1-06『密売インフォメーション2』
驚くような発言じゃない。けれど、僕は瞬間、返答に詰まってしまう。
一色はヨミを、あの図書室に住まう自称本の精霊を知っている。
――言い換えれば見ることができる。
そのこと自体は僕も知っていた。だから驚かない。
しかし、まさかこの場で、一色がそのことに言及するとは思わなかった。
それも――どこか責めるような口調で。
「あ……、読み……?」
波崎は首を傾げている。
当然だ。あの言い方じゃ、さすがに何を言っているのかを察せまい。
一色が狙ってそうしたからだ。
「……、っ」
僕は答えなかった。
答えられなかった。
答えられなかったことが何よりも雄弁な答だった。
「ま、そりゃそうだよな」一色は大仰に首肯を繰り返す。「そりゃそうだ。図書室に行くのに、それ以外の用事なんてあり得ないよな」
「……、何が言いたいんだ?」
「別に。別に俺は、何も」
――ただ。
と、一色は微笑して言った。向き合う僕の背後を見据えながら、
「ただ、俺以外には、何か言いたげな奴もいるようだけどな」
ほぼ反射で振り向いた。
予感に――それも決してよくはない類のものに――突き動かされての行動だった。
振り返って背後を見てみると。
人がいた。
ひとりの女子生徒だ。
「――……」うわ。
僕は自分の表情筋が引き攣って歪むのを自覚する。いつかこうなるとわかっていた事態なのに、内心の動揺を抑えきれない。
こいつを前にすると、いつも、そうだ。
「あ……朝霧、」
「ふうん」と。
ほぼ棒読みの頷きに遮られた。
そいつはもう一度、色のない声音で「ふうん」と呟く。瞳にも感情は見えず、ただ眠たげに瞼を半分沈めながら、
「昨日は見なかったと思ったけど、そう、……また行ってたんだ」
言った。
「……《花より団子》、だな」
と、波崎が食べかけのパンを持ってそそくさと席を立った。用法が違う、などと突っ込む余裕が今の僕にはない。
いいよ、逃げろ波崎。その判断はまったく正しい。
目の前の少女は、とろんとした眠たげな双眸で上目遣いに僕を見据える。
ポーカーフェイス、というのとはちょっと違うが、感情の読めなささで言えばくぬぎ先輩ともいい勝負だ。
――
この学校で、というかこの世界で、僕と最もつき合いの長い友人がそこにいた。
彼女はおそらく、僕にとって初めての友人だ。
家が近所で、小さい頃はよく遊んだ。おそらく――と注釈をつけたのは、物心がつく前にもしかしたら友達がひとりくらいいたかもしれないという要らない配慮から出た補足で、面倒なら取ってしまっても構わない、とかいうこの説明が既に面倒で、……ああもう頭が混乱して何言ってんだか自分でも意味不明だ。
落ち着け、僕。何も混乱することはない。
とにかく。ともあれ。とりあえず。
今は、彼女の話だ。
朝霧。朝霧矢文。
僕と同じく一年二組。陸上部。黒の長髪はスポーツ少女らしからぬ無造作さだが、身長、体格ともに平均的なそれで、赤茶けた髪に橙の着物なんて見るからに一線を画した格好をしたヨミとはある意味で好対照だと言える。
いやヨミとの比較なんて口に出しては絶対に言えないけれど。
見た目で唯一印象的なのが、常に半開きの眠たげな瞳だ。別に本人が眠たがっているわけでもないのに、そのとろんととろけた双眸には謎の鎮静効果があり、見ているこっちが落ち着いてくる――ある意味で魔眼だと言えよう。
そんな魔眼保持者の性格はといえば、これがどうにも掴みづらい。
いや、性格はわかっているのだ。割と真面目で、他人に優しく、でも妙に頑固で、意志の根っこは決して他人に譲らない――。
誰かに説明するとなれば、そんな言葉はぽんぽんと出てくる。それくらいにはつき合いが長い。
けれど。
そんな言葉のどれも、彼女の本質を言い当てているとは言えない気がした。
「あー……っと。朝霧は、もう昼は済んだのかな?」
僕は訊ねた。
そんなことを訊いて何がしたいのかもわからないが、口が勝手に動いていた。
「まだ」
朝霧は端的に告げる。
そりゃそうだ。昼休みはまだ始まったばかりなのだから。早食いにでも挑戦しない限りはまだだろう。そして、彼女がそれをするとは思えない。
なぜ僕はそんなことを訊いたのか。阿呆か。
「朝霧ちゃんは弁当?」
横から一色が口を挟む。
「うん」
「じゃ、ちょうど席空いたし、たまには一緒に食べない?」
――な、
なんてことを言うんだ一色。そこは空気を読……いや、読んだからそんなことを言い出したのか?
