東浩紀「ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2」
東浩紀「ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2」を読む。前作「動物化するポストモダン」より好印象。「動物化するポストモダン」はどことなく強烈な説得力に欠けると思ったが、こちらはポストモダンが云々は別として、ライトノベルやノベルゲームの動向について巧く解説している。
コンピューターゲームの影響を受けた作品、プレイヤー視点とプレイヤーが操るキャラクター視点のわずかな差異を逆手にとったメタフィクション的な構造を持つ作品が90年代から00年代にかけ登場した。
例えば日常系アニメも、幾つかのルートに分岐するノベルゲーム風世界の一つの時間軸として解釈することも可能だろう。お気に入りのルートにずっと浸っていたい、そういう観点から見れば、ノベルゲームのアニメ化・流行から日常系アニメの流行は自然なことなのかもしれない。
個人的にはリアリズムという言葉に引っかかる。本著で述べられるまんが・アニメ的リアリズムとは、漫画・アニメ的な世界をそれらしく表現するというニュアンスで、本来の自然主義的なリアリズムとは異なるが、何かしっくり来ないような気もする。
典拠となる柄谷行人の著書に当たってみないと、とも感じる。透明とか半透明と言われても、分かったような分からないような。肝心なところで曖昧なように思える。
「動物化するポストモダン」で触れられているが、現代のキャラクターは目や鼻、口、髪型といったパーツに分割して、それぞれの組み合わせと見ることも可能だ。キャラの特徴がデータベース化されているのである。
90年代のアニメを今観ると、結構バタ臭いキャラデザインなことに気づく。いわゆる萌え絵はそこから更にバタ臭さをそぎ落とし、現状に至っている。ハンコ絵とも揶揄されているけど、和風美少女を上手く表現していると個人的には思う。
絵を描くこと自体、対象の特徴を捉え、強調(デフォルメ)して描く。そこからどんどん無駄をそぎ落としていったのが、記号的とも揶揄されるキャラクターか。デフォルメしているから、却ってそれらしく見えるのではという気がする。
先駆的な例として、手塚治虫のキャラクターが取り上げらている。物語から引き剥がしても成り立つキャラクター性、手塚作品だとスターシステムと言えばいいか。ヒゲ親父なら頑固者とおおよその役柄が想起できる。
が、疑問も感じる。手塚以前・以後で分けられるのは間違いないが、「のらくろ」でも主人公は負傷してたはずだし、名無しの兵隊ではあるが、決死隊が勝利をもたらすというエピソードもあった。死体が描かれていたかどうかは記憶にないが。
とにかくノベルゲーム的メタフィクション的な構造を持つ作品が登場、支持を集めたことは分かった。
「ゲーム的リアリズムの誕生」の帯には「物語の行方がここにある!!」と強調されている。評論家は予言者ではないのだから、別に予測が外れても、それはそれで仕方ないと思う(もちろん時代を掴む嗅覚の鋭さは求められる)。ただ、論旨はきちんと理論づけされていることが必要だろう。乗用車の世界だと自動車評論家が絶賛した車が売れないなど日常茶飯事だ。
話を戻すと、ラノベのアニメ化に際して、キャラも設定もテンプレ化して……という不満が一部であることは確かなようだ。で、それに対する解は一つではないということだろう。
余談。
雑誌AERA(2011年2~3月の頃のもの)で気鋭の演劇家たちが取り上げられていた。70年代生まれのいわゆる団塊ジュニア、失われた世代に属する人たちだが、ライトノベルの世界系作品とも通底するものがあるようだ。
就職氷河期に当たり、例えばサラリーマンとしての人生、それを生きる自分といった個が成り立たない事態が進んだ(記事では「大きな物語」としている)。
作家によってスタンスは異なるが、「自分って一体何なんだ?」そういったアイデンティティの危機の中から模索されたものが演劇界の新たな潮流として注目されているとのこと。
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