1-18『恋文コミュニケーション2』
とはいえ別に、喫茶店などに向かうというわけではなかった。
くぬぎ先輩に連れられてきたのは、何を隠そう、生徒会室である。
「何もないが、まあ適当にかけてくれ」
あっさりと言う先輩。僕と朝霧は顔を見合わせて、結局言われた通り椅子に座った。
逆らう気にはなれなかった。
ふむ。これも先輩のカリスマなのだろうか。たぶん違う。
――しかし、なんだ。
先日、あれだけの啖呵を切ってこの部屋を退出してきたというのに。確かにまた遊びに来るとは言ったが、その機会がこうも早く、こうも簡単に訪れるとは考えていなかった。なんだか馬鹿みたいな話だったが、僕らしいと言えばらしい気もするので、気にしないことにする。
長方形の折り畳める長テーブルと、それを囲うように設置されたいくつかのパイプ椅子。整然としていて、生徒会室というよりは会議室といったほうが雰囲気に近い。どちらも同じようなものではあるが。
役員でもないのに、こうも頻繁に生徒会室へ足を踏み入れる生徒など僕くらいではないだろうか。
そんなことには欠片の優越感も抱かないし、どころかむしろ可能なら避けたいくらいの気持ちではいるのだが、やはりどうにも僕は先輩に頭が上がらないらしい。
朝霧にもヨミにも上がっていない気はするが。
なんだろう。なんだかやたら尻に敷かれている気がする。
これも違うといいのだが。
「今、お茶を淹れよう。それとも珈琲がいいかな」くぬぎ先輩が言った。「雛がコーヒーメーカーを持ち込んでね、まあ豆のことはよくわからないのだけど、それでもちょっとしたものだよ?」
「……では、珈琲を」
先輩の言葉にそう答えた。ここまで来ておいて、今さら遠慮するのは逆におかしいだろう。
「ふむ」と頷き、先輩は続けて朝霧にも顔を向ける。「君も、それでいいかな」
「……はい」
朝霧もまた小さく首肯する。
くぬぎ先輩はどこか楽しそうな面持ちで、さっそく部屋の端の器具に向かって何やら操作をし始めた。今にも鼻唄を歌い始めかねない雰囲気だ。機嫌がいいらしい。
なんとも言えない気分のまま、僕と朝霧はただ座って、先輩が珈琲を作るのを待つ。
やがて三つのカップに、湯気の立つ黒い液体がなみなみと注がれて出てきた。
「確かに、いい香りですね」
渡されたカップを手に持って、僕は言った。お世辞ではなく、事実、喫茶店で飲むような品とそう遜色ない気がした。
もっとも僕にコーヒーの香りを嗅ぎ分けるような技能はない。ただ状況に流されているだけだ、と指摘されれば返す言葉はなかっただろう。
幸いにして、誰もそんなことは言わなかったけれど。だから続けて、
「ありがとうございます。頂きます」
と、カップに口をつける。ひと口啜り、
……美味しい。
思わず、ほう、と溜息が漏れた。少なくとも自分で作るより遥かに味がいい。まあ僕が作る珈琲などインスタントがせいぜいなので、これは比べるほうがおこがましい話だった。
続けてふた口目を流し込んだ僕に倣うよう、朝霧もカップに小さく口をつけて、
「…………」
すぐに下ろした。僕は彼女が猫舌で、かつブラックが飲めない甘党だと知っている。
きょろきょろと辺りを見回す朝霧。今さら意地悪をするつもりもなく、僕は助け船を出してやる。
「すみません。ミルクか砂糖はありますか」
「あるよ。こっちの棚だ」
先輩は立ち上がって、スティックシュガーなどの納められた一式の籠を持ってきてくれた。
それを僕から朝霧に手渡す。なんだか朝霧はものすごく微妙な顔をしてから、
「……ありがとう、ございます」
と、くぬぎ先輩を向いて言う。先輩は苦笑交じりに頷いて、
「粗茶ならぬ、粗珈琲だけどね」
そんな、ものすごくつまらないことを言った。
