1-17『恋文コミュニケーション1』
――ヨミ。
図書室に住まう本の精霊。ふざけた口調のエセ幽霊。
見た目は童女のくせをして、知った風なことばかりを言う。
けれども決して、その本心は読ませない。
そんな奴。
ときおり、思うことがある。
彼女は果たして、僕にとってどのような存在なのだろう。彼女と僕の関係は、いったいなんと呼ばれるべき間柄なのだろう――と。
友人、というのは無難だが少し違う気がする。知人といってはちょっと足りない。恋人? 馬鹿らしい、欠片もあり得ない。
ではなんと表すべきかと考えたときに、僕は。
共犯者。
なんて表現が浮かんできてしまったけれど。
いやいや。それはちょっと、気取りすぎってものじゃないかな?
※
くぬぎ先輩に呼び出されたその翌週。
無事に平穏な学校生活を取り戻した僕は、放課後、久々に教室で読書に勤しんでいた。
図書室で借りた書籍だ。ならば図書室で読めばいいという話なのだろうが、どうしてもあの場所にいると読書に集中できない。
ヨミと駄弁ってしまうからだ。それも終始、下らない内容で。
というわけで、放課後の教室である――素晴らしき読書スペースだ。
自宅で読むという選択肢もあったが、この分厚いハードカバーの書物を持ち帰るのもなかなか億劫だ。結論として、ひと気のない放課後の教室が、この本を読むのに最も適した空間であると言えよう。
ちなみに、借りたのはずばり、学校史である。
僕は、まあそれなりに読書をするほうだと思うが、読むのはもっぱら小説だ。実用書やエッセイ、まして資料本の類いはあまり読まない。
が、まあ活字には変わりあるまい。たまにはこの手の本で無聊を託つのも悪くない。そんなことを思ったわけである。
時間の浪費。それは人類に許されし最も素晴らしき贅沢だ。
それも全て平凡な毎日があってこそ。
嗚呼、美しきかな人生!
と、まあ。そんな感じで。
このときの僕は静かに活字へと埋没しつつも、心の中では盛大に幸福を噛み締めていたわけなのだが。
やんぬるかな。読者諸賢には、もう、おわかりであろう。
そんな事態がすでにもう、フラグ以外の何物でもないということは。
そのとき。僕はふと、廊下を移動する足音を耳に感じた。
時刻は午後五時を回っている。最終下校のタイムリミットも近づいている今、学校にはもうほとんど人の気配がない。部活をやっている生徒ならばまだしも、この時間に教室棟を歩く人間はそうそういないだろう。
茜に沈み始めた校舎。それを包むのは静寂だけで、だからこそ、物音は強く耳に響く。
とはいえ。
僕はその足音を、ほとんど意識していなかった。
まあ当然だ。だって実際、どうでもいい。
この高校はあまり部活動が盛んではないが、まだ帰宅していない生徒だってそれなりの数いるだろう。その内のひとりが教室棟を歩いていたところで、なんの問題もないのだから。
足音で途切れた集中を、改めて取り戻さんと僕は意識を本に戻す。
こつこつ、と。近づいてくる足音も、ひとたび無視を決め込んでしまえばもはや環境音の一種だ。むしろより集中できる気さえする。
そんな風にも考えていた僕に、
「うん? ――ああ、君か。まだ残っていたのかい」
思いがけず、声をかけてくる者がいた。
僕は驚いて顔を上げる。
それは言うまでもなく足音の主であり、ついでに言うならば――我が校の生徒会会長でもある女傑。
四倉くぬぎ
「……どうも」
僕は紙面から視線を離し、彼女に向き直って頭を下げる。
……なんともまあ、間の悪い。逢魔が時は間が合わぬ――なんつって。
ていうか、間が持たないっていうか。
足音の主が、よりにもよってこの人だとは考えなかった。それに気づいてさえいれば、僕は即座に後片づけをこなし、教室を後にしていただろう。
などと言ってはさすがに失礼極まりないが、しかし先週の一件以来、どうにも先輩とは気まずい気分だ。
あれから一度も言葉を交わしていないとはいえ、いや、あるいはだからこそ、先輩と対面するのはどうにも気が引けてしまう。
つい先日の、まだ先輩と知り合う以前の段階に戻るだけかと思いきや。
関係の破綻は拘留の破棄ではなく、むしろ悪化した継続の保留でしかなかった。
当たり前の話ではあるが、人と人との関係を、そうそう簡単になかったことにはできないということなのだろう。
「先輩こそ、こんな時間まで居残りですか」
