉付きの薄い身体、小さな乳房、その頂きの乳首が赤く尖り、布は丸みに沿って皺を作りながらへそのあたりまで複雑な模様を描く。袷目の紐は衣が落ちることを防いでいるだけに過ぎず、割れた衣の正面から覗く一筋の膚色は下腹部まで続き、淡い下生えとぱくりと開いた性器までが露わになっていた。

 まるきり子供のからだだ。彼女は年の割に小さく、肉が硬く、それでいておそろしいほど艶めかしい。青浪の唇は内側から滲むように赤い。あどけないふうに笑う。彼女の印象は大輪と言うには似つかわしくないというのに、牡丹の花を思い出して、深玉はいっときそれに見惚れた。

「深玉さま、早く上がっていらして」

「……ああ、そうだね」

 泳いで近寄り、岩に手をかける。すると濡れた靴で青浪が、その手を踏んだ。

 さしたる力も籠められていない。だが猛烈な悪意を感じて、深玉は薄く笑った。

「どうして?」

「聞いてほしいお話があるの」

 青浪は愛らしく小首を傾げる。直感する、これは良くない話だと。「聞きたくないな」と茶化すと、彼女は「でも、青浪は聞いてほしいの」とえくぼを刻む。

(何が、無垢な娘だ……)

 彼女の傲慢さというのは、ひとを不快にさせる類のものではない。むしろ憎めないと脂下がってしまうような、ひどく些細で愛らしいようなものだった。幼子のするおねだりと同じだ。だがそれが、どんな悪意を潜ませているのか、どんな欲望を覆っているのか……考え、疑りはじめればきりがない。深玉はその不快に、嫌悪にこそ、青浪への思慕を募らせる。一方でどうあっても雪ぐことの出来ない、穢れのようなものを感じ取ることがあった。いままさに、それがために彼は手を踏まれている。小さな、蓮のような、力ない足に。

「深玉さまは、青浪に子を産んでほしいとお思いですか?」

 束の間、返答に迷う。迷う己に対して青浪が薄く目を細めるのを見て、何故か焦った。

「産んでほしいと思っているよ。僕は子供が好きなんだ。でも、君が望まないというのなら、僕は君とお義兄さんと梔子と……あの家で僕達の代だけを生きるのも、悪くはないと思っている」

 ぎり、と手を踏む足に力が籠められる。顔をしかめて、深玉は青浪を見上げた「痛いよ」。

「痛くしているんですもの。痛くないと困ってしまいますわ」

「それで、どうして突然子供のことなんて聞くのか教えてくれるかい?」

「一度孕んだからです」

 深玉は青浪の言葉を反芻した。「一度孕んだからです」。子供のようなからだを見つめ、それから意味を測りそこねて彼は、「どういう意味だ……」と低く呟いた。そのとき、手にかかる重みが消える。青浪がすらりと立ち上がり、放ってあった衣を濡れた身の上に着け始める。深玉は、ひどくからだの重いような気がして、もう一方の手も岩にかけ、引きずるようにして己を引き上げた。髪を伝う水が目に入り、嫌な感じがする。口の中がひどく渇いていることに気が付いた。中途半端に終わった情事が、彼を苛立たせる。

「……どういう意味だ、青浪」

 彼女は振り返らず、髪を絞る。切り下げた前髪がまばらに額に張り付いて、長いうしろ髪は一束にねじり上げられ、素っ気ない簪でくるりと止められた。おくれ毛が真白いうなじに散るさまが、異様な淫靡を醸しているのが、深玉の気に障った。

「どういう意味だ」

 低い声で問うた。一度孕んだ、一度、孕んだ……繰り返される少女の声を、うるさく思いながら。青浪がちょっと振り返り、唇を曲げた。

「一度、孕んだのです」

「君は……」

 深玉が手を伸ばすと、青浪は刹那表情を失い、彼を見据えた。静かにからだを逸らすと、深玉に背を向ける。

 ――挑発されている。

「おにいさま! おにいさま! どこへいらっしゃるの? 一緒に粽を食べましょうよ」

 小さな手を口の横にかざして、青浪は高いよく通る声で兄を呼ぶ。

「青浪、聞いてほしいと言ったのは君だ。よく覚えておけ……今夜必ず、話してもらおう」

「……そんなに呼ばずとも、聞こえている」

「おにいさま、もうっ、どこへ行ってらしたの? 丹はきちんと、杯を三つ入れてあるのよ。おにいさまも一緒に召し上がってくださらなければ厭よ」

 どこからともなく表れた春峰が、青浪の濡れた頭に手を伸ばす。懐から取り出した手巾で、未だ水滴の滴るこめかみや顎を、首筋を拭う。青浪は従順に目を閉じて、首を傾げたり、喉を晒したりしていた。

「……深玉、あなたもずぶ濡れだ。水は冷たいと言ったのに……」

 深玉は怒りにも似た、しかし己で理解しきることの出来ぬ感情を、そっと鎮める。顎を伝う水がぽつりと落ちたが、衣もすべて濡れている。今更染みにもなりはしない。

「……冷たかったですよ、とても。でも青浪が、どうしても泳ぎたいと言ったものですから」

「まったく、我儘を言うものではないぞ。風邪を引いたらどうするのだ」

「そのときは、きっと深玉さまが看病してくださるもの」

「お前のことではない、深玉を心配してい言っているんだ。いつまでも考えなしで、本当にお前は……」

「お義兄さん、そう叱らないでやってください。僕たちふたりともが風邪を引いたら、お義兄さんに看病を頼みますよ。ねぇ、青浪」

「……うふふ」

 青浪が笑い、深玉の腕を取る。彼女の乾いた上衣に、深玉の水がじとりと滲む。滲みが肉の上にないことが、苛立たしく思える。この衣一枚濡らしたところで、青浪というおんなに一つの瑕もつけられない。深玉は重い屈辱を押し殺したまま、仮面して微笑む。春峰も、青浪も、誰もがそうしていた。だが、ふたりの兄妹のつける仮面は同じ舞台のものなのだ。ただ深玉だけが、場違いの滑稽を演じているような気がして……それがひどく、屈辱なのだ。

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