二章 『Enemyはどこにいる?』 その5
ももを追いかけるのは、意外にも簡単だった。というのも、ももの方も尿意の我慢が限界だったらしく、内貴がトイレを出ると、一足先に隣の女子トイレでトイレを済ませた様子で、すぐそこの通路をとぼとぼと歩いていたのだ。
他のお客さんの迷惑にならないように、早足に追跡を開始するが、ももがそれに気づき全速力で逃げはじめ、内貴もそこそこ急いでそれを追いかけ。
やがて中野ブロードウェイの外に逃げたももをさらに追いかけまわし、店の立ち並ぶ大きな通りを走り抜け、住宅街に入り。
やがてずっと追いかけ続けてくる内貴に観念したのか、それとも疲れたのかはわからなかったが、ももは住宅街の隅にある小さな休憩スペースのようなところに入った。切り株を模した小さなイスに腰を下ろすと、乱れた息をゆっくり整える。
ももが足を止めたのを見て、内貴は走るのを止めた、
そして、自分もももと同じように荒くなっていた息を整えながら、ゆっくりと近づいていく。
警戒心の強い猫に近づくような気分だった。
また、いきなり顔を上げて内貴のことを睨みつけて走り去るんじゃないかと思ったが、そんなことは無かった。
一メートルくらい離れた場所にあったもう一つのイスに座り、恐る恐る横のももの方へと視線を移すと、ももはイスの上で膝を抱え、膝で口元を隠すようにしながら、内貴の方に視線を送ってきていた。
「なんで……追いかけてきたんです?」
「流石に泣かせたのになにもしないのは人として責任感ないかな、と思って。別に泣かせたらなんでもかんでも泣かせた方が悪いとは思わないけど、泣かせたらまずそのフォローはすべきだろうって思ったから」
「泣きやんですますよ、わたし。泣きやんだら、またわたしに正しいこと言うんですか?」
「本当に泣きやんだならもちろん言うけど」
迷わずそう答えると、ももは少しだけ驚いた顔をした。
それから、ぷ、と噴き出す。
「落ち込んでる女の子に言うことじゃないです、それ」
「正しいこと言ってるのに、聞いてもらえないと悲しいじゃないか。だから、俺は、ちゃんと泣き止んだら何度でも正しいことを言うと思う。……けど、今のももちゃんはまだ泣き止んでないと思うから、まだ言わない」
「もう泣いてないです」
「今なんか変なこと言ったら、一瞬で泣きだしそうだけど」
「……泣かないです」
そう言いながらも、ぐすん、とももは鼻をすすって膝に顔を埋める。
そんなしょぼくれた姿を眺めながら、内貴はこめかみを人差し指でぽりぽりと掻いた。流石にこんな状況では、話もなにもできない。
一度椅子から立ち上がると、近くにあった自販機でジュースを買った。先日エコーと立ち話した時と違って、有名なラインナップが揃っている自販機で助かった、なんて思いながら炭酸飲料と普通のジュースを二本買う。
そしてイスの方に戻ると、ももの方にジュースの缶を向けた。
「どっち飲む?」
「いらないです……」
「飲んでくれないと、俺が困る。二本も飲めないよ」
「もって帰ればいいじゃないですか」
「これ以上鞄重くしたくないんだ。だから飲んでくれない?」
何度目かのやりとりで、ようやくももは観念したようだった。小さく息を吐くと、炭酸の入っていない方の缶を指さす。
「炭酸、キライです」
「そうなんだ。じゃ、こっちどうぞ」
「どーも」
近づいて缶を差し出すと、ちょっとだけ顔を上げてそれを受け取った。相変わらず膝を抱えたまま、膝の間でプルタブを開けて、くぴくぴと舐めるように中身を飲み始める。
飲んでいる時に話しかけるのもなんだろうと、内貴もとりあえず炭酸飲料に口をつけた。わりと久しぶりに飲んだせいか、炭酸が舌をぴりぴりと刺激してきて、微妙に顔をしかめる。
正直なところ、内貴もあまり炭酸ジュースは好きではないのだった。
自分が嫌いなら他人も嫌いだろう、というのは流石に決めつけがすぎると思って炭酸を一本買ったのだが、今回に至っては完全に間違いだった。
「……想定外だなぁ」
己の失敗に小さくため息を吐くと、ももが顔を上げて不思議そうに内貴の方を見た。
「もしかして、炭酸、苦手なんですか? 内貴さんも」
「いや、まぁ、飲めないほどじゃないから……大丈夫、大丈夫」
「ももだって飲めないほどじゃないです。交換します?」
「そんなことをすると俺のなけなしのプライドが傷つくから、遠慮しとく」
「はぁ……そういうものです? 嫌いなら、嫌いって言っていいと思いますけど、ももは」
「いや、結構難しくないか? 嫌いだからって、はっきり嫌いっていうのは」
師匠じゃあるまいし――と。
そんなことを言ったら、ももは少し遠い目で、空を眺めた。電線が通る夕焼け空を、時折鳥が横切っていく。
なんとなく、内貴は、ももが鳥たちを羨ましそうに見ている気がした。本当に、ただの気のせいかもしれなかったが。
「ももも、そう思うのです。嫌いだとか、好きだとか。ハッキリ言うのは難しいって。だから……師匠みたいになりたいんです」
「周囲に合わせられないだけの人だと思うけど、師匠は」
「もちろん、わかってます。でも……周囲がわたしのことを弾いてきても、負けないようにはなりたいんです」
「……いじめでも受けてるの?」
もしかしたらと思って尋ねたが、ももはゆっくりと首を横に振った。けど、完全にいじめを受けていないとは言い切れないのか、その表情は曇っていた。
「いじめ、ではないです。多分……ちょっと、馬鹿にされてるだけなのです。強いて言うなら」
「馬鹿にっていうと、たとえば……『あいつは人切り侍だから近づくな』、みたいな?」
