長恨(3)

 痺れるほど冷たい水を掬い、顔を洗う。しんとしてひどく冷え込んでいた。何日も身体を清めていないせいで、いくら房を出ないといっても、己が発するにおいがきつくなっている。春峰は大きく息を吐き出してから、意を決して手巾を水に浸した。大きな桶に井戸水を汲み、離れの裏で衣を脱いだ。用心して、背を壁に向ける。誰もいないことは何度も確かめたが、一度脱いでしまえばあまりにも寒くて、それどころではなくなった。濡れた手巾で身体を拭う。がちがちと歯が鳴った。しかし丹念に垢を擦り落とし、耐えて清める。汚れた手巾を何度も洗い、手の感覚がなくなりとうとう土の上にそれを落としてようやく、春峰は衣をまとった。桶を運ぼうと思ったら、手が滑り取り落とす。拾うことは一度諦め、房に帰り身体を温めることが先決だと考えた。

 がさりと茂みを鳴らして井戸端へと戻ると、そこには梔子がいた。驚きに目を丸くして、彼にしては珍しくまじまじと正面から春峰の顔を見た。春峰も驚く。

「春峰さま……ど、どうされましたか?」

「どうって……水を使っていただけだ。そうだ、あちらに桶を落としてしまったのだが、手がよく動かなくてな。悪いがあとで拾っておいてはくれないか? それと、食事を頼む」

 言い終わってようやく、梔子は己の不躾な視線に気が付いたのだろう、露骨なまでに春峰から顔を背ける。そして怯えのにじむ口調で、「わ、わかりました」と素早く言った。

 春峰はその場を立ち去り、房に戻ってしばらく経つ頃、丹ではなく梔子が食事を運んできた。

「あのう……」

「ありがとう」

 出て行っていい、そう伝えたつもりだった。だが梔子は、いつまでも微妙に俯いたまま房の入り口で突っ立っていた。彼が手にした盆に乗る温かい汁物が温かいうちに食べたい。言うと、梔子は肩を弾ませて恥じ入るように食事を小卓に置いた。がちゃんと耳障りな音を立てる。気が回らないのか、何かほかに気になることがあるのかは分からないが、この子どもとまともに会話を交わすことがない春峰は、一体どう接すればいいのかわからなかった。

「…………」

 黙りこくる梔子を気にしながら、春峰は慎重に匙を取った。強張る手指は火鉢にあてていたため感覚を取り戻している。ゆっくりとすればいい。だがどうしても梔子の視線で集中出来そうにない。不器用に引き攣れるような笑み浮かべて、春峰は顔を上げた。

「……どうしたんだ、梔子」

「あの……その……」

「お前がそこにいると、気になって食事が摂れそうにない。誰にも言えぬ悩みでもあるのか? おとことして何か相談したいのであれば、深玉のほうが……」

「それは出来ません!」

 梔子が大声を発して、その勢いに春峰は片目を瞠った。

「……おれでも構わないのなら、聞くが。お前にとってよい答えが出来るかどうかは知らないぞ」

「ちがうんです……ぼくのことではないんです」

 梔子が肩を縮める。それから、そろりと一歩、二歩、春峰の房に踏み入った。画眉鳥の籠の横で足を止め、毛羽立ち膨らんだ鳥を指でそっとさする。春峰を見まいとしているというよりかは、その鳥を通して……何かを見ようとしているようだった。

「……春峰さまは、知っていましたか」

「だから、何をだ?」

「深玉さまと僕の……かあさんが」

 春峰は黙り込んだ。その沈黙から梔子は答えを得たようだった。

 少年はひどく傷ついた横顔をしていた。

「知っていたんですね。知っていたんでしょう? どうして? お嬢さまにはお伝えしないのですか? 母さんのことを庇っているんですか? それとも深玉さまのことを庇っているんですか? 春峰さまはどうして黙っていたんですか」