下らなすぎて逆に吹き出しそうになる僕と、反応に窮して困った表情になる朝霧。そして、その意味がわからず首を傾げるくぬぎ先輩。
こんな三人で、生徒会室で珈琲を飲む機会があるなんて。
――とても、奇妙な時間が流れていた。
三人とも、特に何かを話し出そうとはしない。そんな穏やかな時間は、意外にも心地のいいものだ。こんな放課後なら、悪くないと素直に思う。
もちろん僕は、話がそれだけで済まないことをわかっていたけれど。
やがて、それぞれがカップの中身を、およそ半分ほど干した頃。
ふと口火を切ったのは、くぬぎ先輩だった。
「――訊いてもいいかな」
最初は、僕に向けられた言葉だと思った。
だがどうやら違うらしい。先輩の視線は僕ではなく、朝霧のほうを向いていた。
「……何か?」
と、朝霧は答える。やはり口調は硬かったが、それでも今まで含まれていた棘のようなものが、言葉から消えているように感じられた。
これで案外、朝霧は想定外の事態に弱い。たぶん困惑しているのだろう。特有の眠たげな表情を読むのは慣れていない人間だと難しいのだが、付き合いの長い僕にはそれがわかる。
相変わらずの朝霧に、先輩もまた素の口調で問う。無暗に気取っていない素の先輩は、たとえば朝礼の壇上などで見かける会長としての凛々しい姿より、あるいは魅力的に見える気がした。
まったく、ずるい先輩である。
「いや。ただの興味本位だから、答えたくなければ構わないんだけど」
「だから、なんですか」
遠回しな表現をするくぬぎ先輩に、少し痺れを切らしたような朝霧。
それにはさすがに気づいたのか、先輩はそこでばっさりと本題に切り込んでくる。
「――君ら、もしかして喧嘩でもしているのか?」
「……」「……」
本当にばっさりだった。単刀直入にも程がある。
思わず無言になる僕と朝霧だ。
結構訊きにくいことだと思うんだけど。ばっさりっていうか、あっさりだなあ……。
この辺り、一色とはまったく正反対の対応である。
別に構わないんだけど。聞かれて困ることなどないのだ。聞いたほうが困りかねないことがあるだけで。
「いや、だから別に喧嘩してるってわけじゃないんですよ?」
黙り込んだ朝霧に代わり、僕が言う。先輩は「そうか?」と首を傾げ、
「何か、ずいぶんと気まずい雰囲気が漂っているようだったから」
「気づいてはいたんですね」
「気づかないほうがどうかしている」
正論だった。僕はもう肩を竦めるほかにない。
ちらりと隣の朝霧を窺う。彼女は何も言わずにただ黙っていた。
その意味を僕が正確に読み取れたわけではないのだけれど、たぶん怒っているわけではないのだと判断する。
本来、朝霧は先輩のようなタイプが嫌いじゃないと思うのだ。彼女は人間の好き嫌いがはっきりしたタイプだし、その感情を偽れるほど器用じゃない。
だから、その割にはさきほど朝霧が先輩に敵意を剥き出しにしていたことが、僕には意外でならなかった。いったいなんだというのだろう。
「ま、ちょっと昔、いろいろありまして」
いろいろを考えてから僕は言う。少なくとも、このコーヒー請けとして相応しい話題ではないだろうから。
先輩は小さく小首を傾げ、重ねるように言った。
「いろいろとは?」
「……そう、ですね。なら、少し昔の話でもしましょうか」
「昔話かい?」
「ええ」
さも僕と朝霧のことを言うような雰囲気を出しているが、別にそんなつもりはない。中学時代のことは正直、あんまり思い出したくないのだ。
それでも、くぬぎ先輩が求めるのなら、多少の話題提供は吝かじゃない。このコーヒーの礼とは言わないけれど、呼ばれた側も少しくらいは気を遣っていいだろう。ホストとして、少なくとも先輩は申し分なかったのだから。
