一章 『堪えきれないstruggle!』 その2

 きゅきゅっ、と美しい音がした。

 それを聞いた内貴は、思わず頬を緩め、もう一度音を鳴らすべく汚れた布を構える。

 そして目の前の男性用小便器に手をかけ、フチを擦って再び美しい音を出させると、ふぅ、と『やりきった』という感嘆のため息を吐いた。


「やはりトイレ掃除は楽しい……」


 放課後の少し前の清掃時間。内貴は自分に割り当てられた特別教室棟の端にあるトイレの掃除を楽しんでいた。

 元々、内貴はトイレが好きだ。あまりお腹が強くなく、昔から世話になることが多かったというのも理由の一つではあるが、それ以上にこの落ち着ける雰囲気が好きだった。学校のトイレとは普段、落ち着ける要素は少ない――下手に大便をするところでも見られようものなら確実にしばらくの間話題に上ることになる――ものではあるものの、中には落ち着ける場所もある。

 場所。時間。それらを的確に選べば学校とはいえトイレは内貴にとって安住の地であった。

 そしてこの特別教室棟三階端のトイレはその安住の地の中でも別格だった。

 三階に存在するのは音楽室、家庭科室、物置、進路指導室。どれも授業以外ではほぼ使われない。部活で使う人間もまれにいるが、その多くは女子であって男子がこの三階のトイレを使うことは少ない。

 屋上に繋がる階段の踊り場でいちゃつくカップルも居るがそれらもトイレを脅かす敵ではない。ムードの欠片も無いトイレには流石にカップルも近づかないのだ。

 よって、特別教室棟三階のトイレは最強の防御施設と言ってよかった。しかも清掃中の札を掲げて居ればその防御力は百倍! ……と言うのは言い過ぎにしても。


「やっぱりトイレは落ち着くなぁ」


 一通りトイレ掃除を終えて、個室の便座に座って内貴はトイレ全体を見渡した。わずかに水気を残し輝く床が美しい。いっそ永住したい、なんて意味のないことを考えてしまう。


「学校の一日をトイレで過ごせたらどれだけ幸せか……はぁ~」


 今日一日のことを思いだして、気分も重く、深々とため息を吐く。元々友達は一人もいなかったが、ここ最近は事件のせいでクラスメイトと言える人間すら居なくなっている始末だった。椅子に座っているだけで精神が削られていく教室内の空気は、苦行としか言いようがない。


「……悪いことなんて、してないんだけどなぁ」


 どうしてこんなことになるのやら――ともう一度ため息をついていると、不意にトイレのドアがノックされた。ととん、とんとん。ととん、とんとん。聞きなれたリズムに、内貴は顔を上げてドアの方に声を投げかける。


「終わってますよー、先輩」

「おーう」


 ドアを開けてトイレに入って来たのは、三年生の男子生徒だった。詰襟制服につけられたバッジに、『3―Ⅱ』と刻まれている。明るい茶髪を軽くワックスで立たせた少年は、快活な笑みを浮かべながら軽く手を上げて、個室から出てきた内貴に挨拶をして来た。


「うっす。今日もクソほどくたびれた顔してるな、内貴。ウチの親父みてーだぞ」

「そう言う先輩は今日も元気ですね。今日も購買行って来たんですか」

「まぁな。部活がなくても、この時間になると腹減るから」


 そう言いながら、『先輩』こと菅原 五ツ木(すがわら・いつき)は手に持っていたビニール袋からスナック菓子を一つ取り出す。駄菓子の定番、『うますぎ棒』だった。いつものようにクセでつま先で床を『とんとん』と小突くようにしながら、包装を剥く。


「お前もなんか食べるか? 『うますぎ棒』と『ボッキー』買って来たんだけど」


『ボッキー』は太い棒状のクッキーにチョコレートがコーティングされた菓子だ。微妙に卑猥な名前と形で主に中高生に大人気。女子が舐めると男子にモテるという話も納得の定番商品。


