1-24『そして終焉のプロローグ0』

「嘘を暴く……の」


 静かに微笑するヨミの表情は、普段にも増して透き通って見える。

 図書室を包む静寂。

 少し埃っぽくて、どこか夕焼けのような香りがして。そんな、普段なら心地いいはずの空気が、今の僕にはどうしてか響かない。

 時間の止まった図書室の中で、けれども僕らの時は動いているから。

 朝霧だって、会長だって、一色やほかの誰であっても。

 生きている以上は時間の流れから逃れられない。


 その中で、けれど唯一取り残されている少女がいる。

 ヨミ。

 彼女のことを、思えば、僕はいったいどれほど知っているというのだろう。

 どこまで行けば知ったと言えるのだろう。


「ずいぶんと急じゃな。なんじゃ、いったいどんな心境の変化があったのじゃ」

「……別に」問いに、僕は小さく息をつく。「僕は何も変わってないよ」

「そうかの? ……まあ、サタローならそう言うのじゃろうな」


 その通りだ。僕はまるで変わっていない。ちょっと行動が変わったところで、本質に進歩が見られないようじゃ意味がない。

 僕にはそれができなかった。同じ失敗を繰り返し、ずっとひとところに留まっている。

 それでも時間は動くのに。

 なら動けない僕は、取り残されてしまったようなものなのだろう。


 いったい、ヨミとどんな違いがあろうか。


「しかし――嘘というなら、サタロー」


 ヨミが言う。

 最後通牒にも似たその宣告を、僕は甘んじて受けねばならない。


「私にも、暴くべき嘘がある気がするの」

「……嘘だって?」僕は、笑った。「僕がいつ、ヨミに嘘をついたって言うんだ」

「嘘をつかなければ、いいという話ではなかろう」

「…………」

「そんなこと、私が言うまでもなく、サタローならばわかりきっておるじゃろうに」

 あるいは。僕でなくとも、誰にだって。

「言いたいことがあるんなら、先にどうぞ。聞くからさ」

 と僕は言う。何を言われるかなんてわかりきっているのに。

 その茶番じみたやり取りに、意味なんてきっとあり得なかった。

「――そうか」ヨミはわずかに目を瞑る。「ならば、まずは私から暴かせてもらおうかの」


 若槻佐太郎の騙った嘘を。



     ※



「――初めて会ったときのこと、覚えておるか? サタロー」

「そうだね。もちろん」

 ついさっき、思い出してきたばかりのことだ。

 そうでなくても――忘れるはずがない。

「サタロー。お主はあのとき、私に嘘を言った――いや」ヨミは小さく首を振る。「嘘ではない、のじゃろうな。ただ本当のことを言わなかっただけで」


 そう。僕は何も、嘘をついたつもりはない。

 ――ただ彼女を騙しただけで。


「本当のことなんて、僕が知るわけないじゃないか」

 弁論台に立たされた、有罪確定の悪人のような気分になる。

 ヨミは苦笑し、まるで包み込むような視線を僕に落とす。

「そう言うのじゃろうな、お主は。サタローは。あれは推測で、初めから当たっているなんて限らない、と。状況から考えられることを述べただけで、正否に絶対の自信を持っていたわけじゃない」