 春峰はなおも黙るしかなかった。

 知っていたからどう出来たというのだろう。それを青浪に告げるのか? ……彼女はきっと傷つくだろう。深玉はどうなる。この家で立場を失えば。万が一つにでも、玉蘭の耳に入れば。彼はきっとこの家を去ることになる。ひどい形で。

「……誰にも黙っているんだ、梔子。お前とて、この家が壊れるのを見たくはないだろう」

 結局そう言う。すると梔子は俯いて、涙を一粒溢した。

「僕は……かあさんが恥ずかしい」

「梔子……」

 大切なお嬢さま、その夫が自らの母と不貞を働いている……この時悪いのは深玉ではなく丹のほうだった。梔子はぐっと小さな拳で目許を拭うと、顔を上げた。

「すみませんでした、春峰さま。でも僕は……やっぱり、お嬢さまに黙っていることは出来そうにありません。どうすればいいと思いますか?」

「だが青浪は、お前が告げ口をすればきっと傷つくだろう」

「何も知らないほうがいいのですか? その間もきっと母さんは……深玉さまと……」

「お前が丹に言えばいい。そんなことは止せと」

「言いました。でも……でも、聞くと思いますか? 僕のことを子供とも思っていないひとが」

「……やはり、黙っているのがいいだろう。少なくともおれはそう思う。告げれば深玉は居所をなくすし、青浪は傷つく。それに考えてもみろ、これが母上に伝われば深玉は打ち殺されてもおかしくないのだぞ」

 春峰は少々大袈裟に顔を歪めてみせた。梔子がばっと顔を背ける。脅かしすぎたかと思いつつも、何とかこの少年を思いとどまらせる必要があった。春峰は抜け殻のようになった青浪をこれ以上見ていたくなかったし、厄介ごとをなかったことに出来るのならそうしたい。何も起きてはほしくないのだ。

 そもそも深玉を撥ねつけたのは青浪だった。そして丹がそれを誘惑した。

 罪はふたりの女にあるのではないか? ――春峰はそう思えども、梔子に告げることは出来なかった。

 これが深玉ならいざ知らず……梔子はこの家で育ち、この家しか知らぬ子だ。

「どうしても黙っていられぬというのなら、お前が責任を持つことだ。お前が告げ口をしたことで起きる色々なことを、きちんと考えるんだ。青浪のためになるかどうか……深玉のためになるかどうか……そしてお前の母のためになるかどうかを。分かったな?」

「はい……」

 梔子が肩を落として房を出る。明らかに気落ちした様子に心が痛んだ。まっとうな答えを与えてやることも出来ない。怯懦が染みついた春峰の舌はただ、事勿れと唱えるばかりだ。梔子に正しい道を教えることが出来ない自らの臆病に、春峰は嫌気が差す。もしここで、青浪に告げよ、もしくはお前の好きにしろと言えたのなら。梔子は何か重大な選択を、きっとひとりでうまくこなしたかもしれない。男女のことはまだ早いにしろ……家つきの使用人としては避けては通れぬ道なのだ。

 のろのろと匙を取り直す。

 汁物はすっかり冷めてしまっていた。食欲もしおしおと萎んでゆくが、食べぬわけにはいかない。久々に水垢離をし、人と言葉を交わしたのだ。いつまでも逃避に丸くなるのは止めようと春峰は思った。梔子が勘づくほどに、深玉と丹の関係はきっとあからさまになっている。何とか手を打たなくてはいけない。青浪が消沈しているうちに。敏い妹に勘づかれることなく、速やかに。

「…………」

 だがどうしても、春峰には自信がなかった。

 何か嫌な予感がしていた。古びた飾り格子の窓から見上げた空は、雲少なく色浅く、朦朧としている。





「青浪」

 春峰はようやく踏ん切りをつけて、青浪の部屋を訪れた。

「おにいさま……?」

 睡床のうえで猫の子のように丸まった青浪は、赤く腫れた目で春峰を見上げる。それを見た時、春峰は一瞬ひどい打撃を食らったように金縛りにあった。房の入り口にとどまったまま、簾を半端に持ち上げたまま、妹の顔を見た瞬間に悟った。