凍りつく僕の背筋。それを見て朝霧は、
「そうだね、たまには――うん。一緒に食べよっか」
「…………」
「中学のときみたいに、ね?」
「……………………」
言葉がない。
彼女は間違いなく怒っていた。少なくとも上機嫌だとは絶対に言えない。その怒りを、憚ることなく僕へと向けて放出している。
――誰が悪いのかといえば。
それは、俺の責任でしかないのだが。
※
――それからは。
あえてたとえるならば、針の筵に座っているかのような気分の数十分だった。
「まったく、波崎も困ったもんだよなあ。あれはあれで得難い人種だとは思うけど、奴は敵も多く作りそうだ」
「でも波崎くんは、その辺りすごい上手く立ち回ってると思うよ。あんな情報屋紛いのコトやってたら、普通は周りから嫌われちゃうから。――若槻くんもそう思わない?」
「……うん、そうだね」
「確かに、あれで結構アタマもいいしな。知ってるか? 波崎、勉強だと古典が好きらしいぜ。変わってるだろ」
「そうかな。わたしも、古文は割と好きなほうだけど。――若槻くんは、やっぱり現代文が好きなのかな?」
「……うん、そうだね」
「新聞部といえば、
「女子だから、ってのは理由にならないとわたしは思うけど、まあでも、波崎くんとよりは話すかな。――うん、やっぱり男女で違いはあるよね。――ねえ、若槻くん?」
「……ウン、ソウダネ」
もう、
胃が、
痛い。
いちいち僕に話を振ってくる朝霧。親切心からなどではなく、僕の精神を甚振っているに過ぎない。
けれど僕は朝霧には逆らえず、結果としてただ甘受するほかに道はなかった。
……簡潔に説明しよう。なぜ朝霧が僕に対して怒りを向けているのかについて。
朝霧は、僕が頻繁に図書室へと行く理由を――どこぞの女子生徒と逢い引きするためだと思っているのだ。
まあ、ある意味では間違っていない。
ニュアンスに盛大なずれが生じているが、ヨミも一応とはいえ女性である以上、結果としてはそう外れた考えでもない。
ただ同時に正解でもない。
かといって、本当の理由は説明のしようがないのだ。
朝霧にはヨミが見えず、そして見えない人間ではヨミに干渉できない。
「あの図書室には精霊が住んでるんだよ」――なんて、そんなこと、どんな顔して伝えればいいというんだ。
とはいえ、朝霧とて、本当にそれだけならば僕に対して怒りを向けたりはしないだろう。別に僕がどこで誰と会おうが、朝霧には関係ないといえば関係ないのだから。
口を出される義理などないと、言って言えないこともないのだ。
言わないけど。
――つまり。
結局のところ、本当の理由はさらに別の部分にある、ということで。
まあ、僕にもいろいろあるということだ。十五年も生きてきて、いろいろないほうがたぶん珍しいだろうし。
その辺りの事情は簡単に話せる内容ではないし、安易に話していい内情でもない。
自分から過去の黒歴史を吹聴して回る露悪趣味もなし、とりあえず、僕と朝霧の関係性に複雑っぽい背景があるんだろうな――と。それだけを察しておいてもらえれば、この高校生活における不備はないだろう。
実際、朝霧を除けばこの学校で一番付き合いの長い一色でさえ、僕と彼女の間に本当は何があったのかを知らない……はずだ。ある程度まで感づいてはいるだろうが、僕が話しておらず、そして朝霧が口にしないのであれば正確なところを知る由がない。
一色が知っていることといえば恐らく、
僕と朝霧が中学時代付き合っていて、
そして高校入学の前に別れたという、
――それくらいのことだ。
まあ、それはそれで、事実から多少外れた認識じゃあるのだけれど――。
「――なあ、佐太郎」
と。一色が発した突然の声に、思考を中断させられる。
「あ――うん。何?」
慌てつつも、しかしそれを悟られないように返答。
が、たぶん失敗した。
「放課後ヒマ?」
「……、そうだね。別段、用事はないけれど」
本当は今日も図書室の二階に行くつもりだったのだが、さすがにそれを今ここで――朝霧と一色の前で――言ってしまうほど間抜けじゃない。
今日はもう絶対に行かないことにした。
やむにやまれぬ事情で別れた元カノと高校で新しく尻を追っている女との間で板挟みになっている、みたいな感じ。ぜんぜん違うし、それだと僕がクソ野郎すぎるが。