本を閉じ、顔を上げて僕は先輩に問うた。仮にも年長者を無視して読書を進めるなど、僕にできようはずもなし、だ。
話すのはまだ気まずいが、避けるほうがより不自然だろうし。
「私は校舎の見廻りだよ。これでも生徒会長だからね。これくらいは仕事のうちさ」
わずかに笑んで先輩は言う。いつもと変わらない自然体が、いかにも様になっていた。気まずさなんて、感じているのは僕のほうだけだと言わんばかりに。
もっとも、その台詞の中身までは納得できなかったが。
いくらなんでも、さすがに校内の巡回が生徒会の仕事ということはあるまい。そんなものは警備か、よくて教師の職務だろう。
つまり先輩は、どうやら自主的に見廻りをやっているらしかった。
熱心というか徹底しているというか、なんというか……いずれにせよ頭が下がる。格の違いのようなものを、まるで見せつけられているかのような気分になってしまう。
とまで言っては、さすがに卑屈が過ぎるだろうけれど。
似たような考えは、浮かべざるを得なかった。
「そういう君は、ここで何を?」
と、今度は先輩が僕に訊ねてくる。すっかり会話モードになってしまった。
まあ僕としても開き直りがあるというか、今さら逃げようなんて考えもしなかったのだけれど。小さく肩を竦めて、なんでもないことをアピールしながら僕は答える。
「見ての通り」ちら、と視線を机上の本に落とし。「読書ですよ」
「ああ。まあ、そうみたいだね」
苦笑する先輩。人生、開き直りは意外と大切らしい。一度会話を始めてしまえば、そうそう気にはならなかった。
朝霧との一件で踏み込む大事さを確認したお陰、とでも言えれば格好もつくのだろうが、この場合は単純に、くぬぎ先輩が僕より大人だというだけだろう。
……この会長氏と話していると、なんだか自分の小物っぷりを突きつけられるような気分にさせられる。
「何を読んでいるんだい?」
会話の流れで、先輩がそう問うてくる。手元の本の向きを変え、先輩に示すようにして僕は答えた。
「この学校の歴史の本ですよ」
「それは……また意外なセレクトだな」
よほど意外だったのか、先輩はきょとんと目を見開く。
いつも悠然とした態度でいる先輩の、こういった反応はかなり珍しいものだと思う。
初めて会ったときは会ったときで、なんだか妙な口調ではあったが。
どちらかといえば、こちらのほうが素だというのだから畏れ入る。まるで他人の上に立つために、生まれてきたような人だ。
なんて、そんな適当なことを考えながら僕は答えた。
「まあ確かに、普段は読まないんですけどね。たまにはいいでしょう」
「図書館から借りたのかい?」
「そりゃまあ」ほかにないだろう。「それが?」
「いや、どうして教室で読んでいるのかと思ってね」
小さく息をついて先輩は言う。確かにまあ、この手の書籍を、わざわざ借りてまで読む人間は珍しいだろう。
むしろたいていの場合、こういった類の書籍は貸出禁止であることが多い。もしそうなら、仕方なく図書室で読んでいたところだが。
「あそこには、小うるさいのがいますからね」
韜晦するでもなくそう零す。先輩は苦笑し、
「……ヨミくんか」
「ま、そういうことです」
この本を読んでいること自体が、ヨミに関係しているとも言えるわけだし。
「彼女と君は、仲がいいものだと思っていたけれど」
くぬぎ先輩は言う。僕は視線を移して、
「はあ。そりゃまたどうして」
もちろん、別に険悪な仲というわけではないけれど。かといって特別に仲がいいというわけでもない。
そんなことを言われても、据わりが悪いと思うだけだった。
「私もね。あれ以来、彼女とはたまに話すんだが」
先輩は言う。そのことに、どうしてか僕は多少の安堵を覚えていた。
心情を隠しつつ僕はそのままに問う。
「仲、いいんですか?」
「ああ。いい友人だよ、彼女は」
なるほど。
それはよかった。
――と、自然にそう思うことのできた自分がやはり意外で、しかもそれが悪い気分ではない。
果たして、それがこの先輩と話しているからなのか。そこまではわからないけれど、少なくとも僕はもう、くぬぎ先輩といることに抵抗を感じなくなっていった。
もともと、嫌いな相手というわけではない。むしろ人間としては非常に好感が持てるし、尊敬もできる。好きか嫌いかで言えば間違いなく好きだった。
ただ、それと苦手だと思う感情は別に矛盾するまい。