「……梔子から、聞いたのか」

 青浪は返事をしなかった。暮れなずむ空から射す、短い夕陽の橙色が妹の頬を染める。くっきりとした翳を落とす。しばらく春峰が引き篭もっているうちに、青浪は痩せたように見えた。それは梔子から……深玉と丹のことを聞いたからなのか、それとも病が抜けきらないからなのか。不意にしゃがれた声が二度、三度と咳き込み、春峰に問いかけた。

「おにいさま、どうしていらっしゃったの?」

「……お前が心配だったからだ。まだ具合が悪いのか?」

 呪縛から逃れて、春峰は慎重に房へと踏み入った。やはり深玉の姿はない。そう言えばここしばらく、青浪を見なかったのと同じように深玉を見かけていない。

「お腹が空かないんですもの。何もしたくないのよ」

 ちらりと視線で示すように、青浪の食事は手付かずだった。春峰のそれよりも幾らか品数が多く、彼女が食べられるようにと細かく切られていたり、工夫を凝らしてあることが見て取れる。春峰は器を一つ取り上げて、匙を持った。

「少しでも食べろ。起きなくてもいいから」

 冷めた汁物を掬い、運ぼうとする。

 青浪がそれを、何か不思議な物でも見るかのようにまじまじと見つめていた。

「……おにいさまが食べさせてくださるの?」

「お前が起きられないのなら。食べるのか? 食べないのか?」

「食べたいわ」

 青浪が小さく口を開ける。赤い舌が黒いうろの向こうからちろりと除く。春峰は目を逸らしつつ、匙を妹の口へと運んだ。陶器の匙がかちかちと音を立てる。震える手のせいで、青浪の小さな歯にぶつかっていた。彼女はおかしそうに笑う。一筋垂れた汁が唇の端から顎へと伝う。春峰は咄嗟に袖で妹の唇を拭っていた。青浪は幾度でも口を開けた。親鳥を待つ雛のように、それのみが生きるすべだと言いたげに愛くるしく、それでいてどこか疎ましい仕草で幾度も幾度も口を開け、匙をいたずらにしゃぶり、時に噛んだ。春峰の胸は驚くほど穏やかだった。ずっとこうしていたいとさえ思った。

「……食べられるじゃないか。これで終わりだぞ」

 最後のひと口がすうっと青浪の口に吸い込まれていく。彼女は口に入れられた粥を咀嚼し、呑み込んだ。

 もう一度だけ春峰は、袖で彼女の唇を拭った。

「深玉さまは青浪のことをすきなのよ」

 滲んだ赤い唇が蠢く。春峰はぎょっとして動きを止めた。

「……何だって?」

「深玉さまは青浪のことをすきなのよ。だから丹と寝るのでしょう? 青浪は知っていますもの。……覚えていますもの」

「…………」

「おとうさまのこと」

 春峰はぎこちない動きで匙を置き、空の食器をいたずらに並べ替えた。妹の言うことを分かりたくなかった。房に籠りきりの日々、孤独のうちの彼を苛んだ夢が現実だったと知らされる瞬間がたまらなく嫌だった。過去のことならば、あれは本当だったかと疑うことも出来ようものを、彼女がこうして口にした途端に、生々しく喉元に突き付けられる。その熱を、鋭さを。たとい青浪に悪意がないとしても……そう、妹は傷ついているというのに。

 春峰は我に返り、不器用な手で青浪の前髪を梳る。

「忘れてしまえ、父上のことなど」

「出来ないわ。おにいさまだって出来ないのに、どうして青浪にそんなことが言えるの?」

「青浪……深玉のことは……」

「梔子、かわいそうな子。あの子は青浪に、深玉さまを罰するなと言ったのよ。青浪ひとりの胸に留め、ひとりで傷つけと言ったのよ。おにいさまも同じ考えでいらっしゃる?」

「おれは……」

「おにいさまも、青浪がひとりで傷つけばいいと思っていらっしゃる?」

「そうは……思わない。だがお前にも原因があるとは思っている。その責任をお前は負うべきだ。はじめ深玉を拒んだのはお前だということを棚に上げて、この話が出来るのか? お前達は夫婦なんだぞ。お前は深玉に従って……」

