1-09『密売インフォメーション5』

 結局、僕は一色を止められなかった。


「ただいまー」

「んー、遅かったねえ。どこまで行ってたのー?」


 一色の声に、芽室さんが笑顔で応える。

 一色もまた微笑み、


「何、ちょっとそこまでだよ」

「何それー」

 けらけらと朗笑し合う二人。

 いやはや、まったく見せつけてくれるものだ。

「はい、これ飲み物ね」

「ありがと。でも、どうしてこんなにかかったの?」

 きょとん、と小首を傾げる芽室さん。

 くりくりとした丸い瞳が、かわいらしく見開かれる。常に眠たげな瞼をしている朝霧とは、いろんな意味で好対照だった。

「ああ、実はな――」

 事情を語り始める一色。その言葉を聞き流しながら、僕は視線を朝霧へと向けた。


「……!」

「……っ」


 瞬間、まるで図ったかのように目と目が合ってしまう。

 半開きで、気怠げで、――けれど、どこかに責めるような攻めるような色合いを孕んでいる朝霧の双眸。

 僕は自然、全身を射抜かれるような恐懼と肌の粟立ちを感じる。

「…………」

 朝霧は何も語らない。ただ僕の眼だけを見つめていた。

 僕の心を見透かすように、強く、鋭く。


「――と、いうわけさ」

 やがて一色が言葉を終えた。

「ふぅーん。ねっ、その暗号ってやつ、見せて?」

「いいぜ」

 と一色が芽室さんに紙片を手渡す。

 芽室さんは、しばしそのメモ用紙を矯めつ眇めつ眺め続け、やがて、

「――わかんないよ、こんなの」

 諦めるようにそう零した。メモを一色に返し、

「こんなの、考えてわかるものなの?」

「どうなんだろうな。――佐太郎」

「なぜ僕に振る」

「得意分野なんだろ? どうだ、わかりそうか?」


 一色が言った瞬間、ひときわ殺意の籠もった視線を感じた……ような気がした。

 が、気のせいだということにする。


「……まあ。少し考えれば、解けないこともないとは思う」

 諦めて僕は答えた。芽室さんが首を傾げて問う。

「そうなの?」

「うん。――だって波崎は、これを取引に使っていたからね」

「らしいけど……それが?」

「つまり、そう難しい暗号じゃないはずだってこと。解くのにいちいち時間がかかるんじゃ《取引》という目的にそぐわないし、作る相手にも面倒だろう? 実際、波崎はこの紙を手渡されたとき、ひと目で内容を把握していた。見てわかる程度のものってことだよ」