うーん……やっぱり僕は、くぬぎ先輩と深夜を重ねているのだろうか。
あいつと重なる奴にはもうひとり、心当たりがあるんだけれど。かといって、そのふたりが重なるかと訊かれればそんなことはなかったりして。
まあ、誰かに誰かを見るなんて、そもそも褒められたことではない。
「――えっと。それで、校舎の見廻りでしたっけ?」
話題を変えるように僕は言った。
特に不自然にも思わなかったのだろう、くぬぎ先輩は普通に頷いて、
「まあ、趣味みたいなものなんだが。放課後の校舎の静けさが、私は結構、好きなんだ」
「ああ……なるほど。わからなくはないですね」
「本当に?」くぬぎ先輩は、ちょっと嬉しそうに僕を見た。「それは嬉しいな。実はあまり共感されたことがなかったから。意外なところに同志がいたね」
「そうですか? そんな偏った主張でもないと思いますが」
たぶん、五人にひとりくらいからは同意を得られそうな程度。
「うん。私もそう思うんだけれど」
と先輩は苦笑。何かを思い出すように目を細めて、
「たとえば雛なんかに言わせれば、放課後の学校は寂しいと思うらしい」
「ああ……」
言われて納得。確かに、そちらのほうがそれっぽい気もする。
言うほど大した違いでもないだろうけれど。
ともあれ、おおむね、そんな感じで。
僕は先輩と益体もない雑談を交わして過ごした。
意味もなければ意義もない、なんの生産性もない無為な時間。けれど人間というものは、そんな瞬間にこそ価値を見出だす存在らしい。
なんてことは、実のところちっとも考えていなかったのだけれど。そうでもなければ――そんな風に、価値を認めてやらなければ。
やりきれない展開が、このすぐあとに待っていたのだ。
……いや。
単に、朝霧が姿を現せたというだけなのだが。
がらり、と教室の戸が開いた。
その音を聞いて初めて、僕と先輩は彼女の接近に気がついた。
自然、音につられて、僕たちの目はそちらへ向く。彼女もまた、僕らのほうへと視線をやった。
視線が交錯する。
朝霧矢文が、そこにいた。
先輩の足音には気がついて、朝霧のそれに気づかなかったのは、もちろん先輩と会話をしていたからだ。別段、それは悪いことでもなんでもない。はずだ。
にもかかわらず、僕は朝霧と目を合わせた瞬間、なぜだか思わず押し黙ってしまった。
そんな必要はまったくないのに。
どうしてか僕は、決まりが悪く思えてしまう。まるで教師に悪戯を見咎められた悪童のように。あるいは浮気の現場を目撃された男とでもたとえようか。
……いや。別に深い意味などないけれど。
それはもうまったくの皆無だけれど。
その比喩は、ちょっと、笑えないと思います。
呆然とする僕。
それは朝霧の側も同じで、僕がいることなどまるで想定していなかったとばかりに目を見開いていた。
「おや。君は確か……」
と、先輩が何事かを言いかける。
その瞬間だった。
朝霧の瞳がきっと細くなり、睨むようなそれに変わったことに僕は気づいていた。
「――こんなところで、何をしているんですか先輩」
朝霧が言う。先輩の言葉を遮らんばかりに。その口調には、どんな鈍感が聞いてもわかるだろうほどの刺が含まれていた。
思わず目を見開いた先輩に、責めるような口調で朝霧は続ける。
「ここは一年の教室ですが」
言っていることは、まあ、ギリギリだが普通の範囲内だろう。だがそこに滲む毒は明白だ。
朝霧は、明らかに先輩へ敵意を持っていた。
――おや? と僕は疑念する。
朝霧は、はて、くぬぎ先輩と知り合いだっただろうか。この分だと違うような気がするけれど、それにしては敵意が著しい。それは、ちょっと意外だった。
「ん……ああ、すまない。ちょっと通りかかってね。たまたま彼を見かけたものだから」
ちら、と先輩がそこで僕を見る。その視線に込められた、助けを乞うような色に僕は気づいていた。
けれど何も言えなかった。……いやだって、僕にも意味がわからない
「……邪魔をした、かな? 後輩の教室に上級生が居座るのも、確かによくないかもしれないが……」
伺うように先輩は言う。
そこで初めて、朝霧は自分の態度に気づいたようだった。周章したように首を振ると、
「……いえ。私はもう、出ますから」
自爆気質というかなんというか。
朝霧には昔からそういう部分がある。冷静そうな性格に見えるのは上部だけで、本質的には結構な激情家だ。その上なかなかねちっこい。