 青浪が唇を尖らせる。春峰が乱暴に拭ったせいでかすかに腫れた唇を突き出す。幼げなその仕草とは裏腹に、青浪の黒く円かな眸は深い恨みと怨みを湛えていた。それを見てしまえばもう、春峰は建前上の言葉を弄することは出来ない。彼は妹に殊更甘いのだ。誰よりも、何よりも、春峰は妹に逆らうことが出来ない。

「妻は夫に従えなんて、この家で言うのはきっとおにいさまだけだわ。青浪はそんなこと知らないんですもの。深玉さまだってそれでいいとおっしゃったはずだわ。だって青浪のことを愛していると言ったのだもの、それは青浪のするどんなことでもゆるすということではないの?」

「それは違う……違うんだ、青浪。愛するということは、そんなことではない」

「おにいさまは知らないでしょう。分からないのだわ。だっておとうさまのことを忘れようとしている、それが証ではありませんか。青浪は覚えているの。おとうさまとおかあさまのこと、丹のこと、梔子のこと……この家は、そうしてうまくいっているわ。壊れたりなんてしない。おにいさまは臆病者よ。青浪が傷つけば済むと思って、黙っていたんじゃありませんか。それとも青浪が気が付かないとお思いでしたか?」

 何も言えない。何も言えなかった。

 叱られた子供のように項垂れて、春峰は膝の上で拳を握り締めた。青浪が身じろぎ、半身を起こす。寝衣の彼女の髪は乱れ、目のふちは赤くなり、唇も同じく赤く腫れている。しどけない妹の姿を見まいと、春峰はさらに首を垂れた。彼は知らない、こんなときにどうすべきかなど。妹の夫の裏切り、そしてその相手は縁深い、身内同然のおんな……。丹を切って捨てるという選択肢など誰も思いもよらない。彼女はここに欠かせない人物である以前に、玉蘭の所有物だったからだ。

「……どうすれば、いいと言うのだ。お前も梔子も、何故おれを頼ろうとする? おれは何も出来ぬおとこだ。おれは欠陥物なのだ。影のように知らぬふりでやりすごすくせに、何故こういうときだけおれを引っ張り出すのだ。おれにこんな難しいことは分からない。お前の言う通り、おれは忘れることしか出来ぬのだ。なのに、どうして、おれが……こんな……」

 ぎりと歯が鳴った。春峰の口からではなく、青浪が発した音だった。小さな顎を食い締めて、太く鋭い犬歯で歯を削る。

「出て行ってよ」

「……え?」

「出て行って!! おにいさまなんて嫌いよ! 恥ずかしいと思わないの!? 青浪は、青浪はいつだっておにいさまを慕っておりましたのに! あなたなんておにいさまじゃないわ!!」

 青浪の細腕が振るわれ、小卓から盆を薙ぎ払った。いくつもの小椀と皿が落ち、耳障りな音を立てて砕け散る。あっけにとられていた春峰は、驚きに半ば立ち上がった。そして手を振り上げ……

「……打つの?」

 青浪が首を傾げる。彼女の顔には引き攣るような笑いが唇でぴくぴくとまごついている。

「…………」

 鈍い音がした。春峰の拳は勢いよく振り抜かれ、妹の頬を殴打した。がくんと首が振れて、青浪が反対を向く。殴られた拍子に口の中を噛んだのか、一寸ののち青浪は血交じりの唾を春峰に吐きかけた。衣を汚す妹の唾を見て、春峰は歯の隙間から鋭く息を吐き出すと、先程まで座っていた椅子を思い切り蹴りつけ、房をあとにした。

 背中に、甲高い声が刺さる。

「……覚えているじゃありませんか! おかあさまからおとうさまに、おとうさまからおにいさまに、そしておにいさまから青浪に与えられたものを、おにいさまは覚えているじゃありませんか! 覚えていたんじゃ……ありませんか……」

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