1-11『密売インフォメーション7』


 それからのことは、特筆して語るほどの展開ではないと思う。

 思うから、だから語らない。

 ――というわけにもいかないから、せめて掻い摘んで話すとしよう。


 その後。

 僕たちは勉強を再開し、黙々と参考書のページをくり続け、午後八時を過ぎた頃には家路についた。

 言葉にしてみれば、それだけの展開でしかない。忘れそうになっていたけれど、そもそも本日の目的は皆で集まって勉強に励むことであり、間違っても暗号を解読することではなかったはずなのだから。学生としての本分を忘れてはならない。

 覚えていてあえて無視するならば若者的パッションとしてアリだが、忘れてしまうのだけはダメだと僕は思う。


 まあ、閑話休題。

 そんなわけで僕たち四人は、時計が八時を示す寸前、見回りに来た教師から帰宅準備を命ぜられるまで黙々と勉強を続けた。一色と芽室さんは時折言葉を交わしていたようだけれど、僕と朝霧はまったく口を開かなかった。誰にも話しかけられなかったし、まるで参考書をめくるだけの機械にでもなったかのような気分。まあ集中できていなかったわけではないから、ちゃんと身にはなっているはず。

 もっとも、真面目に勉学へ取り組んでいたから口を開かなかったのかと問われれば、まあ、そうだと断言もできないだろう。かといってではなぜなのかと訊かれても、僕には答える言葉がない。

 だからこそ、ただ黙っていたのだろう。

 元来、僕は寡黙でクールな性質キャラを売りにしていた気がする、ような。


 午後八時を過ぎる頃、僕たちは揃って校舎を後にした。

 最寄りの駅までは必然的に同じ道を歩むことになるのだが、帰路につく僕らが纏う雰囲気は、決して高校生の友人同士が集まったときに醸し出すようなそれではなかったように思う。この頃にはもう誰ひとり、積極的に口を開こうとはしていなかった。

 なんとなくそういう流れだったから、とでもいうか。別に喧嘩をしているわけでも、誰の機嫌が悪いわけでもないはずなのに、場の空気は妙に重い。


 ……まあ、責任は僕と朝霧にあるのだろうけれど。


 本当に申し訳ない気分。これが自分ひとりの力で改善できることならともかく、今の僕にはそのための取っかかりさえ掴めていない。

 どうすればいいのかなんて、まるでわからなかった。

 そのまま黙り続ける以外、僕にできることなどひとつたりとも存在していなかった。

 ゆっくりと、真綿で首を絞められるかのように不快指数の高い空気を纏ったまま、僕はやがて自宅へと辿り着いた。その間のことは正直、あまり鮮明には覚えてない。

 一色や芽室さん、朝霧たちとは、どの辺りで別れたのだろう。まったく記憶になかった。ただ遅効性の毒でも盛られたかのように、ねっとりとした泥のような、粘性の嘔吐感を胃の底に溜めていたことだけは覚えている。


 酷く気分が悪かった。

 全身を覆う不快感をどうにか洗い落とそうと、帰宅後はすぐ風呂へ向かった。肌に刺さるような熱いシャワーの感覚だけが、唯一信じられる安心だった。

 家族と会話もせず、用意された夕食にも手をつけず、僕は自室へと駆け込むとすぐに布団へと潜り、そのまま融けるように眠りに入った。


 そして翌日。

 僕は熱を出して学校を休んだ。なぜだか風邪をひいていたらしい。全身を襲っていた虚脱と違和の感覚は、単にそれが原因だったようだ。

 精神ではなく単純に体調の問題だったということ。道理で、と納得した。

 普段は大して使っていない脳味噌を、いきなり酷使して知恵熱が出たのかもしれない。もっとも知恵熱とは生まれたばかりの幼児が起こす発熱を意味した言葉であり、それ以外の用法は本来誤用なのだと何かの本で読んだ気がする。

 ――なんて、どうでもいい記憶が掘り起こされるのも風邪の特徴だろう。


 そして――さらに翌日。

 大して重い病状でもなく、半日寝ていただけで即回復した僕は、ようやっと学校に向かった。

 二日も無断で会わなかったのだから、ともすればヨミに怒られてしまうかもしれない。でも図書室へ向かうと、今度は朝霧の機嫌が悪くなってしまう。あちらを立てればこちらが立たず――というか、どうにもわからないことだらけで困ってしまう。