「……そうだよ。僕はなにせ、探偵じゃないからね」

「ま、それはそれでいいじゃろう。お主は何も間違っていない。――なら私も、私の推測を言葉にするだけのコトじゃからな」

 それを止める権利は僕にない。

 誰にだって、自らの考えを形にする理由があるのなら。

「サタロー。お主はあのとき、破られた手紙は、森川が告白のために綴ったラブレターじゃと言っておったな」

「……言ったね」


 僕は答え、ヨミは笑った。



「――――嘘じゃろ、それ」



 僕は答えない。

 ヨミもまた笑みを消している。


「いや、やはり嘘とは言えんわけか。サタローは《事実》を確認したわけではなく、ただ推測した《真実》を口にしただけなのじゃからな。お主に言わせれば、じゃが」

「そうだよ。僕は推測しただけだ。別に証拠があるわけじゃない。可能性が高いだろうと思って言っただけで、間違ってる可能性だって当然あった」

 それを、嘘だと責められては堪らない。

 探偵小説ではないのだから。ヒトは、初めから間違うようにできている。

 ただ、そんな言い訳など、この期に及んでヨミに通用するはずもない。それを自覚した上でなお、僕はそんな風に嘯いてみせるのだった。


 せめて、少しでもらしく。


「無論、ただの間違いなら責めはせんさ。――間違いなら、の」

「…………」

「じゃがサタロー、お主は間違ったのではない。のじゃろう。知っていて――その可能性を思い浮かべていてなお、あえて別の可能性だけを口にした。考えてもみれば、サタローはたとえ推測でも。責任が取れないから、じゃったか。そのことに気づくべきじゃったな。あのときサタローは、確認を取らなかった」

「まあ、ただのゲームだったしね。別に間違っていてもそうか、と思うだけだ。ただ盗み見ただけの状況に、推論を構築するに足る全ての情報が出揃っているほうが珍しいと僕は思うよ。――小説じゃあるまいし」

「しかし、だとしても――じゃ。サタローが推測のひとつを語っただけだとしても、その語った推測それ自体をサタローが信じておらんのなら」

 自分を騙し。ヨミを騙し。

 全てを騙ったのなら。

「――それは、嘘と同じことじゃと思わんか」


 僕は――答えない。


「あのとき破られたのは、森川ではなく、やはり今村が書いたラブレターだった。私はそう思う」

「……どうして?」

「別段、証拠があるわけではないのじゃがな。私はサタローとは違う。あんなことから答えは出せん」

「そうは思わないけどね。僕はもう少し、ヨミを高く買うよ」

「光栄じゃが、それこそ買い被りというものじゃな」

 ヨミは力なく首を振る。そんなことは、言われたくもないという風に。

「嘘はつかん、のじゃったな。なら訊こう。――お主は、どう思うのじゃ?」

「……どう、とは?」

「あのとき今村が手紙を破いた理由は、本当にサタローが語った通りの理由だと思っておるのか?」


 可能性の考察ではなく、あくまで僕がどう思うのかという問い。

 それに、正直に答えるのならば。


「――


 それが答えだ。僕は、今村が勘違いをしただなんて風には、露ほども思っていなかった。

 僕がもっともらしくヨミに言って聞かせた言葉を、誰より僕自身が信じていない。

 あのとき。僕は、明確にヨミを騙そうと思ったのだから。

 訊かれてもいないのに。僕は言葉を続けていく。


「封筒が同じだったから勘違いした、なんて、僕には到底思えない。そういう考え方もできると思っただけで、現実そうだったとは僕は思っていない」

「……ならあれは、んじゃな」

「僕は知らない。あくまでも」それでも。「ただ僕にはそう思えないってだけで」

「根拠は?」

「根拠なんてないよ。全部想像だ。あのとき――あのあとヨミが言ってた言葉と同じ」


 僕にできるのは推理ではなく、全てが想像、創作でしかないのだと。

 なんて皮肉だろう。けれどほかでもない、僕自身でさえそう思ってしまうのだから始末に負えない。

 まったく、とんでもない大嘘つきだ。


「たださ、仮にも《告白》なんだよ? 高校生にもなってさ、普通――学校で売ってる便箋なんて使わないと思うんだよ」

 まあ今村は使ったのかもしれない。これも勝手な想像だけれど、見たところ不器用そうな男だった。

 だが森川はどうだろうか。彼女が本当に告白するつもりなら、果たして飾りも何もない、学校で売っている程度のレターセットなど選ぶだろうか。

 ちょっと街に出れば、もっと意匠が凝らされた便箋がいくらでも売っているだろう。今どきコンビニでだって封筒くらい手に入る。そのくらいの気を利かせたっていいはずだし、そうでないほうが不自然だと僕は思う。

「いや……でも結局、可能性でしかないんだよ、どれも。あれだけのことで答えを導き出すなんて、少なくとも僕にはできなかった。という意味合いで言うんなら、やっぱり僕に嘘をついたつもりはない」