 そもそも、この暗号自体、絶対に必要なものというわけでもない――つまり遊びの範疇のものだ。

 解くのに特別な知識などは必要ない、と思いたい。

「なるほどー」

 感心したように呟く芽室さん。

 実際のところ、もし特殊な知識が必要だったら解けない、というだけなのだが。


「な? そういうわけさ」

 腕を組み、うんうんと頷きながら一色が言う。

「わけさ、じゃないよ。なんで一色くんが偉そうにするのさ、考えたの若槻くんなのに」

「佐太郎の手柄は俺の手柄にも等しいんだよ。親友だからな」

「安いよ、親友って言葉がすごく安いよ……」

「いやいや。当然、俺が手柄を立てたときは、今度は佐太郎に恩恵が向くわけだ」

「なら、今ここで手柄を立ててみてよ」

「……ぐ」

 呻く一色。

 もうごちそうさま、って感じである。


 一色と芽室さんの夫婦漫才はさておくとして、僕は僕で、とりあえずの思考を組み立てるとする。

 さっさと解いて、期末の勉強に戻らせてもらうとしよう。

 もしくは解けないことを立証する、という手段もアリなのだが。そっちのほうが難しそうだ。


「……さて。そんじゃ考えてみましょうか」


 波、弥、cd――か。

 これだけでは落書き程度にしか見えないが、残念ながらというか幸運にというか、僕らは波崎がこの紙を手渡されているところを目撃してしまっている。

 何か意味がある文字列には違いないのだろう。


「波は、波崎の波じゃないか、コレ?」

 一色が言う。

 確かに、真っ先に思いつくのはそれだが……。

「波崎くんの波?」

「ああ。その考えでいくと、これは何かの頭文字なんじゃないか?」

「弥は……、じゃあ、弥生かな?」


 と芽室さん。

 弥生。つまり、陰暦三月の異称だ。

 確かに《弥》の字を見て真っ先に思い浮かぶのはそれだろう。一月は睦月、二月は如月ときて、十二月の師走まで。中学の古典で習う分野だ。


 そういえば、あのとき波崎が口にしていた誰かの誕生日も、確か三月だったはずだ。

 ……っていや、それは関係ないか。

 この紙は、その情報を訊いた男のほうから波崎へと渡したものなのだから。訊く前から知っていることを、わざわざ尋ねる意味がない。


「他に何かあるっけ……矢文ちゃんは、何か思い浮かぶ?」

「えっ……」

 話を振られ、瞬間、少しうろたえる朝霧。

 とはいえすぐに持ち直し、

「……弥の明後日、とか」

「え?」

「明日、明後日、明々後日。その次は確か、弥の明後日と言うはず。その字も同じ……だったと思う」

「へえー、そうなんだあ。知らなかった」

 感心したように、芽室さん。

 僕も漢字までは知らなかったので、少し驚く。

「ちなみに、地方によっては明々後日と弥の明後日は、同じ日を指していることもある……」

 何を思ったか、さらにトリビアを追加してくる朝霧。

 どこで知ったんだろう、そんなこと。

「しかしまあ、その辺りから考えていくのが早いかもな」と、一色。「《波》はともかく、《弥》なんて漢字が使われる言葉、そうそうないだろう」

「じゃあ、その次の《cd》は?」

「そりゃあ……やっぱCDじゃないか。コンパクトディスク」

「えー……」

「もしくはアレだな、元素記号とか。あるんじゃないの、知らんけど」


 ちなみにある。元素記号Cdは、原子番号48番のカドミウムだ。

 とまあ、これは今、手元の電子辞書を引いての情報だが。

 化学は正直、苦手分野だった。暗記などしていない。


「それとこれ、何の関係があるの?」


 芽室さんは胡乱げな表情だ。

 気持ちはわかる。暗号と関係ある気がしない。

 だって波崎だしね。

 元素記号とか、そんなスマートな感じの暗号は作れないだろう。知らないが。

 一色は笑って言った。

「わからん!」

「断言しちゃうんだ……」

 呆れ顔の芽室さんだった。

 ……いや、夫婦漫才はもういいってば。言わないけど。


「――ていうか、佐太郎も黙ってないで意見言えよ」

 と、見ていたら一色に絡まれた。

 なんなんだろう。もしかして彼女とイチャつくための玩具として使われているんじゃないかという危惧が俺の中に湧き始めている。

「や、一色が解くんじゃないの? がんばれよ。彼女にいいとこ見せてやったら?」

「いや、正直おまえ頼りだ。俺にこういうのは向かない」

「一色こそもうちょい考えろよ……初めっから諦めてるのかよ」


 苦笑交じりの溜息が零れてしまった。

 ……しかし、なるほど。一色が何を考えているのか、少しわかった気がする。


「でも暗号はわからない」

「なんだよ、意外と大したことねえな、佐太郎」


 ――それはお前が言うな。

 と突っ込む代わりに、


「半分くらいは解けたと思うんだけどな。どうもパーツが足りない感じだ」


 言った。

 途端、


「何っ!?」「そうなの!?」

 一色と芽室さんが思いっきり喰いついてきた。

「うおっ……」

「いやー、さすがは佐太郎さんだ」

「すごいねえー」

「いや、まだ何も言ってないんだけど……」


 それに、当たっているとも限らないし。

 過剰に期待されるのも困る。喰いつきよすぎじゃないだろうか。


「本当に、全部わかったってわけじゃないんだけどね」


 前置き、そしてから語り始める。

 口を動かしている間のほうが、案外考えがまとまったりもするものだ。


「――まず考えるべきは、この暗号が何を指しているのか、っていうことだと思う」

「いや、……それは解いてみなきゃわからないだろ?」

 その言葉に、一色は不可解そうに首を傾げた。

 僕は首を振って注釈する。

「今回の場合は、僕たちは初めから、この暗号が指している内容を知ってるじゃないか」

「あ――?」

「これを渡された波崎が、何を答えていたか思い出してみろよ」

 一色はしばし考え込み、やがて思い出すように言った。

「誕生日と、血液型か」

「そういうこと」

 あの二人は、誰かの個人情報をやり取りしていたのから。

 ……ちょっと危ない気もするが、それは僕が言及するようなことでもないだろう。

 誕生日や血液型程度なら、大した情報というわけでもない。だろう。たぶん。