「ならよかった」
軽く肩を揺らす一色に、僕は首を傾げて。
「何。何か用事でも?」
「ほら、もうすぐ期末考査だろ? みんなで勉強会でも開かないかって話さ」
「……それは、構わないけど――」
みんなで。みんなで――ときたか。
いや、わかっている。
「朝霧も。どうせ用事ないだろ?」
一色が朝霧に水を向けた。朝霧は軽く唇を尖らせ、
「……む。その断定は失礼じゃないかな、中河原くん。わたしだって部活動とか人間関係とか、いろいろと忙しいんだから」
「おっと。こいつぁ失礼ござんした」
「まあ、確かに今日は暇なんだけどね」
そう言って笑い合う二人。
ちなみに我が校はそう部活動に力を入れている学校ではなく、陸上部の朝霧でさえ練習が毎日ではないという驚きの緩さだ。
僕と一色に至っては部活動に所属すらしていない。
「じゃ、決まりな」一色が弁当の包装を片付ながら言う。「
「場所は?」と、これは僕。
一色はしばし頭を悩ませてから、
「――ま、この教室でいいだろ」
※
そして、放課後。
僕と――そして一色と朝霧、加えてもうひとり、
その顛末はこんな感じ。
「――なあ、これどう解くんだ?」
「僕に数学を訊かれてもな。国語なら教えられるけど」
「国語で訊くようなことねーよ」
「……訊きたいなら芽室さんに訊けばいいだろ。僕は自分で手一杯だ」
「つってもなあ……」
肩を竦めて、一色はちらと正面に座る女子組のほうを見やった。
僕はそちらを見ない。絶対に見ない。
そして朝霧も、絶対にこちらを見ないのだろう。
……ああ、わかってるさ一色。
僕と朝霧が悪い。まったくその通りで、言い訳の余地もない。
だが――だからってこんなふうに、無理やりに仲を取り持ってくれなくとも構わなかっただろうに……。
教室の中には、僕ら四人以外に残っている人影はない。放課後になるとほとんどの生徒が間を置かずに帰宅するため、自教室というのは意外と穴場の自習スポットだったりするのだ。
まあ、それが高校生全般における平均なのか、それとも我が校独特の校風なのかはわからないが。
いずれにせよ、勉強するに悪い空間というわけではないはずだ。
はずだった。
が――現在、僕らの間に漂う空気は、嫌にぎくしゃくとしたものだった。
目に見える棘や杭があるわけではない。真綿で首を絞めるような、死に至る毒が少しずつ浸透していくような――そんな、滑らかでゆっくりとした違和が空気を塗り潰していた。
原因は、言うまでもなく朝霧……いや、翻して僕だと言うべきだろう。
僕が朝霧を怒らせたせいで、こんな空気になってしまっている。
――けれど、どうしようもないのだ。
改善する気がないわけじゃない。気を遣って場を作ってくれたのだろう一色に報いたい気持ちもあるし、それ以上に、僕だってこのまま朝霧と気まずいままでいたいわけがない。
だが、たとえ謝罪したところで、朝霧はそれを受け入れないだろう。
そもそも僕だって、別に悪いことをしているわけじゃない。それに僕は何を言われようとヨミに会うことをやめるつもりもない。
だから、彼女の望みがそれである以上、どこまで行っても平行線のままなのだ。
縺れることはあれど、
拗れることはあれど、
交わることは決してない。
ただまあ。それはそれ、これはこれ、と言いますか……。
朝霧と僕の都合に、一色と芽室さんを巻き込むのは違うという気がする。
知り合い同士が喧嘩している状況というのは、その間に挟まれた人間がいちばん迷惑を被るものだ。嫌だよね、一色も、芽室さんも。それについては本当に申し訳なく思っている。
僕と朝霧も、それがわかっているから断れないし――そもそも表立って争っているわけでもない。なんとなく気まずい、そんな空気が漫然と続いてしまっているだけ。
昼休みよりさらに機嫌が悪化したのか。何も言ってこない代わりに、ちらりともこちらを見ない朝霧。
そして、その分を賄ってますとでも言わんばかりに、いっそ可哀想なくらいおろおろと視線をさまよわせる芽室さん。
……いやもう、本当にごめんなさい。
芽室さんは、波崎と同じく高校からの付き合いなので、知己を得てまだ日が浅い。あまり迷惑は掛けたくなかった。
というか実際には、芽室さんは一色と付き合っているわけなのだが。