 ただ僕が自分で語った推測を信じていなかっただけで。

 けれど、と僕は言葉を続ける。

 まるで贖罪を求めるように。それが課された義務かのように。


「森川は、今村が告白したことを知っていた。最低でも便箋自体を一度見ていた。そう考えれば、それに影響されて、なんとなく同じ便箋を使ってしまった可能性だってあるさ。それが零だとは僕には言えない」

「けれど、サタローはそうは思わないと」

「ああ。僕にはそうは思えない。僕が信じるのは、もっと最悪の可能性だ」


 今村が誰かに――ラブレターで――告白したのは、おそらく間違いないだろう。ヨミがそれを目撃しているし、その点でヨミが嘘をつく理由はない。

 問題はそのあとだ。果たして、渡された誰か――女子生徒Cは、そのラブレターを受け取ってどう思ったのか。何をしたのか。

 僕は思う。


 ――Cは、きっと今村を嗤ったのだ。


 愚弄し、嘲笑し、おそらく友人同士で笑いものにしたのだと思う。

 今村がどれほど悩み抜いて考え出した文面なのか、ヨミはともかく僕は知らない。けれど、きっと苦労したのではないだろうか。

 そして、Cはその文面を全て――のだろう。

 罵倒と嗤笑を添え、嫌悪と拒否を露わにして、友人たちと笑いものにした。

 なにせ今どきラブレターだ。送り手がどれほど心を込めたかなんて受け取り手には関係がない。貰った側が仮に《気持ち悪い》と嫌悪を示しても、それ自体を責めることはできないと僕は考える。そこまでなら。

 そして、その場には森川もいたのだろう。あるいはCが森川当人だった可能性も、こうなれば否定できないが。ともあれそれを見て彼女たちはいったいどう考えたのか。僕にはやはり想像しかできない。


 ――甘い想像をするのなら。

 いつか僕が語ったように、森川は自分の本心を打ち明ける気になった。同じ便箋を使って告白してしまったという想像も、筋が通らないとは言わない。


 ただ僕の考えは違う。

 森川たちは、今村にのだ。

 なぜかと言えば、それは彼女たちにとって、好いてもいない相手から貰うラブレターなど攻撃と大差がないからだ。そんなと。


 だから、森川は。

 今村と同じ便箋で――きっと文面までコピーした手紙を、意趣返しのように送り返した。

 それくらい残酷な仕打ちを、平気な面してできる奴を人間というのだ。


 それでも、

 解釈するなら、という意味にも取れるだろう。

 そしてきっと、今村は。


 全て、悟っていたのではないだろうか。


「――その考えを私に言わなかったのは、優しさのつもりだったのかの?」

 ヨミに問われる。

「優しさ……? 優しさだって?」

「私が今村に肩入れしていると気づいていたから、甘い可能性だけを口にした――違うか?」

 怒るでもない淡々とした口調。僕はけれど、首を横に振ることでそれに答えた。

「まさか。結局は単なる可能性だ。僕が捻くれてるだけで、現実が甘いものである可能性も零じゃない。なら暗い可能性を口に出すより、まだしも救いのある可能性のほうを伝えるさ」

「そんなこと、まったく信じておらんかったのに?」

「なら訊き返すけど、僕が本心を隠すのは悪いことなのか?」

「……いいや、まったく。サタローは何も悪くない。悪いのは――むしろ私じゃろうな」


 そんな自罰的な言葉にも、僕は応える語彙を持たない。

 だから代わりにこう言った。


「確かに僕はヨミを騙した。ヨミに嘘を騙ったよ。でもさ、――それはヨミも同じだろ?」

「……なんのことかの?」

 ヨミは言う。だから僕も笑って告げる。

「少し前、ヨミに言われて、放置してあった本を誰が出したのか――なんて考えたことがあったよね」

「覚えておるぞ。くぬぎと会ったときのコトじゃな」

「そう」

「なんじゃ、あのときの約束を、まだ履行していないコトに文句があるのか?」思ってもないことをヨミは言う。「何なら今からでも構わんぞ。何か私にしてほしいことがあるのかの?」