「それは逆算すれば、暗号が示す情報は《特定の個人》ということになる。一見意味のない文字の羅列だけど、実は人間を意味しているっていうわけだね」

「……なるほどな」

 納得したように首肯する一色。自分で考える気がないのだろうか。

 代わりというように、芽室さんが口を開く。

「でも、それだけじゃわからないんじゃ……」

「ん? どういう意味だ、彩愛」

「人間っていったって、誰を指してるかわからないんじゃ逆算のしようがないと思うけど」

「む、それは確かに。どうなんだ、佐太郎」

「……確かに、この紙だけじゃ誰を指しているのかまではわからない」


 誕生日や血液型という情報を加味したところで、知らなければ個人を特定するまでには至らない。

 けれど――この推理には何も、会話や暗号そのものからしか手がかりを得てはいけない、なんて決まりはないわけで。


「誰だかわからない、とは言ってもさ」僕は言う。「まあ普通に考えて、少なくとも《この学校の誰か》だっていうのは間違いないでしょ」

「そりゃそうだろうわな」と一色。「いくら波崎とはいえ、この世界全ての人間の情報を持ってるわけがねえしな。学校で取引するんなら、そりゃ学校の奴の情報ってワケだ」

「そうだね。そして、もう少し狭く言えば《この学校の生徒の誰か》ということになると思う」

「生徒? つまり、教師は除外ってことか? どうして」

「実を言うと根拠はない」

「おい」

「ただ、着眼すべき点がひとつある」


 ――それは。


「それは、そもそもこの暗号が、三つの要素だけで構成されている、という点だ」

「三つの要素……。つまり、《波》と《弥》と《cd》ってことか」

「そう。ただ要素が何か、ということよりは、数が三つである、ということのほうが重要だ」

「はあ……?」

「考えてもみなよ、一色。そもそもさ、たった三つの要素だけで特定の誰かを限定して示すのって、かなり難しいとは思わないか?」


 というか無理じゃなかろうか。

 何の前提条件もなしに、たった三つの、しかもほぼ一文字二文字の要素だけで特定の個人を表すことが本当に可能だろうか。普通に考えて無理だろう。少なくとも僕には方法が思いつかない。

 ならばそこには、なんらかの前提条件があってしかるべきなのだ。


「今回の場合、前提条件となるのは《今現在、この学校に在籍している生徒である》ということ。その前提さえあれば、三要素で特定の個人を言い当てることは可能だ」

「――あ、わかったっ!」

 と、芽室さんが手を打った。

 僕は黙り、見せ場を芽室さんに譲るようにする。

 彼女は叫んだ。


「つまりこの暗号は、それぞれ《学年》《クラス》《出席番号》を表してるんだね!」


「正解」

 言って僕は笑う。芽室さんのほうが、少なくとも一色よりは戦力になりそうな気配だ。

 ひたすら黙り込んでいる朝霧に関しては……うん、考えないことにしよう。

「とすれば残りの問題は」

「それぞれが、それぞれをどういうふうに表しているか、だね。若槻くんは、実はもうわかってるんじゃないの」

「学年とクラスに関してはね。蓋然性は、そう低くないと思う」


 もっとも、これだけ早く思い至るのは、通常なら不可能だっただろう。暗号を編み出したのが波崎だと、その前提に立ってみて、初めて解きやすい暗号に変わる。

 半ばまで解けてみれば、なるほど波崎らしい暗号だとも思わされる。

 あとは出席番号だけなのだが――これだけが、どうしても判断がつかない。喉元まで出かかっているとは思うのだが、最後の最後で何かが引っかかっている感覚がする。どうにももどかしかった。


「ね、どういうふうに読むの、若槻くん」

 訊ねてくる芽室さんに僕は答えた。

「……あー、そうだね。ちょっと考えてみるといいんじゃないかな。ここまでわかってれば、あとはそう難しい作業じゃないと思うから」

「そ、そうかな? う~ん……」

「学年にしろ出席番号にしろ、要するに数字だよ」

「数字?」

「ヒントを言えば――そうだね。《波崎は古文が好き》、っていうところかな」

「え、古典? 数字なのに?」

「数字って言うかさ、要は置き換えだよ。曜日でたとえるなら、月を1、火を2に置き換える、みたいなね。そういう置換を探せばいい。単純なことだよ」


 そう、単純。

 解は単純でなければならないはずだ。そうでなければ遊びにならない。

 けれど――


「……駄目だ、わからん」

 こじつけることは出来なくもない。

 だが、どうもすっきりとした解答にならないというか、こびりつくような違和感が拭えない。


「――結局、そうやって考えちゃうんだね」

 突然、鼓膜がす――、と震えるのを感じた。

「……朝霧、」

「口では嫌がってみせても、結局はそう、考えることが嫌いじゃないんだ」

「――っ」

 答える言葉がなかった。


 朝霧は別段、責めるようなニュアンスを言葉に含めていたわけじゃない。至極淡々と、用意された原稿を読み上げるのと同じ調子で舌を動かしていた。

 それがどんな糾弾よりも、僕の身体を、心を震わせると知っているから。

 眠たげな、半開きの朝霧の瞳。それが低い位置から、奥底を見通すように僕の瞳を射抜いている。


 ――まるで成長していない。中学生のときと何ひとつ変わっていない。おまえは後悔したのではなかったのか。なぜ同じことを繰り返す。なぜ同じことを繰り返す。なぜ――


「――わからねえよ」

 気づけば、吐き棄てるように呟いていた。

「ふぅん、佐太郎でも解けないことってあるんだな」

 ふと、一色が言っているのが聞こえた。漏れた言葉が聞こえたらしい。どうやら上手こと意味合いを勘違いしてくれたようだった。

 僕は一色へ向けて、

「だから、僕のことを過大評価しす、」


 いきなり教室の扉が開いた。


「――あっれ、皆さんお揃いでー?」

 闖入者の正体は、同じクラスの女子生徒だった。

 珍しいものを見たというふうに首を傾げる少女を見て、僕は、


「あ」


 ――不意に全ての謎が解けた。

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