東宏紀「動物化するポストモダン オタクから見た日本社会」

東宏紀「動物化するポストモダン オタクから見た日本社会」(講談社現代新書)を再読する。2001年に初版発行なので20年前の書籍となる。オタクから見た日本社会とあるように、漫画・アニメ・ゲームといったサブカルチャーに現代思想的な観点で切り込んだ本である。


エヴァンゲリオンの庵野監督がオタク第一世代であるとすると、僕自身は1970年前後に誕生した第二世代ということになる。生まれた頃から漫画・アニメ・特撮作品が身近にあった世代なのである(ゲームについては小学生の頃からである)。本書では1980年前後に誕生した第三世代を主な分析対象としている。


何かで読んだが、最近ではポストモダンという言葉を使うのが気恥ずかしいといったニュアンスで捉えられてもいるとのことで時代の変遷を感じさせる。僕自身はリオタールの著作を読んだけれども、さっぱり理解できなかったので、何か言及することはできないが。


動物化するとは即物的に欲求を充足することで、アメリカ型の消費社会が想定されている。現代はオリジナルの消費にとどまらず、それのシミュラークル(模像という訳語が適切か)を大量に消費する社会になっていると指摘する。


大塚英志は深層に世界観を置き、表層でそこから紡ぎ出される小さな物語を消費するという当時新しかった消費行動を指摘した。東は現代においてはツリー構造状の深層からデータベース化された深層へと移行したと指摘する。データベースからクエリによって任意に情報を引き出し、その表層に現れた情報を消費するといった形であると指摘するのである。


現代社会は近代社会が持っていた「大きな物語」を喪失していると指摘する。適切な例えか分からないが、いい大学にいっていい会社に入れば一生安泰といった図式は過去のものとなったことが挙げられるだろうか。そういう喪失感を持った世代の心情が分析されるのである。


20年後の視点で見てみると、2021年現在だとノベルゲームは退潮し、小説投稿サイトがオタクを惹きつけていると言えるだろうか。異世界転生もの――トラックに轢かれて死んだ主人公が異世界に転生し、現代社会の知識を使って無双するといったプロットの作品群――に見られるように、なにかのテンプレートに当たる作品(それ自体シミュラークルである)が登場すると無数のフォロワーが誕生し大量に消費される。そしてそのオリジナルは明らかでないといった現実が想像されるだろうか。


なお、メタフィクショナルな作品を高く評価する傾向が見受けられる。


本の整理をしようと思って段ボール箱を開けたら、たまたまこの本が入っていた。前回読んだときは、強烈な説得力に欠けるという印象だったが、今回は少しは理解できただろうか。この本を買った動機は多分ポストモダンという言葉に惹かれたのだと思う。ポストモダン思想という用語は知っていたが、それが何を意味するかを知らなかったのである。


前回読んだときの感想を調べてみると、外国からの輸入に終始する学者が大半である中、日本のサブカルチャーという独自のフィールドを得たことは幸運であるといったことを記していた。


<追記>

しばらくして、ポストモダンという言説に疑いを抱く。一度根底から考え直した方がいいのではなかろうか。実感としてインターネット以前/以後の方が適切な気がするのだ。リオタールは別に高度情報化社会を予想した訳ではない。


ポストモダンでは大きな物語が失われ、小さな物語が乱立すると解釈されている。大きな物語とは例えばイデオロギーである。冷戦が終結して唯物史観は退潮したかに見えるが、現在でもポリティカル・コレクトネスでフランクフルト学派が影響を及ぼしている。また、現在ではグローバリズム/新自由主義が大きな物語となっているのではないだろうか。「弱肉強食ですよ、自己責任ですよ」である。小さな物語、二次創作は盛んだが、これは著作権の掌の上で踊っているに過ぎない。宣伝になるから見逃されているだけだ。

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