「いや」僕は首を振った。「何もしてもらうことはないよ。いや――その権利が僕にはない」

「勝者の権利じゃ。ないわけなかろう」

「いいや、ない。だって――」

 なぜなら。あのとき。


「――


「……これは、参考までに聞かせてほしいのじゃが」

 僕が告げたその言葉に、ヨミはけれど、表情をまったく変えなかった。

 ただ淡々と、僕に疑問を投げ返してくるだけ。

「どうして気づいたのじゃ?」

「気づいたからだよ」

「何に」

「ヨミの演技に」


 僕は言う。

 そう、あのときの謎かけは、考えてみればおかしかった。


「ヨミは演技が下手だよね。初めて会ったとき、紙の切れ端を拾ったときも思ったけど」

「そうかの。まあ、そうかもしれんな」

「あの謎かけを僕に出題するときさ、ヨミはまず僕に挑戦を吹っかけてから、何を問題にするか考えてたよね」


 推理をしてみんか、と僕に声をかけてから。

 ヨミは、さて何か謎がないか、と周囲を窺っていた。

 僕は失笑する。


「――馬鹿言うなよ。ヨミが、そんな行き当たりばったりな問いを出すもんか」

「ずいぶん、私も買い被られたものじゃな。こう言ってはなんじゃが、意外じゃよ」

「どうだろね。さっきは高く買うって言ったけど、少なくとも演技力は買ってないから」

「そりゃまた失礼じゃのう」

 そう言って、ヨミもまた笑みに肩を揺らす。

 乾ききった笑みを交わす僕らは、端から見れば、きっと驚くほど滑稽なことだろう。

「ヨミは初めから、僕に何かを出題する気でいたんだ。普段は読みもしないミステリなんか、これ見よがしに読んだりしてさ」

「私じゃって、たまにはミステリくらい読むかもしれんぞ」

「読んだっていいさ。それを読んで、僕に何か出題したいと思ってもいい。ただそれなら、思いついたの僕が行くよりずっと前のはずだ。あの場で突然、問題を見つけたなんて僕には思えない。僕が来る前から用意していたと考えるほうが自然だ」

「まったく。根拠もなく言ってくれるわ」

「確かに根拠はない。でも違和感ならあった。だいたいおかしいじゃないか。なんであの場で思いついた問題だったのに、その犯人がまだ図書室に残ってることは知ってたんだ?」