 久々に、読書をしたい気分だった。

 今日は本を読むために図書室へ行こうか。ヨミに会うためではなく、図書室の本来の意義を求めるために。

 なんていう言い訳を考えていた。


 一日振りに登校した朝、教室で一色に会った。早めの登校だったがためか、教室に他の人影はない。

 好都合だ。一色にはひとつだけ、訊いておきたいことがある。

 芽室さんや、何より朝霧に対しては――できれば知られないように。


「――よう、一色」

 僕は片手を挙げて一色に近づく。一色はいつもとまったく変わらない様子で、

「佐太郎か。おっす、一日振りだな。風邪だって?」

「ああ。なんか脳が熱暴走を起こしたみたいで」

「はははっ。おいおい、脳味噌を使い過ぎたんじゃないか?」

「かもしれないね。普段はあんまり使わないから」

 つまらない冗談で笑い合う。

 どこか互いに探り合うような色合いが感じられるのは――僕の気のせいなのだろうか。


「そういや、朝霧ちゃんが何か、お前に用があるみたいだったぜ?」

 と一色。自然、喉の奥から吐息が零れてくる。

「そっか。……まあ、そうだろうね」

「面倒なコトしてないで、さっさと仲直りしてくれよ?」

「そうだね。そう、そうだ。――ところで、」僕はかぶりを振り、一色に視線をまっすぐ向けて言う。「僕も一色にひとつ、話があるんだけど構わないかな?」

「……ああ、聞くよ」

 一色は。どこか儚げに微笑んだ。

 悟っているのだろう。僕がここで何を問うか、一色はきっと気づいている。

 ならば遠回しな表現は要らない。

 僕は一度だけ頷いて、単刀直入に切り出した。


「一色はさ。――あの暗号の読み方、最初から知ってただろ?」


「――……」

 一色は答えない。ただ笑ったまま僕のほうを見据えている。

 それこそが返答だと――思うべきなのだろうか。僕は畳みかけるが如く続けた。

「それだけじゃない。あの場に波崎たちがいるだろうことを、そもそも一色は知っていたんじゃないか?」

「――それを訊いて」

 一色が、空気を断つように口を挟んだ。

 普段とは――さきほどまでとはまるで違う、感情の読めない無色の瞳で一色は言う。

「それを聞いて、知って、佐太郎はいったい何がしたいんだ?」

「……別に」と、かぶりを振る。「何も。僕は何もしない」

 けれど、

「いいや違うね。口でなんと言おうとも、お前は結局、何かをするさ」

「…………」

「お前はそういう奴だ。だからそうなったんだろう」

「……かも、しれないな」

 そう答える他なかった。

 要領を得ない、要所をぼかすような一色の言葉だが、それでいて的確に僕が突かれたくない場所を突いている。

 ――殺すつもりで突いている。

 その棘は、僕には避けることができないものだ。

「それでも」一色は淡々と言葉を繋げる。「それでも、俺の口から聞きたいのか?」

「……ああ、そうだね。僕は訊きたい。一色の口からそれを聞きたい」

「わかった、なら場所を変えよう。教室じゃ、そろそろ誰かが登校してくると思うから」

「どこに移る?」

「そうだな――」


 と。