「……、あの、一体どんなことがあればそんなことを言われるようになるんです?」
自分のことを話そうと思っていたももは、驚きと呆れが入り混じった表情で内貴のことを見てきた。
どうやら自分の方がいじめに近い状況にあるようだと理解して、内貴は少しだけ心の中で泣いた。
「ま、まぁ、俺のことはいいんだよ、俺の事は」
「え、冗談とかじゃなくて本当に言われてるんですか? 内貴さん」
「本当に大丈夫だから! ね!? 中学生女子に気遣われるとか本当になんかもう色々辛いからこの話はこれでお終いにしてください! 本当に!」
内貴の必死の言葉に、はぁ、と頷くもも。ももの中で自分に対する敬意的なものが失われつつあるような気がしたが、内貴はなるべく気にしないようにした。
今はももの話である。
「それで……ももちゃんは、学校でなにか言われてるの?」
「別に……いつも言われているわけじゃないです、けど……」
「たまに?」
「……うん」
話を戻すと、ももは気まずそうに頷いた。数秒視線をさまよわせ、話すかどうか迷っているようだったが、やがて一度手の中の缶ジュースに視線を落とすと、ゆっくりと口を開いた。
「わたし……可愛いのが好きなんです」
「可愛いのが好きっていうのは……まぁ、なんとなくわかるよ。ファッションというか、制服も色々弄ってるみたいだし」
ももの着ているセーラー服は明らかにスカートの丈が短かったり、小さい缶バッジがワンポイントでつけられていたる。
胸元のリボンも丁寧に、見栄えに気を遣ってむすばれていて、着こなしに気を遣っているのはファッションにはそこまで敏感でない内貴にもよくわかった。
「この制服もそうなんですけど、ももは、色々頑張って可愛くしてるんです。髪だって……時間かかるけど、可愛いと思うから頑張ってセットして……長いけど、サラサラにしとかないと見栄え悪いから、毎日ちゃんとケアして……お肌だって、日焼け止めとか、夏は欠かさず塗ってるし……頑張ってるんです」
だけど、と。
ももは悔しそうに、強く膝を抱きかかえて、言葉を吐く。とても、苦しそうに。
「学校のみんなは……ももの格好を見ても、可愛いなんて言ってくれないんです……それだけならまだいいけど、ツインテールを見て『子供っぽい』とか、スカート短くしたら『ビッチだ』とか、制服弄ったら『変だ』とか言って……可愛いからやってるだけなのに! ちゃんと、可愛いのにっ」
声を荒げたももは、缶ジュースを地面に落とした。内貴が思わず立ち上がってそれを拾おうとすると、ももは膝を抱えて静かに嗚咽を漏らす。
「……可愛いもん……わたし……ちゃんと可愛くしてるもん……」
「……大丈夫、ももちゃんは可愛いよ」
缶ジュースを拾い上げる。中身はほとんど空だった。わずかに残った中身を飲み干して、内貴は缶を握りつぶす。握りつぶす手には、自分でも驚くほどに力が入ってしまっていた。
――ももの状況は、内貴と似ている。
別に、実害があるわけではない。ちょっとこそこそと悪口というか、悪口にも満たない批判というか、そういうものを言われて、クラス皆で自分を弾くような空気を作られている。
実害はない。だけど、心にくる。
そういうことをされると、心が弱る。一人、教室でじっとうつむいて過ごすしかなくなるくらい、クラスメイトの顔を見たくなくなるくらい、心が弱る。
そんな時に――きっと、ももの前にかすみ(師匠)が現れたのだろうな、と内貴は想像した。
自分も、弱っている時に突然かすみが現れた。滅茶苦茶だけど、その生き方を真似したいとは思わないけれど、その生き方は羨ましいと思った。
我を通し好き勝手するその強さは、まぶしいほどに羨ましかった。
きっとかすみは、内貴やももと同じ状況になっても気にしないのだ。内貴の立場だったならば『不良をばったばったとなぎ倒してやった』などと吹聴し、ももの立場だったならば可愛いことをひたすら追求して、自分を認めないクラスメイト以外の全ての人間に自分を認めさせるだろう。
「……やっぱり、わかるよ、俺は。ももちゃんの気持ちとか。師匠の傍に居たい理由も……うん。なんとなく、わかった」
聞かなくとも。内貴には、その理由が想像ついてしまった。
「なぁ――ももちゃんは、どうしたいんだ? クラスメイトに、可愛いって言って欲しいのか? それとも、もっと他に、なにかしたいことがあるのか?」
内貴は問いかける。上月ももの欲しいものを問いかける。
弱い者同士、我を簡単に貫き通せないもの同士、ちょっとは力になってやりたいと思ってしまうから。
「師匠みたいに、強くなったとして……どんなことをしたいんだ?」
内貴の質問に、嗚咽を止めたももはゆっくりと顔を上げた。
涙をぬぐって、弱弱しい、頼りない瞳で内貴を見つめる。
その大きな目に、初めて内貴は自分が正面から映し出されているように感じた。
「わたしは……強くなりたい……です、けど……それだけじゃ、なくて」
「うん」
「師匠と一緒に居たいのは……師匠が、色々、構ってくれたから、なんです」
うん、と。
内貴は、ももの言葉に静かに頷き、相槌を打つ。ゆっくりと、ゆっくりと。内貴はももの言葉を待ち、しっかりと噛みしめるように聞いていく。
「ももは……もっと、師匠みたいに……自分勝手に……可愛いくなりたいんです。でも……それだけじゃなくて……わたしは――」
――友達が、欲しいんです。
そんな本音が、ぽろりと漏れた。
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