1-23『恋文コミュニケーション7』
生徒会室から出たあと、僕と朝霧はふたり、連れ立って廊下を歩いていた。
先輩はまだ用事があるとかで、生徒会室に残っている。
「また明日」と、いつかのように、僕たちは別れてきたのだった。
しばらく廊下を歩いたところで、僕は朝霧にこう言った。
「僕は鞄を取りに教室戻るけど。朝霧はどうする?」
「帰る」
そう言いながらも、朝霧は動き出そうとしない。
視線を向けると、しばし迷ってから朝霧は言った。
「……結局あれ、先輩の質問に答えてないよね。どうして?」
「どうして、と訊かれてもね」
先輩は、僕らふたりが喧嘩しているのか、と訊ねた。ただこれは、それこそ小金井先輩の持ち込んだ吉川・芹沢両先輩の問題とは話が違う。
先輩だって、何も本当に言葉通り、ただ喧嘩をしているのかを確かめようとしたわけではないはずだ。本当に気にするべきことはその先にこそある。
だから。僕が語ったことは、遠回しでも答えのひとつだ。
と、言えないこともないだろう。
「さて。まあ先輩もあの話で満足したみたいだし。それでいいんじゃないか」
僕は肩を竦めてそう答える。それで朝霧が納得しないことはわかっていたが、同時に追及もしてこないだろうと読んでいた。
事実、朝霧はそれ以上は何も訊いてこない。ならばいい。
代わりというわけでもないが、続けて今度はこちらから訊いた。
「――朝霧は、さっきの話を聞いてどう思った?」
「どうって……何が」
「僕が話したことについて、だけど」ひと息、間を空けてから問い直す。「つまり、嘘だとは思わなかったのかな、ってこと。不思議に思わなかった?」
「別に」朝霧の答えは端的だった。「若槻が言うならそうなんだろう、くらいにしか。その場にいたわけでもないし、そもそもその先輩たちにも興味がない」
「……なるほど」
僕は。小さく頷くように答えた。
――そうか。
朝霧は、さきほどの話になんの違和感も覚えなかったと。
そう言うわけだ。そんなはずが、ないというのに。
別段、鎌をかけて訊いたつもりはない。朝霧だって間抜けじゃない――いや、僕より頭はいいだろう。だから、それに気づかないなんてことはない、と思うのだ。
だが朝霧は自然だった。ごく当たり前みたいな返答だった。演技じみた様子は一切ない。
だから、僕にはわからない。朝霧が本当に僕に騙されたのか、それとも騙された振りをしているだけなのか。だとするなら、その理由はなんなのか――。
僕には、わからなかった。
それを謎だとは、言わないけれど。
「――帰る」
朝霧は、さきほどと同じ台詞をもう一度言って、今度こそ足早に去っていく。
その背中を、見えなくなるまで僕は見送った。それから教室に戻り、鞄を取り、それから、そのまま席に座る。
考えるべきことが、あったから。
考えるのはヨミのことだ。
あるいは朝霧のこと。くぬぎ先輩のことであり、一色のことであり、ほかの誰かのことでもあって、何より深夜のことでもあった。
認識としての真実と過去の事実。その違いについて僕は思う。
僕の、選ぶべき
――この世に謎はない。
僕は、ヨミに向かってそう言った。だが果たして僕は、それに徹しきれていただろうか。
その問いに、僕は自信を持って頷けない。
僕は、生徒会への勧誘を断っている。その理由は単純で、僕は、僕が偽造した真実などに責任を持てないからだ。
もしも真実が常にひとつであるのなら、人間はこうも迷うことはなかったと思う。
だが現実は違う。真実とは事実に対する解釈であり、それが正しいという認識によって常に左右されてしまうものだ。何に影響せずとも済むならそれでもよかった。けれど僕は、僕が語った言葉に責任を負わなければならない。それができないから断ったのだ。
地球は丸いと誰かが言う。だが、それを僕は自分の目で確認したことは一度もない。それでも疑っていないのだから、それはその真実を、認識として僕が受け入れているということだ。真実は、事実に左右されることがない。たとえ本当は地球が平面だったのだとしても、それが僕の与り知らぬ事実である以上は何ひとつ現実に影響しない。事実とは無関係に、《地球は丸い》という
物語の名探偵は、過去を暴いて真相を口にする。だがそれはあくまで推理だ。聞いている人間たちが確認を取ったわけではない。物語なら、それでも事実と相違なかったとして済まされることだろう。だが現実では、探偵の語った真実が必ずしも事実と一致するわけではない。それがどれほど蓋然性の高い推理であろうと、確認のできないことはただの推測なのだから。
まして、僕は探偵でさえない。もっともらしい推理を真実として披露したところで、その披露したこと自体が影響する現実に責任を取ることができないのだ。
――翻って、ならば僕はこれまでどうしてきただろう。
