徒花(1)
夫婦の閨房で、寝そべる青浪を見下ろす。
今日あったこと、話したこと、すべて忘れてしまったかのように彼女は眠い目を擦っていた。まるで幼子のように、深玉の死んだ妹のように、手の甲で目許を擦り小さなあくびを漏らす。八重歯が覗く。しかし芽生えた疑念はもはや、彼女を愛らしいと形容することを許容しなかった。
「青浪、話すんだ」
ゆっくりと腰を下ろすと、睡床が軋みを上げた。春峰は離れで眠っている。丹と梔子も、己の房に下がっていた。
この家で目を覚ましているのは、きっと青浪と深玉だけだった。
「……青浪は、深玉さまに話すことなんてありませんのに」
「そういうわけにはいかないよ」
「昼間はひどくお怒りのようでしたけれど、それはもういいのですか?」
「僕が怒っていないようにみえる?」
「……さぁ? あなたのことは、わかりません」
分かろうと思っていないから――そう聞こえた気がした。自分ははなから、青浪の視界になど映ってはいないのだ。知っていたが、あらためて、より露悪的に、その事実を突きつけられた思いだ。青浪の振りかざす悪意は、明確に深玉を傷つけようとしているのだ。
「何か勘違いをなさっているわ」
「……勘違い?」
「青浪は、深玉さまを傷つけようと、遠ざけようと、そんなふうに思っているわけじゃありませんの。言ったことがあったでしょう? 深玉さまに、すきよ、って」
「じゃあ、なぜ……」
深玉は、掠れた笑いを溢した。そして勢いよく青浪の襟を掴み、彼女を引き起こす。
「なぜ僕を愛さない!?」
縋る喚声が響き渡った。
青浪はされるがまま、深玉の胸もとに引き付けられて、四肢の力を抜いていた。静かな眸が深玉を見ている。だが映らないのだ。黒いだけ、澄んでいるだけ、感情を揺らすこともせずただ青浪は、ものを見るよう、花苑を眺めるようにしてしか、深玉を見ない。肉体の熱狂に表情を変えても、それはただの作用だった。与えるものと与えられるもの、その関係性にのみ意味があり、深玉は不要だった。かつて深玉が嘲った、夜更の森での兄妹とは、決定的に何かを違えていた……。
「応えてくれ、青浪……僕は君のことを愛しているんだ。僕のこの想いに……応えてくれ」
震える息を吐く。青浪の身体が揺れる。徐々にその揺れは大きくなった。耐え難いほどの無音の笑いだった。三日月なりの眉が下がり、何がおかしいのかと怒鳴りつけたくなるほどに揺れる、笑う、涙さえ溢して。そして不意に表情を失う。淡々として怖いくらいの、だのに激しい感情の変遷は、深玉の不快感をこれ以上ないほどに煽り立てた。
「……青浪は、ずっと深玉さまのことを考えていたのよ」
「嘘を……」
「ねぇ、家を壊したのは誰だと思う?」
青浪の囁きは、まさしく化生のそれだった。
咄嗟に手を離せば、軽いからだはふわりと睡床に頽れる。
花弁のように寝衣を広げて、細い足首を裾から覗かせて青浪は、じっと仰向けに深玉を見つめた。その足を、小さな蓮の花を掴み、乱暴に沓を放り棄てる。下ばきを脱がせて、包帯を解こうとして――何故かそれ以上、手が動かなくなる。春峰の手のように強張り震え、手ゆびが化石する。
(どうして……)
この白い布の下にあるものが、深玉を硬直させる。文様、彼を虜にした彼らの、蛮族たる彼らの、存在を証すための文様……この地で、この地に生きるものの血を取り込んでなお玉蘭が捨てようとしなかったものの象徴が露わになることを、それを目にすることを、深玉の心の深いところが拒んでいた。
突きつけられるのが恐ろしかったのかもしれない。絶対に、馴染むことのできぬ、隔たり、そして血の形質を。
「深玉さま、青浪はね、嫌いなのです」
表情の抜け落ちた青浪が、低い声で呟く。その声がひどく玉蘭のそれに似ている気がして一瞬、まなうらに揺れる大女が映った。はっとして首を振る。嫌な汗が背に滲んだ。
「嫌いなのよ……」
「なにが」
「何だと思いますか?」
「わからない……僕にはわからない! 君が何を考えているのか、何をしたいのか、何が欲しいのか……君達のことを何でも知りたいと思うのに、わからないんだ!」
青浪の足から手を放し、彼女に覆いかぶさるように倒れ込む。その小さな手が背に回ることを望み、しかし叶うことはない。青浪は深玉の重さを受け止めたまま、微動だにしなかった。彼女は彼には与えないのだ、何物をも。むしろ損なうことをこそ望んでいるのではないかとさえ思えた。
「あなたはかわいそうな方よ。おかあさまに選ばれて、あなた自身の家からは捨てられてしまったのね。でも、仕方のないことだわ。青浪は、あなたが誰かを殺したひとでもいいの。でも、いけないわ。あなたが殺したのは、妹君だもの。いけないことよ。そうでしょう?」
「君が……それを言うのか。ここでは血縁など、何ほどの意味もないというのに」
「そう思っているのは、ほんとう?」
返事ができなかった。
――嘘だった。
