長恨(2)

 うって変わって青浪は、春峰を寄せ付けなくなった。

 春峰はそれも仕様のないことだと、元の通り家のなかにあって孤独な生活に身を置いていた。寒くなり、深玉から譲り受けた画眉鳥の動きは鈍い。離れの房には自分ひとりと思うと、炭を使うのも躊躇われて、火鉢はたったの一つきりだ。古傷の疼くような痛みを、春峰は眠ってやり過ごす。しかし青浪を叱ったこと、そのあとの妹の反応を思い出すだに、胸は締めつけられるようだ。

 悪い夢ばかりみる。だが起きていれば、痛みと寒さのうち過ごさねばならない。

 どちらも耐え難いことだが、夢は所詮夢だった。鳥が弱っていくように春峰もまた、衰弱している。食事さえ摂っていたが、陽当たりの悪い離れのひとりで使うには広い房でただ、つい先日までの青浪のようにすごしていた。だが妹と異なるのは、誰も訪ねてくるものはないということだ。青浪は無論、深玉も、梔子も、丹でさえも……食事を入り口に置いてはそそくさと去ってゆく。だがそれは、当たり前のことだった。

 深玉が来てからというもの、春峰が得たと思っていた繋がりは所詮幻のものだ。

 戻りたいと願えばまた不和を起こしかねない。青浪が深玉よりも春峰を枕辺に呼ぶ。そんなことは正しくないのだと、春峰は理解していた。

(おれがひとりでいればそれでいいのだ。青浪が深玉と夫婦として睦まじく過ごし、ふたりを梔子と丹が助けている。母上のことは気掛かりだが、あのひとは……あのひとのことは、いいんだ)

 火鉢の中は灰だらけで、火は弱弱しい。山の冬を過ごすにはあまりにも心許ない。だが身を起こし、軋む身体に鞭打って外の小屋へ炭を取りに行くのは億劫だ。丹と鉢合わせぬよう食事を取りに行っても、温かかったはずの汁物や菜はしんと冷えている。鳥は鳴くだけの気力がないのか、籠の底で丸く膨らみ、じっとして動かないでいた。

「……すまないな、おれの勝手に付き合わせて。鳴かぬのなら、お前もあちらに行けばいいのだが……」

 今の春峰には、たといもの一つでも家の何かを変えられる気がしなかった。それをしてはいけないという強い戒めを自らに課していた。ただ、この籠の鳥があわれだ。見た目に美しくなくとも、ひとの耳を悦ばせる声を持っていたというのに。めっきり弱り、鳴くこともなくなった。

「お前が鳴かぬのは、連れ合いがないからか……呼んでも無駄であると思ったからか……?」

 手を伸ばし、茶色く毛羽だった鳥にそっと触れる。鳥は微動だにせず、春峰にされるがままとなっていた。不意に恐ろしくなり、春峰は手を引く。薄べったい古布団を何枚も重ねて掛けて、壁の方を向いた。

 睡床の底から冷たさが忍び寄る。だがそれは与えられた冷たさ、秋の夜の淫靡な果実のぬめりや、菊花の甘い水とは違う。ただ誰にも等しく降りかかる厳冬であり、温もることを選ばなかったのは春峰だった。

 眠りもまた、冬を映す。蠟梅が鼻先に馨った気がした。



 それがいつの季節であったかは覚えていない。或はあらゆる季節、あらゆる時間を問わず春峰はその記憶を有している。青浪が生まれる前……青浪が生まれてのち……季節の感覚がないのは、今この家で唯一時節を示すものである花苑が未だ作られる前であったからかもしれなかった。不断の記憶が零れ落ち、駆け巡る。天瀑の底に永遠押し込められている痛み……打ちつける水の烈しさから逃れることが出来ぬよう、子は親に、蹂躙された。