 一色は自嘲じみた笑みを浮かべ。


「――図書室、なんていいんじゃないか」



     ※



 当然といえば当然なのだが、この時間ではまだ図書室は空いていない。

 実質的に『室』というよりは『館』と付けたほうが的確な建物だ。鍵の管理は教員だけが――主に司書である直木先生が――行っている。生徒は鍵に触れない。

 とはいえ勿論、考えなしにやって来たというわけでもない。

 入る手段はきちんとある。

 僕と一色は、正面の入口から建物の裏手に回った。そこにある磨りガラスの窓を二、三度手の甲でノックするように叩く。数秒待って、


「……なんじゃ、佐太郎か」


 ガラリ、音を立てて窓が開くと、ひとりの少女が姿を現す。

 橙色が基調になった温かみのある着物姿と、それに負けないほど鮮明な、緋色に近いセミショートほどの髪を持つ図書室の精霊――ヨミだった。

 現象としては完璧にポルターガイストだが、彼女は触れずに物を動かすことができる。というか、逆を言えば、物に触れること自体はできないわけだが――ともあれ。

 僕はひらひらと手を手を振って、


「や。二日振り」


「なんじゃい、こんな朝早くから。見たところ、私に会いに来たというわけでは――」

 ちら、と。

 ヨミが流し目で、僕の後ろに立つ一色を見る。

「――ないようじゃがな。入るのか?」

「うん。今なら、誰にも聞かれずに会話できるからさ」

「まったく、いいように使ってくれるのう……」

 ぐちぐちと不満げに漏らしつつ(おそらくこの二日、誰も会いに来なかったから拗ねているのだろう。これで存外に寂しがり屋な奴なのだ)ヨミは一歩分だけ身を引いた。

「悪い」

「まあ、別に構わんがな。そちらのは……、確か、中河原一色じゃったか」

「久し振りだね、精霊さん」

 一色がくすりともせずに言う。ヨミもまたつまらなそうに、

「ふん。会うのは二度目、……いや三度目じゃったかの。まあ、どちらでもいいわ」

 そう言って、行儀悪く中へと顎をしゃくってみせた。


 ……あ、あれ? なにやらふたりの間の空気が険悪な気が。

 そんなに仲が悪かっただろうか、このふたり。そもそも交流するところをほとんど見ないから、関係が拗れることもないと思うのだが……。


「まあ、いいか」


 気のせいということにしておく。単に匙を投げただけとも言うが、仕方ない。

 今の僕は、自分のことだけで精いっぱいだから。


 窓枠を乗り越え、図書室の中に侵入する。

 本校舎と違い、図書室には鍵以外のセキュリティシステムは備えられていないため、直接見られさえしなければ教師にばれる心配はない。実際まあ、こうしてサボるのも一度目というわけではなかった。なに、ばれなければ問題もない。

「私は上に行ってるぞ」

 ひらひらと興味なさげに手を振って、ヨミは上の階へと文字通りにいった。階段使えよ、とか突っ込みたくなるが、僕も飛べたら使わないだろうから黙っておく。

 なまじ見た目が人間と変わりないため、こういうところで違いを見せられると当惑する。知り合って当初は毎回驚いていたものだが、とはいえ慣れれば慣れるもので、今となっては感慨もない。