「……それを知っていたから問題にできた、というのはどうじゃ」

「だったら初めからそう出題するほうが自然だ。わざわざ《今思いついた》みたいな小芝居を挟んだのが、あらかじめ出題を決めていた何よりの証拠だと僕は思う」

「なら改めて問おうかの。――あの本は、いったい誰が出してきたものじゃ?」

「決まってるだろ。ひとりしかいない」

 僕は言う。


「――あれは、あらかじめヨミが出した本だ。僕は、君の自作自演に騙されたんだよ」


 違うか、と僕は問う。

 答えがいるのか、とヨミは問い返した。


「……そうだね、いらないよ。事実なんて関係ない」

「ただ、サタローにとっての真実さえ決まっていれば」

「それでいいさ」


 結局、あれはヨミが僕を試すための方便だったのだ。

 ヨミは僕に、正解を当ててもらおうとなんてしていなかった。ヨミが求めたのは推理ではなく、あくまで創作だったのだ。

 それに見事に騙されて、僕は道化を演じきった。

 こんなに笑えることもない。


「――問題は」ヨミが言う。「ならなぜ、私がそんなことをしたのか、ということじゃな」

「そうだね。結局は、そこがいちばんの論点だ」

 どうしてヨミは、事あるごとに僕の推理力ならぬ想像力を試すような真似をしたのか。そのヒントがどこにあるのか。

 僕はもう、知っているはずだった。

「――君の言う《お願い》に関係あるんだろう」

「そうかもしれんの」

「結局、ヨミは僕に、今日まであの《お願い》の内容を教えてくれてなかったね」

「そうじゃったかも――しれんの」

「なんなら、今日教えてくれないかな、その《お願い》ってヤツをさ。僕で力になれるなら、協力するのも吝かじゃないんだ」

「……まったく、意地悪なことばかり言うの、サタローは」

 ヨミは儚げに微笑んだ。どうやら気づいているのだろう。

 僕が気がついているのと同じで。

 僕が気づいていることに、彼女もまた気づいている。

 それでも。

「頼まれてないことは、できないからね」

「本当に意地悪じゃな……言えばいいんじゃろ、言えば」

 ヨミはふ、と視線を逸らした。

 自分の城を――もうずっといるはずの、この図書室の中を眺めるように。

 儚げで、淋しげで、とても愛おしそうな視線で。


「――私は、いったい誰なんだろう。それが、私は知りたいんだ」


 ヨミは言うのだ。

 お願いを。


「本当に、気づいた頃には私はこの図書館にいた。それ以前のことを、私はなんにも覚えてない。わかるのは自分の名前だけで、ほかの記憶なんて一切なかった。ただずっと、この図書室で止まってた」

「…………」僕は答えない。

 ヨミは言う。

「寂しかった。つらかった。いつだって私は消えてしまいたいと思っていた。でもそれさえできない。もし私が人間なら、死ぬことだってできたのに。体のない私には、もう死ぬことさえできなかった」

「…………」僕は答えない。

 ヨミは言う。

「私はずっと考えてた。いったい私はどこの誰なんだろうって。それさえわかれば――それさえ思い出すことができれば、私はきっと消えられる。この世から亡くなることができる。そう思ってた。でも」

「…………」僕は答えない。

 ヨミは言う。

「それが私にはわからない。調べることさえできなかった。私には何もわからない。なら、ほかの誰かに、教えてもらうしかないと思った」

「…………」僕は答えない。

 ヨミは言う。

「でも、私にわからないのに、ほかの人にわかるわけなかった。今まで誰に訊いても、まともな答えなんて返してくれたことがない。《精霊》なんだからそうなんじゃないかって、そんなことを言われるだけだったから」

「…………」僕は答えない

 ヨミは言う。

「ならもう、嘘でもいいと思った。私を騙してくれる嘘なら、事実じゃなくてもそれでよかった。だから私は捜したんだ。私を騙せる人を――私を殺してくれる人を、私はずっと捜していた」


 それがおまえだと。

 ヨミは言う。


「――佐太郎を見つけたとき、私は運命だとさえ思った。ついに私を殺せる人が現れたんだって、こんなに嬉しいことはなかった。だから私は、佐太郎を試し続けたんだよ。私を騙せる嘘の答えを、私にくれる人だと思って」


 謎は謎でいい。嘘のまんまで構わない。

 それで納得して消えられるなら、事実なんて欲しくはない。

 ヨミは、そう語っている。

 自分自身に――騙っている。


「……一色だろう?」


 と、僕は言った。ヨミは苦笑し、


「佐太郎は本当に怖いね。どうして気づいたの?」

「初めて会ったとき。直木先生と僕の会話、聞いてたんだろ?」

「うん」

「あのとき先生は、と言っていた。この図書室を見に来る、新入生が、だ」

「言ってたね」

「そしてこうも言っていた。と」

「……それが?」

「おかしいじゃないか。毎年ひとりはいるんなら、僕ひとりが来ただけで《期待の年》とは言えないだろう。それじゃ例年と変わってない。なら――少なくとも最低でひとり、僕より先にこの図書室に来た一年がいるはずなんだ」

「…………」

「そして、そいつはおそらくヨミと会っていて、なおかつ僕の知り合いだ。なぜならヨミは、初めて会ったときから僕に何かを期待していた。試す前からだ。――僕のことを、誰かから聞いていたんだろう。ヨミが見えて、かつ僕の知り合いである人間。それは――」