本を誰が開いたのか。こんなことを、ヨミと推理ゲームするくらいなら問題はない。たとえ間違っていようと誰かに迷惑をかけることがないからだ。そもそも誰にも披露していない。
波崎の暗号を解いたことも同じ。僕は間違っていればわかるよう暗号を作った張本人に確認を取っていたし――名探偵としては、この一点ですでに失格だろう――やはり間違っていたところで、あんなものは
しかし、小金井先輩の一件はどうだろう。
僕はあの件において、明らかに自己の領分の範疇を超えた行いを取った。
もちろん推測が正しいであろうことの確認は、これもまた本人に直接取っている。だが、それだけなら小金井先輩に対し、あんなことを言う必要はなかったはずだ。僕にはわからないと言って逃げる権利があった。小金井先輩に対し負うべき責任などなかったはずだ。
けれど、それでも僕は小金井先輩を止めていた。
中学までの僕だったら、そもそも確認を取らなかっただろう。憶測だけで物を言い、それが正しかろうと間違っていようと、信じた人間の責任だと開き直ったと思う。
入学した当初の僕ならば、あるいはそもそも小金井先輩の依頼に答えることさえしなかったはずだ。何もわからないとしらを切り、あるいは考えさえせずに話を終わらせていた。
――今の僕は、そのどちらにも徹しきれず中途半端を取る。
それが成長なのかなんてわからない。変化であるのは事実だとしても。
ならば、さて。僕を変えたものとはなんだろう。
ここで初めて僕は周囲の人間というものに立ち返ってみる。
まあ、ヨミを人間と言っていいのかはわからないが。
なにせ精霊だ。本の精霊。図書室の精霊。
彼女が僕を変えたひとつの要因であることは間違いないと思う。だが僕らは、やはりお互い嘘をついてばかりだった。それも、間違いではない。
ここでひとつ、僕は根源的な《謎》に立ち返ってみたい。
そう、謎だ。僕とヨミとの間に残された、謎。それを紐解くべく、僕は考えてみる。
さあ覚悟はいいか、若槻佐太郎。まずは問一から始めよう。
――果たして、ヨミは本の精霊なのだろうか?
その点を疑問してみるとしよう。
精霊。まあヨミという不可思議の権化を前にして、今さらそういったファンタジー的オカルト的な諸々を信じないとは僕は言わない。僕以外にもヨミを見える人間がいる以上、その実在はとりあえず疑わなくてもいいことだろう。
図書室に謎の少女がいる。それはいい。こいつは実に不思議な存在で、明らかに現実の物理法則から離れている。これもいいだろう。そして、そいつは本の精霊を自称した。
――それはよくない。
それはまだ証明されていないだろう。
丸いという地球の自称を、それだけでは僕は信じない。確かめるまでは安心できない。求めるべきは根拠である。
そも精霊とは何か。生憎と僕は詳しくない。だからここは、あくまで辞書的な字義に則って考えてみるとする。
精霊。
スピリット。
それは万物に宿る霊的、超自然的なものを指す言葉だという。
ならば確かに、本の精霊なるものがいても、まあおかしいということはないだろう。しかし仮に本の精霊が実在するとして、だ。
そいつがなぜ学校の図書室にいる。
なぜ人間の女の子の姿を取っている。
なぜ見える人間と見えない人間が存在する。
疑問ならいくらだってあった。僕はまだそこに答えを出していない。
ヨミというオカルトを前提にしているから疑いが出ない。だが現実に精霊なんてものがそうそう存在するとは思えなかった。幽霊のほうがまだしもあり得そうなレベルだ。
――あるいは、当のヨミ自身でさえ。
それを、わかっていないのではないかと僕は読む。
そもそも彼女はおかしかった。存在が超常的ということではない。その態度に、僕は初対面のときから妙な違和感を覚えていた。
その答えを。
提示された謎を。
僕は、読み解くべきなのか。
「……さて」
呟き、僕は立ち上がる。読みかけていた学校の資料本を鞄に突っ込んで、昇降口に向かうと靴に履き替えた。
そして――向かったのは、図書室だった。
※
図書室には、時間も時間だからだろう。誰もいない。
いや、正確には司書の直木先生と――そして図書室の住人たる彼女だけはいるのだが。
ともあれ、普段以上にひと気のない図書室は、まるで時間が止まってしまっているかのように静謐な空気を漂わせている。
そう思うのは、さて、時間の止められた少女の存在を、僕が知っているからだろうか。
通い慣れた二階への階段を、僕はゆっくりと歩いていく。ぎぃ、と軋む木板の音が、図書室の静寂をゆらゆらと揺らした。
僕は図書室の二階へと向かう。
そこで待つ少女に――図書室のヨミに会うために。
そして。
「やあ、サタロー」
「や、ヨミ」
「……なんとなくじゃが。来るんじゃないかと、思っておったよ」
「ああ――そうだね。来たよ、僕は」
※
「――僕らの
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