巻き込んでやるなよ、と思わなくもない僕だった。
と。
「――おっ? 何おまえら、居残り自習? 真面目だなぁオイ」
突然がらりと戸が開き、ひとりの男子生徒が教室に入ってきた。軽薄そうなチャラい纏め方の短髪、それでいて獲物を捜す梟のように隙のない眼の男――波崎だ。
その背後には女子生徒もひとり見える。確か名前は――
「あー、ここにもいないかー」
大仰に落胆を表現する波崎。
その様子を見て、首を傾げて一色が問うた。
「ん。いや、実は人捜しの最中でな。校内じゃ携帯切ってるからか、どこにいるかわかんねーんだよ。六組まで見て回ったんだが……」
「ここにゃ俺らしかいないぜ」
「みたいだな。……なあ、誰か放課後になってから信濃を見なかったか?」
「信濃、って……?」
「なずな、な。信濃なずな」
「……ああ。いや、俺は見てないが……」
一色がこちらに目を向ける。僕は首を横に振り、
「悪いけど。放課後はほとんどここから動いてないから」
「わたしたちも見てないよね」
「うん。ごめんね、波崎くん」
と、これは朝霧と芽室さん。
まあ、僕らは放課後はずっとここにいたから、見ていたとしたら六限を終えてから集まるまでの数分に限られてしまう。よしんば見かけていたとしても、とうに移動している頃合いだろう。
「……そっか」頭を掻く波崎。「ああ、これ以上はもう時間がないな。おれらももう部室に戻らんと……」
「もし見かけたら、おまえが捜してたって伝えとくよ」
一色が言う。
「おう、サンキューな」
「――波崎。時間」
「あ、やべ。おれ行くわ。じゃなっ!」
最後は後ろの女子に引っ張られるようにして、慌ただしく出て行く波崎だった。
「……忙しいヤツだな」
無意識のように零す一色。僕も同感だと頷いた。
「そのほうが健康的でいいと思うけどね、僕は。正直羨ましいよ。あのバイタリティは尊敬に値する」
「だったらおまえも新聞部に入ったらどうだ。本好きなら文章も書けんだろ?」
「まさか。一色の理屈は《漫画好きなら絵が上手い》と言ってるのと、言葉の上では何も変わらないよ」
無論そんなわけがない。
むしろ読んでいる分、触れている分、逆に書けなくなったようにさえ思う。
「知っているからこそわからなくなることが、この世にはたくさんあるんだよ」
「……それ、何のこと言ってんだ?」
「本のことだとも」
断言する僕。かえって嘘臭かっただろうか。
まあ、いまさら何を言うこともないだろうと自己解決した。
「……ったく」
毒づく一色。その顔にはしかし、微妙な色合いの苦笑が浮かんでいた。
「なんか集中力が切れちまったよ」
「おいおい……」
「しばらく読書でもするかねー」
一色のその発言に、僕は少なからず驚いていた。確かに一色も読書は嫌いじゃないのだろうと思うが――なにせヨミが見えるわけだし――それにしても学校でまで読み耽るのは珍しい。
鞄から、ブックカバーの掛かった文庫を取り出す一色。
「何を読んでるんだ?」
思わず訊ねる。一色は軽く答えた。
「江戸川乱歩」
「……驚いた。本気で珍しいな」
「や、そこまで言うことか?」
一色は口角を歪めて言うが、僕からすればかなり強い新鮮さを感じる。
一色が読む本は、恐らくその八割近くが僕の薦めた作品だ。
「おまえなら面白い本を知ってるだろ」――という、本好きにとっては光栄だが、同時にある意味恐怖でもある言により、一色の読む本を僕が推薦することが中学時代からの習慣になっていた。
だから僕は、一色が好む書物の傾向を知っている。その中に、乱歩なんて可能性はなかったと思うのだが……。
「ま、たまにはな」
と一色は笑う。まあ僕としても、周囲にミステリ好きが増えるならば喜ばしいことだ。
そんなジャンルを語れる友人なんて、僕の周りにはそれこそ朝霧くらいしか――。
「…………」
「あれ、どうした佐太郎。なんか急に顔が暗くなってんぞ」
「いや別に」
ただ少し悲しい事実を思い出しただけさ。
「……はあ」
と、なぜか一色は溜息をついて、出したばかりの本を仕舞ってしまう。そして、
「休憩! 俺と佐太郎で飲み物買ってくるわ。ふたりは何がいい?」
そんなことを宣った。
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