「麓の方々は、あなたの家を褒めているのよ。だってこんな田舎の、小さな集落から、立派なかたを輩出しているおうちですもの。それが例え三代前の方だって、五代前の方だって、ずうっとずうっと、褒められますわ。この家の持ち主がかつてそうだったように、あなたの家は今、麓の名士ですもの」
深玉は知っていた。この山の方楼の、元々の持ち主を。それは藍氏とこの地域一帯を二分する名家だった。かつては、という枕が必要にはなるものの、麓の人間は簡単に忘れたりはしない。
「僕の家を乗っ取りたいのか……」
「いいえ、まさか。青浪たちは、もう続きませんもの。すこしの間、ここを仮りの宿りとしただけ……それも、おかあさまがやったことだわ。青浪たちはそのもとに産まれてしまったというだけのこと、いったい何の罪がありますか? 深玉さまは青浪たちを恐れる必要がありません。おもねる必要もありません。好かれなくともよいの。深玉さまは、だって、もういらない方ですから。それでも家に迎え入れたのだから……青浪たちはあなたと共に暮らすことを受け入れたのよ。おかあさまの財産のひとつですもの」
「……僕は、ものか。君たちにとって、不要なものだというのか」
「はい。青浪は深玉さまの子など、いりませんの」
深玉はぐっと歯を食いしばった。
そう言われることを待っていたのかもしれない。だからこの家の人間の情を、彼は求めていたのかもしれない。丹の腹に植え付けたものは、いったい何であったのだろう。この青浪という少女の子をこそ、深玉は欲していたというのに。否、欲していたのかもしれない。わからなかった。自分がどうしてこの家に入り、この家で暮らし……この家の人間と交わるのか。元々、目的などひとつだってなかった。
「深玉さまは、どうしてこの家へいらっしゃったのです」
「青浪……」
「教えてください、深玉さま」
敷布に広がる彼女の髪に、鼻先を埋める。仄かな花の香が漂い、微かな死臭が漂い、冷ややかな気がぴたりと重なったふたりの間を隔てていた。その隔たりというものを取り除く方法を、深玉は知らない。知らなかったから犯した罪があった。菱の池に沈んでしまった情を取り戻したかったのだろうか? 自問しても、応えるべき己というものが彼にはないのだ。血縁、その鎖に身巻かれた家から出て彼はただ、呆然としたまま時を止めていたにすぎない。
罰されることも、罰することも望んでいない。ただ茫洋として生きることを生きていただけ……そしてそれが罪であるとも思わない。何も考えぬ不感に浸かって、欲望も希望も忘れ去っていた。そういう人間であることを、諦めたかったのに見つからなかった。
「僕は、探しに来たんだ……」
「何を?」
「わからない。小さな足をした、惑っている娘かもしれない。それか……傷ついて、誰かに愛されることを渇望しているひとを。僕は血を越えたかったんだ……」
「あなたって……青浪よりもずっと子供っぽいのね」
そう言って、青浪は笑った。大人びた、というよりは、彼女が本当に大人であることを思い知らされた気がする。己が彼女に重ねていたまぼろしが剥がれ落ちていく。いま己の下にあるのは他人のおんなであり、彼は血をこそ否定していたというのに、他人であると思った瞬間にそれはひどくおぞましいものに思えた。自分と同じ血を宿すものが、結局一番……そう思いかけて、己の過去までを捨て去りそうになる。咄嗟の拒絶と、身体の上げる叫びとのあいだに揺れ動いて深玉は、頭に浮かぶひとつの朦朧とした単語にたどり着く。
「僕は……君を愛しているのか?」
呆けた問いに、青浪が呆れた顔をつくる。
「……愛しているに決まっているわ。だって青浪は、誰もが愛さずにはおられない娘ですもの。そうでしょう? 深玉さま。おかあさまが何度も言いました。青浪は愛らしく、無邪気で、誰もが愛さずにはおられない娘だと……だから青浪も、深玉さまのことをすきよ。深玉さまが誰と眠って、誰を打って、誰を殺しても……いまこうして、すきと言ってあげられるの」
白く弾けた光、破片を追いかけて……深玉は考えることを止めた。いつかこのおんなを殺そうと思った。彼女は深玉にとって、もっとも厭わしいものだった。愛という名の何かを知ったような顔で、己の求めるものを知りながら手酷い嘘を吐く。或いは嘘と思っていないのかもしれない。圧倒的な優位に立つものが、己の踏みつけにしたものをなにとも思わないことと同じに、青浪は……漠然とした、莫大な愛情で、「すきよ」という稚く悪意に満ちた単純な言葉で彼を打ち据えた。
石榴は弾けたのだ。はじめから熟れすぎていたのかもしれない。己にぶつけられることのなかったその実を思って深玉は、だらりと四肢の力を抜いた。
「重いわ、深玉さま」
くすくすと笑う声に、応えるだけの怒りはもう、ない。
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