ただ、そういった振る舞いが褒められたものでないことを弁えているだけだ。だから一見して感情の起伏に乏しく見える。背が低く、眠たげな表情をしていることが多いのもそのイメージを補強する一因だろう。
実際は、なんというか、鬼みたいな奴だけれど。
もっとも僕は、彼女のそういった部分が嫌いじゃない。というか嫌いなわけもない。
ただ高校入学以来、少し疎遠になっていた――というより意図的にそうしていた――僕たちだ。朝霧のそういった面を目にするのは久々だった。
変わっていない。中学の頃の朝霧と、同じ。
そんなことに喜んでしまう愚かな自分を、僕は隠すことができなかった。
不意に口許が緩んでしまう。
それを、朝霧本人に見咎められてしまった。
「……」
じとっ、とした陰性の視線を、僕は朝霧から感じた。中学までの朝霧なら、ここで嫌味のひとつでも投下していったところだろう。
けれど、今の朝霧はそれをしない。
変わったのではなく、変えた部分というべき違いだろう。これは。
……うーん。これも会長の一件と同じなんだけど。
一応の仲直りをしたとはいえ、やはり、それまでの時間がなかったことにはならないのだ。
朝霧は自分の席に近づくと、机の中から何かを取り出して、肩へ提げている鞄にしまった。
何か忘れ物だろうか。そんなことを思いながら、僕は朝霧へと声をかけてみる。
なんとなく、何も言わないでいられなかったのだ。
常の僕には珍しい、それは能動的で意味のない行動だった。
「あー……っと。こんな時間まで、何をしてたんだ、朝霧」
「別に」にべもない返答。「若槻には関係ないこと」
「……なるほど。うん、真理だね。そいつは実に正しい言葉だよ」
馬鹿みたいな返答をする僕だった。
弱すぎる。
と、朝霧はふと無気力に眉尻を上げると、なんでもないような調子で逆に問いを投げ返してくる。
「そういう若槻は?」
ここで「朝霧には関係ないことだよ」なんて返すほど、さすがの僕も馬鹿じゃない。
小さく肩を竦めるようにし、
「ちょっと読書をね」
細い視線で朝霧は言う。
「わざわざ教室で、先輩の女子といっしょに?」
……おおぉうっふ……。
さてなんと答えるべきやら、と一瞬だけ僕は迷う。ただ正直に答えればいいだけなのに、一瞬だけでも迷ってしまう辺りに不様な保身が透けて見える。
ヨミならば、こんな僕を笑うだろうか。我ながら徹底していない、そんな態度は確かに滑稽だろう。
その上、この一瞬が落とし穴だったとくれば。
「いや、ずっと一緒にいたわけじゃないさ。通りすがりに、たまたま彼を見かけたのでね。ちょっと声をかけたんだ」
先輩が言う。いや、この場合はもう、先輩が言ってしまったというべきか。
瞬間、朝霧の眠たげな細い目が、僕を通り越して先輩へと向く。その視線は、まるで「なんで先輩が答えるんですか」とでも言わんばかりの色だ。
というか、間違いなくそう思っているだろう。なんともわかりやすい。
ただ視線を向けられた先輩は、意外にも、と言うべきなのか、どうやらまったく気づいていないらしい。
「どうした?」
と、首を傾げて心配していた。
そしてからふと何かを悟ったかのように「ああ」と頷くと、そのまま笑顔で、
「いや。変な誤解はしないでくれよ? 私は別に、君の恋人には手を出していない」
無自覚という名の爆弾を投下した。
「は――はいっ!?」
珍しく、あからさまに動揺を見せる朝霧。
先輩は「うん、やはりそうだった」といった感じの表情だ。
誰でもいい、変な誤解をしてるのはお前のほうだと、この先輩に教えてやってくれ。僕はもう口を開きたくない。
「だ、誰が恋人ですか誰がっ!」
幸い、とはまったく言えないが、誤解を解く役は朝霧が自ら買って出てくれたようだった。
僕は今日の夕食の献立について思いを馳せることにする(現実逃避)。
「て、てっ……適当なこと言わないでください!」
「うん? 違うのかい?」
「今は違いますっ!」
「……今は?」
「ああっ!? その、じゃなくて、えーと……とにかく違うんです!」
「でも、君らと同じクラスの中河原くんから、私はその情報を聞いたのだが」
「なっ――ぐっ、あ、い、つ……っ」
「恥ずかしがることじゃないだろう。中学生の頃から、懇ろにしていたそうじゃないか」
「ね、ねねねねんごろとか意味意味わかんな意味」