「……一色しかいない、と」

「思えば、そもそも僕に図書室の噂を教えたのが一色だからね。あいつなら、この場所に僕より先に来ていておかしくない」

「……そんなことまでわかるんだ」

「いや……」

 僕は否定しかけたが、結局何も言わずにおいた。


 実はもうひとつ、わかっていることがあったのだが。

 それを言うと、前提が崩れてしまう。


 ――ヨミと僕の両方を知っていた人間が、あの時点で、ほかにももうひとりいるはずだ。


 ヨミと僕を動かしたのは一色だ。

 ならば――一色を動かした人間は誰なのか。


 決まっている。

 それは、朝霧矢文以外に考えられない。


 なぜなら彼女は初めから、。そして、知っていることを僕に隠していた。

 そのことに今日まで僕は気づいていなかったのだ。

 だから鎌をかけた。さきほどくぬぎ先輩の質問にどうして答えなかったのか。その理由が、あの話を僕はそもそも先輩ではなく朝霧に聞かせていたからだ。

 その上で僕は訊ねた。今の話に違和感はなかったか、と。

 彼女はその問いにないと答えた。だが、これはどう考えてもおかしい。


 当たり前のように本の精霊の実在を前提とした話に、違和感を覚えないなんてあり得ない。


 朝霧は、僕の問いをラブレターの一件についてだと解釈した。だが違う。もしもヨミを知らないのなら、その存在そのものに違和感を覚えなければおかしい。

 だが朝霧は違った。だとすれば理由はひとつだけ。

 朝霧は、初めからヨミの存在を知っていた。

 知った上で、ヨミも、一色も、朝霧も――僕にそれを隠していた。


「まあ、それはいいや」

 だがそんな話はことさらするまでもない。

 朝霧が意図的に僕に伝えなければ、僕は確信を持てなかったのだから。

「……そっか」

 小さくヨミは顔を伏せる。僕は本題へと切り込んだ。

「さて、君が誰か、という話だっけ」

「うん……佐太郎なら、私をころしてくれるよね?」

「…………」

「教えてよ、佐太郎。私は誰なの。どこから来て――どこへ行けばいいの?」


 そんなことは。

 そんなことは――僕は。


「僕は」口を開く。「僕は精霊なんて信じない」

「え……?」

「なんだよ精霊って、いるのかそんな奴。僕には疑問だね。本の精って。なんだそれ。本なんてただの紙とインクと糊で作られた情報媒体だろ。そんなものに精霊が宿ってるなんて、普通信じるわけないだろ」


 それでも、目の前の少女が超自然的な存在であることは事実で。

 ならば。

 今、僕の目の前にいる少女とは。


「十年前。この場所には図書室じゃなくて、旧校舎が建っていた」

「佐太郎……何を」

「当時にはもう使われておらず、取り壊しの決まっていた建物だった。事件はそこで起きたらしい」

「何を……言って」


「――当時この学校に通っていた一人の生徒が、旧校舎の階段から転落して亡くなった」


 僕は言う。ヨミの顔なんて見もせずに。

 図書館に――学校のではなく、市が運営しているほうに――出向き、過去の新聞を総ざらいにして。後はこの図書室から借りた、学校史の本も大いに役立った。

 推理も想像も、そこには何も必要じゃない。ただ事実を洗ってきただけの話。

 そんな簡単なことに、どうしてこれまで誰も気づかなかったのか。

 僕にはそのほうが不思議でならない。


「亡くなった生徒の名前は、知立詠」

「ちりゅう……よみ?」

「当時十五歳。事件の発覚と同時に旧校舎は取り壊され、その後、亡くなった生徒の父親が慰霊のためにと資金を提供し、彼女が亡くなったその場所に、彼女が好きだった本を納める建物を造った。学校側は、それを拒否することができなかった。訴えられるくらいなら、金も出すと言っているんだ、図書館のひとつくらい建ててもらって構わなかった」

「――なら、私は……」


 そう。図書室のヨミの正体は。





「精霊なんかじゃない。ただの幽霊。お前の正体は、十年前に亡くなった元人間の地縛霊だよ――知立ちりゅうよみ

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図書室のヨミ 涼暮皐 @kuroshira

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