 忌まわしい、花の香よりもなお苦い土の味が舌の上へと蘇る。

「貴様が……おとこだからではない。貴様があの女人によく似たから、あの女人は貴様を、おれを、愛さぬのだ!」

 打擲、殴打、足蹴にされ転げる……ぶつけたところからじくりと傷みだす果実とは違う、だが幼子の心は受けた傷からじわりじわりと這い忍びよる悪意に腐れ、怯えた卑小な魂は縮こまり、愛情は屈曲し、恐れるべき存在をいたずらに増やした。優しいひとだったのに……敬うべきひとだったのに……幼子はいつでもそう思おうと努力をしていた。彼は哀れなひとだった。幼子が愛されぬよりもずっと永く愛されなかったから。なのに恋い焦がれていたから。幼子は早々に己を顧みぬ母を諦めていた。だが大きな手で彼の成長を喜び高く抱き上げてくれるひとは、諦めるには近すぎた。彼はとても穏やかで愛情深いひとだった。下僕のようなひとだった。無性の愛を捧げ続けた。だが生まれた子と母との間の断絶が深まれば深まるほど、そして彼のあとに産まれた二人の弟が人知れず死んだあと、彼は狂い始めた。四人目の子が母の身に宿ったとき、彼は幼子に告げた。「あれが男の子であったら、きっとまた殺されよう。女の子であれば……殺されるのはお前だ」と。

 蟻が列をなして歩いている。巣のなかへと戻っていく。

 青浪が生まれたのは落花の季節、春の絶頂、母が最もこの世を愛する時節だった。

 幼児は――春峰はいつしか幼子ではなくなり、彼――父は歳よりもずっと老いていた。母の容色は衰えを知らなかった。街方へゆき帰らぬ女人と、孤房を守るおとこの嘆き……春峰は鏡を見ては恐れに震える父の姿を睡床のうえへぐったりと臥せて見るともなしに見ていた。彼の精を飲み、おとこは若返ることを望んだ。母に子種を植えることが父の仕事なのだ。春峰はそう思っていた。あるときおとこは無心に花を食らっていた。異様の行動に春峰は怯えていた。「不老長寿の薬効があるのだ」。「お前はもう使えぬから」。そうだった。戦役ではない。春峰はずっと、ずっと……。

「父上、女の子が産まれました。真っ赤な顔をしていました。ちっともかわいくありませんでした。でも母上は……とても愛しそうにおれの妹を抱いているのです。おれは殺されるのですか?」

 顔色を失う父を見たとき、何かが変わろうとするのを感じた。

 殺されるのだと思った。ゆらりと彼が立ち上がり、春峰は虐げられることを予感して咄嗟に頭を庇い、しゃがみこんだ。だが父は彼の横を通り過ぎ、幽鬼のような有様でふらふらと、覚束ぬ足取りで房を出て行った。

 ――そして帰らなかった。

 柳絮が転げ、灰色の汚らしい塊となって地を転がる頽廃、その一方では落花が晩春を祝する景色のうち、白柳の木に首を吊った父の死体は揺れていた。

 春峰はその死体を下ろし……丹とともに……彼に意味ありげな視線をくれる丹とともに……それを天瀑へ擲った。母は、玉蘭は行方の知れぬ夫のことをただの一度も訊ねることなく、弔うこともなく、腕の中の赤ん坊をあやしていた。それを遠くから覗きながら春峰は、己も殺されたのだ、否ずっと死んでいたのだと気が付いた。

 父は必要とされていた。生殺しだった。だから死を選んだ。もう要らなくなったから。だが春峰は初めから要らぬものだった。何故生かしたのかという疑問が彼そのものになろうとしていた。何故肉は生きているのかと。何故弟達のように殺さなかったのかと、赤ん坊の時分には己は、彼女の、腕に、抱かれたろうか、と。思うのだ。

 何故生かした。何故生かされたのだ。何故おれは、ここに居るのだと。

 青浪を羨望しながら彼は、しかし、優しく温かい情愛が己の胸に宿っていることにも気が付いてしまった。それは父の死体を見つけたときよりももっと鮮烈に、彼を生に留める。

 夢を見る。夢の中で彼は父の恐るべき形相を、愛に飢え狂い果てたひとの執念深い手を見る。

 その手が、己の手とよく似ていることに気が付く。元来穏やかな性質も、深情けも。

 土の味が広がる。とても苦い味だった。家族があったのだと思い出し、春峰は夢よ覚めろと念じる。

 すでに死した父が己を彼岸に引っ張ってゆこうとする、これは呪詛だと震える。

 ――もう苦しめないでください、父上。おれはこれ以上、死にようがないんです。生きようもないんです。

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