「じゃあ、ボッキーで。一袋でいいです、あんまりもらうのも悪いですし」

「おう。食え食え」


 投げられた小包装の袋をキャッチして、破き、中身のチョコ菓子を自分の口に突っ込む。じんわりと広がるチョコの味に、少しだけ沈んだ気分が緩和された気がした。

 棒クッキーにまとわりついたチョコを口の中で溶かしていると、五ツ木が『そういえば』と話を切りだす。


「今朝、自主練してて怒られたんだって? 馬鹿なことするな、お前も。もう、剣道部はオレとお前しかいないんだし、大人しくしてればいいのに」

「俺は自主練してただけなんですよ……本当に。まだ剣道部である以上、真面目に練習をしなきゃいけないと思っただけで」

「クソ真面目だなぁ、内貴は。ついでにもうちょっとだけ想像力が働けば、きっと満点の優等生になるだろうに」

「俺に想像力とか期待しないでください。図工も美術も3以上とったことないんですから」


 ちなみに、中学校時代の内貴の美術での評価は『写実的な絵ならまぁまぁ書けるがこれなら写真の方がまだ味があっていい』というものだった。内貴は高校では美術は選択授業で選ばず、習字を選んだ。もう美術の勉強はしたくなかった。


「その諦めのクソ速さは欠点だな。もうちょっと粘れよ――っと」


 うますぎ棒の最後の一口をかみ砕いて飲み込むと、五ツ木はポケットから震えるスマホを取り出した。操作して、すぐに耳を当てる。


「ん、オレ。……なに? わかった、すぐ行く」


 通話はすぐに終わった。つま先で床を突くのを止めた五ツ木は、ビニール袋の中にごみを突っ込むと、申し訳なさそうな顔で言う。


「悪い、急用。もうちょっとダベってたかったんだけど」

「いや、気にしないでください。おかし、ごちそうさまです」

「このくらい気にするなよ。――ま、しょげずに家では練習続けろよ? クソ真面目なの、オレはいいと思ってるからさ。曲げないでいきな」


 じゃ、と左手を軽く振って五ツ木はトイレを出ていく。


「……心配をかけてしまった」


 朝怒られたことを五ツ木が気にかけてくれたことに今更ながら気づき、内貴は少しだけ後悔して頭を抱えた。もうちょっと早く気付ければ多少の空元気も出しただろうに。

 自分自身を『残念な奴』と思いながら、残ったお菓子を一気に口の中に放り込んでバリバリとかみ砕き、飲み込んだ。

 甘いチョコと、喉に突っかかりそうな棒クッキーの欠片が体を通り過ぎていく。それを飲みこんでも、胸のもやもやとした気分は晴れない。ここのところ、ずっとこの調子だ。剣道部が活動中止になってから、ずっと。


「想像力……想像力かぁ……どうやれば身につくやら」


 はぁ、と本日何度目かわからないため息を吐いて、内貴は食べ終えたボッキーの袋をポケットにしまった。

 自分も帰ろう、と、トイレの外に出て『清掃中』の札を取ろうと、足を動かして、扉に手をかけて。


「こんにちは」


 扉を開けた瞬間、目の前に顔があった。そのことにぎょっとする暇もなく、あ然とする隙もなく、ただ、目の前の少女がわずかに微笑んで、その表情を美しいと感じている間に――衝撃が来た。

 一体何が起こったとか、そんな思考を挟む暇を与えない速度で、突如目の前に現れた少女は内貴の腹に向かって勢いよく飛び込み、トイレの床に内貴の体を縫いつけた。

 瞬間、内貴の中に思い浮かんだのは部活に剣道を教えに来てくれている師範に思いきり頭をぶっ叩かれた記憶だった。防具越しとはいえ弱点を思いきりぶっ叩かれる感覚。防御不可能な痛み。今内貴の体を襲っている痛みはその類だった。

 とは、いえ。

 痛いとは、いえ、だ。

 全く持って状況は分からないが、わりと美人な女の子に乗っかられているこの状況自体は、内貴にとってはプラスな感情を抱くイベントだった。

 ……この時点では。

 だが、その想いがすぐに勘違いであることに気付く。

 先ほど扉を開けた時目の前にあったはずの、どこかはかなげにも見える喜びをたたえた微笑みは既に少女の顔になかった。

 代わりに、その口元はにやぁ、と歪な笑みの形になっていて。

 痛みのせいだけではなく、思わず背筋が痺れるような恐怖に近い感情を、内貴はその笑顔から感じていた。


「なんっ……なん……でっ……!」


 喉がひきつる。言葉が出ない。いや、そもそも、一体この状況でどんな言葉を言うのが正解なのかもさっぱりわからない。

 ただただ混乱するばかりの内貴。そんな内貴に対して、少女は。


「く……くく……ふ、く、くくく……っ」


 少女は、笑っていた。本当に、心底、楽しそうに。悪魔的な笑みを浮かべて。


 ――それが、後に『師匠』と呼ぶことになる少女との出会いだった。




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