少し前までの自分なら、絶対にそんなことは考えなかったと思うのだけれど。
入学以来、僕も少しずつ変わってきているらしい。
それがいいことなのか、それとも悪いことなのかは――まあ別として。
僕は言った。
「まだこの学校に入学したばかりの頃……初めて図書室に行ったときのことです。先輩なら、興味があるかと思いまして」
「それが、何か関係あるのか?」
「ええ」
僕は頷いた。あながち嘘じゃない。
直接の原因とは違うけれど、無関係といえば、それはそれで嘘になるからだ。
「聞きたいですか?」
もったいぶるつもりはないけれど、なんとなくそう訊ねてみた僕に、先輩は微笑みを返してくる。
「私は、友達のことはなんでも知りたいタチなんだ」
「……光栄ですね」
僕は答えた。本心だったと思う。
では思い出してみよう、と僕はそこで一度、目を閉じた。
入学以来、通い慣れた図書室の光景が、瞼の裏に想起される。
「――じゃあ四月。僕が、初めてあの精霊と会ったときの話を、ちょっとしてみようかと思います」
願わくは。
先輩がこれからも、ヨミの友達であってくれるように。
※
この学校の図書室には、小さな女の子が住んでいる――。
そんな、七不思議にしては少し恐怖感に欠ける噂が、しかし真実であるなどと、そのときの僕はまるで信じていなかった。
まあ、当然ではあると思う。そんな与太話、信じる人間のほうが少数派だ。
そもそも今どき七不思議はないだろう。幽霊だか精霊だか知らないが、そんなものに実在してもらっては困るとさえ、そのときの僕は考えていた。
もしも幽霊がいるのなら。
もう一度でいい。
僕には、会いたい人がいたのだから。
だからまあ別段、噂の真偽を確かめてやろうとか思っていたわけでもなく、僕は普通に図書室に行った。
もともと読書は好きなのだから。新しい学校の図書室の、規模くらいは確認しておきたかったのだ。
この学校の図書室が、なぜか本校舎ではなく別館にあるとは聞いていた。
それがどの程度のものなのか、わずかな期待とともに図書室を訪れた僕は――、
「…………でか」
その期待を、見事な形で裏切られていた。
――なにせ大きい。
図書室、というよりはもはや図書館というべき施設を見上げながら、僕は茫然と呟いたことを覚えている。東京に出てきた地方出身者みたいな有様で。
一棟丸ごと――それも古風で瀟洒な洋館が、高校の敷地内に建っているという違和感。周囲の景色からは明らかに浮いているその建物は、それだけでひとつの異界じみた風情さえ湛えている。
想像以上だった。いい意味で裏切られた僕の期待が、脈打つように胸で広がる。
蔵書がどうとかいう以前に、この館の雰囲気それ自体を僕は気に入っていた。
漫然とした暇な放課後を、この場所で潰せるのならそれだけで悪くない。設計者は本当にいい趣味をしていると思う。こんなものを、よりにもよって学校の敷地内に造るという発想がまず頭おかしい。そのおかしさを、けれど僕はことのほか心地よく思ってしまう。
中に入ると、そこはまさしく本の世界だった。
狂おしいほど並べられた書架。溢れんばかりに詰められた蔵書の数々。
さては天国とは地上にこそ存在したか。なんて、テンションの上がる僕がいた。
そこに、苦笑交じりにかけられる声がひとつ。
「――いらっしゃい。どうやら、気に入ってくれたみたいだね」
壮年の男性を思わせる声音。僕は視線をそちらへと向ける。
そこにいたのは、白髪交じりのくたびれた髪を持つ、ひとりの男性教諭だった。
もっとも、彼を教師だと判断した理由は、単にこの場所が学校だからというほかにない。高校にいる大人なんて、教師か業者か事務員くらいだ。そして服装が作業着でないのなら、後者ふたつではないだろう――その程度。