「狼狽えすぎじゃないかな」
――あー。
今日は鍋がいいなあー……。
ああ、なんだかどうでもよくなってきた。そう僕は思った。
捨て鉢、というよりは、単に開き直ったのだと思う。
「僕と朝霧は恋人ってわけじゃありませんよ」
だからと言って弁解しないわけにもいかないため、僕は口を開く。
せいぜいなんでもないことに聞こえるよう、上手くもない演技をしながら。
「まあ、確かに一色の言う通り、そういう関係だった時期もありましたけどね……昔の話ってヤツですよ」
「別れた、ということかい?」
「ええ」
僕は頷く。朝霧の顔を見てしまわないように。
見るまでも――推理などするまでもなく。
彼女がどんな表情をしているかなんて、はっきりわかっているのだから。
「卒業の直前に、ですね。互いにいろいろとありましたし。別れることにしたんです。ま、甘酸っぱくもほろ苦い、青春の思い出ってところですか」
クズの極みみたいな発言だった。
僕は嘘をついていない。
だが、嘘でなければ何を言ってもいいわけでも、ない。
「……悪かった。無神経なことを訊いてしまったようだ」
罰が悪そうにくぬぎ先輩。僕はこの上なく軽く笑い、
「いえいえ。別に嫌い合って別れたってわけでもないので」
なぜなら。僕らは。
きっと初めから。
「……ならいいのだが」
「そもそも一色が悪いんですよ。誤解させるようなことを言ったんですから」僕は笑う。「それより、くぬぎ先輩も、やっぱり恋愛の話は好きなんですか? なんだか意外ですね」
「……私だって年頃の女子だからな。人並みの興味くらいはある」
「おっと、それは失礼を」
くぬぎ先輩が苦く言い、僕が大袈裟に頭を下げる。
話は、それでおしまいだ。
――と、そうは問屋が卸さないのが人生だということくらいは、僕も大概学んでいる。
案の定、と、これもまた言うべきなのだろう。
ほとんど挑発に近い僕の言葉を、潔癖な彼女が見過ごすはずがない。それくらい、初めからわかりきっていた。
それでもあえて言いきったのは――やはり、ああ、僕もこれは捨て鉢になっているのだろうか。
自分でも、もはや自分がわからなかった。
「――勝手なことばっかり言って」
だが朝霧は、俺の言葉に目を細めた。反論の余地はまったくない。
「そんな風に、都合のいい思い出にされる謂われ、ないんだけど」
ひと言ひと言を区切るように、痛みを伴いながらも絞り出すように朝霧は言う。
彼女は今、はっきりと怒っていた。仲直りしたと思っていたのは僕だけだったレベル。
いや、まあわかるけど。
僕がそう言ったことの意味まで、朝霧だってわかっているはずだけれど。
それを含めと――険悪ぶって空気を悪くするより、嘘でも気軽に振る舞えと――もちろん、そんなことを僕から朝霧に強制はできない。ただ、心のどこかで、朝霧ならそれを読み取って上手く運んでくれるはずだと、そう思い込んでいたことも否定できなかった。
「……はあ。なんかわたしのほうがばかみたいだ……」
しばらくしてから。朝霧は呆れたように溜息をつくと、不意に視線を逸らした。
彼女の今日の不機嫌の理由が、僕にはいまいちわからなかったのだが。ともあれ機嫌を取り直してくれたのなら、それに越したことはないだろう。僕はほっと息をつく。
まあ、この場で最大の被害者はくぬぎ先輩だろう。妙な展開に巻き込んでしまって申し訳なく思う。
いや、よく考えれば僕もこのところ、先輩のせいで厄介ごとに巻き込まれることが多かった気もするので、やっぱりあまり悪いとも思わない。ことにする。
僕は語る言葉をなくしていたし、朝霧もまた押し黙ったまま身じろぎさえしない。重い沈黙が、放課後の教室の空気を澱ませていた。
それを破ったのは――意外にも、と言うべきなのか――四倉くぬぎ先輩だった。
彼女はひと言、
「ふむ。よくわからないが……」
と、まあそりゃそうだろう、ということを言った。
それだけで僕と朝霧の注目を一気に奪っていく辺りは、さすが生徒会長といったところか。
先輩は、優雅にやおら腕を組むと、僕たちに向かって、こんなことを言ってのける。
すなわち、
「ちょっと、茶でもしばきに行かないか」
……は?
という一点において。
僕と朝霧は、久々に思考を同調させたように思えた。
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