果たして、その推測はそう的を外してはいなかった。
僕の視線から疑問を読み取ったのだろう。苦笑交じりに彼は言う。
「私は直木。この図書室の司書をしている」
「なおき先生……ですか?」
「そうだよ。直木賞の直木と書く」
「ああ……」
言われて納得した。音だけだと、苗字というよりむしろ名前に聞こえたのだ。
直木先生は苦笑を重ねて、それから僕に向き直るとこう告げる。
「毎年、ひとりはいるんだけどね」
「はい……?」
「入学して、真っ先にこの図書室を見に来る、読書好きの生徒がさ。いや、今年は期待の年みたいだ」
そう微笑む先生に、僕は若干、居心地の悪い思いを得る。知らずのうちに典型的な行動パターンを踏襲してしまったらしい。
まあ、どの年にも独りは読書好きがいるのなら捨てたものではない。そう思っておこう。
誤魔化すつもりで、話題を変えるように僕は問う。
「ずいぶん立派な図書室ですね」
「ああ。数年前に、寄付で建立されたんだ」
「……数年前、ですか……?」
思わず訊き返す僕だった。見た感じ、そんなに新しい建物には見えなかったのだが。
誰もが抱く疑問だったのだろう、直木先生はさっと答える。
「ああ。設計者――
さすが私立。などと適当な感想が浮かんでいた。納得しつつ頷く。
「酔狂というか、趣味人もいたものですね」
「……どうだろうね」
直木先生は濁して微笑む。何か含むものを感じなくもなかったが、それは意図的に無視しておいた。
その代わりに、
「見学しても構いませんか?」
「ああ。学校の施設だ、自由に見ていくといい。貸し出しは一階のカウンターだから、何か借りたい本が来てくれればいいよ」
「ありがとうございます」
言われて、僕はふと二階部分を眺めた。
二階があるということ自体、まず驚きの部分ではあろう。
「二階には――」ちょっと間があってから先生は言う。「――稀覯本も多いからね。貸し出しはできないものもあるが、興味があるなら覗いてくるといいだろう」
「そうします」
僕はそう答えた。稀覯本に興味があるというよりは、単に流れだったと思う。
微笑を絶やさない直木先生と別れ、僕はまず二階への階段を上っていく。
――その先で、僕は彼女と出会うのだった。
※
二階部分の面積は、一階よりずっと狭かった。
吹き抜け状で階下を見下ろせる。これも意図しての造りなら、まったく設計者には頭が下がる。
知立……という姓には、聞き覚えがあった。中学の同級生にひとり、同じ苗字の生徒がいたのだ。あまり多い姓ではないと思う。もしかしたら関係者なのだろうか。
そんなことを考えながら、僕は本棚の間を進んでいく。ところ狭しに、ずらりと並べられた蔵書の数々。別に古書に詳しいわけではないのだが、そんな僕にもわかるくらい貴重な本が、驚くほど無造作に並べられていた。中には数万くらいするはずの蔵書もあって、むしろ怖いくらいのものである。これは建造だけじゃなく、蔵書も寄付を受けていると見た。
「……ん?」
と、そのときだ。ふと前方に、僕はひとつ人影を見つけた。
まず、ひとつ驚いた。この時間に、まさかほかの生徒が来ているとは考えなかったからだ。
なにせ今は朝の七時。まだホームルームさえ始まる前の、学校が開いた直後だからだ。
こんな時間に図書室に来るなんて、よほどの物好きに違いない。自分のことを棚に上げて、僕はそんなことを思う。
だが驚きはそれだけじゃない――むしろそのあとが本筋だ。
間髪を容れず、次いでもうひとつの驚き。その人影が、どう見ても生徒には見えなかったことだ。
なにせその人影は。
なぜか、着物を纏っていたのだから。
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