「――で、何の話がしたいんだ?」

 椅子に腰かけ肘をつき、一色は静かにそう訊ねてきた。

 僕はその正面に座り、同じくゆっくり返答を作る。

「訊きたいことはひとつだよ」

「何だ?」

「――なぜ、僕が暗号を解くように仕向けたんだ?」

 問われ、一色はふっと、小さく笑みを作った。

「それに答える前に、俺からもひとつ訊きたいことがあるんだが構わないか?」

「……構わないよ」

「もちろん、俺から訊きたいこともひとつだ。――いつ、いや、どうして気づいたんだ?」

「…………」

 改めて問われると、それはそれで答えづらい。

 とはいえ予測していた質問でもあるので、正直なところを伝えることにする。

「いや、別に気づいてないよ。あれは鎌を掛けただけだ」

「……何だ、俺は引っ掛かったのか」

 一色は苦笑を零す。しかしすぐさま表情を戻し、

「でも気づくきっかけはあったわけだろ?」

「まあ、ね」

「それを教えろよ」

「……それは」

 それは。そのきっかけは。

「僕が、だよ」

「――は?」

「だってそうだろう。僕はこれまでの人生において、暗号の解読なんてやったことは一度もない」

「……まあ、普通ないだろうな」

 当惑した表情の一色だった。これは、まあ確かに僕の主観か。

 とはいえ、訊かれたことなのでそのまま続ける。

「暗号解読なんて初めての経験だった。なのに、あんな簡単に、数分適当に考えたくらいで、んだよ」

「はずがないって……」

「僕は自分の脳味噌を、そこまで信用していない」

「……」そんなことを言われても。

 という表情になる一色。どうも伝わってない様子だ。

 けれど僕にとって、それは大きく意味を持つ事実だと言わざるを得ない。

「思い返してみればさ。暗号を解くために得たヒントとか、そもそも暗号を解くことになった理由とか――そういうの、ほとんど一色がきっかけになってたと思うんだよね」

「……」


 そもそも居残りで勉強しようと言い始めたのは一色だった。

 また休憩に飲み物を買いに行こうと言ったのも一色であり。

 トイレに行くことで時間を微妙に調節したのも一色からだ。

 暗号の書かれた用紙をゴミ箱から見つけてきたのも一色で。

 それを解読しようと言い始めたのも――全て一色が発端だ。


 それだけじゃない。たとえば、少し考えれば違うとわかる程度のことを、わざわざ口に出して並べてみたりして。

 昨日ベッドの中で思い返して気づいたが、考えてみればあのときの一色はずっと不自然だった。

 一色は決して馬鹿じゃない。少なくとも僕はそうは思っていない。

 あれは、僕が思考するための補助として、わざと口に出していたのではなかろうか。

 あるいは一色が、口を滑らせて下手なヒントを出してしまわないよう、あえて無関係なことばかりを述べていたのではないだろうか。

 無論、確証はない。ないのだけれど――やはり、仮に自分ひとりで考えていたら、僕は答えに気づかなかったと思うのだ。


「決定的だったのは、やっぱりあれかな。一色、あのとき乱歩を読んでただろ。あれはさすがにあからさますぎる」

「……それは本当に偶然だ」苦味のある表情で一色が零す。

「そうか?」

「ああ。そこまで全て掌の上、みたいな言い方は困るぜ。だいたい、言っただろ? まだ読んでないって。あれは嘘じゃない」

「……そっか。そんな偶然も――まあ、あるのかもね」

「それ以前に、そんな昔から考えてたわけじゃないぜ? あれは、あの日の昼に思いついたことだ。本を用意してる暇なんざなかったよ」

 ……そうだったのか。

 いや、それはいい。それよりも知りたいことは――

「暗号の読み方は、でも、初めから知ってたわけだよね?」

「ああ。あの時間にあの場所で、波崎が情報屋ごっこをしてるのも、初めから知ってたよ」

「……どうして、こんな真似を?」

 という一点について、僕は一番疑問を持っている。


 僕に暗号を解かせるような真似をして、一色に何かメリットがあるとは到底思えなかった。そんなことには何の意味もない。価値もない。皆無だとしか思えない。

 けれど現実として、一色はそれとなく僕を誘導し、暗号を解くよう仕向けていた。

 いったいなぜ、そんなことをする必要があったというのか。僕が知りたいのはその一点だけだ。


 問いに、一色は小さく笑んで答えた。


「――別に、何でもよかったんだけどな」

「え?」

「お前さ、高校に入ってからキャラクター変わったよな」

 訊き返す僕に、一色はまったく別の言葉を述べる。

「なんていうか、静かになった感じだよな。いや、大人しくなったというか、それか落ち着いたとでもいうか。丸くなったというか、明るくなったというか。棘が抜けたというか」

「いきなり矛盾した気がするんだけど。それに、聞く限りそれはいいことだろ?」

「――そして何より朝霧ちゃんと仲が悪くなった」

「…………」

「いいことだとは――思えねえよなあ」


 まあ、露骨ではあったのだろうけれど。

 それまでは、矢文と。僕は下の名前で彼女を呼んでいた。それが急に朝霧と姓で呼ぶようになったのだから、一色も違和感は覚えたことだろう。


「お前らの間に何があったのかは知らない。教えちゃくれねえみたいだからな。だったら俺から訊きもしないさ」

 けれど。一色は続けた。

「かといって俺をあまり聞きわけのいい人間と思われても困る。言葉では訊かないが――だったら別の方法で探るだけの話だ。友達だからな。それが俺の、友人に対する心配の仕方だ」

「……眩しいこと言うね。どこの主人公だい、一色」

 ふざけて茶化してはみたけれど、そんな行為に意味はなく。

 取り合いもせず一色は続ける。

「で、仮説。お前らが別れた理由だけど」

 ひと息。


「――玖代の件が関わってるのか?」


 今まで何も訊ねてこなかった一色が、ここに来てついに核心へと迫ってくる。

 その矛先を躱すすべを――僕は知らなかった。

「そうだよ」

 僕は頷く。否定する意味などない。

 一色は、訊いたのだから。ほかにないし、むしろ気づかないほうがどうかしている。


 玖代くしろ深夜みよ

 僕の幼馴染みだった、そして矢文の幼馴染みだった彼女。

 僕と矢文にとって、無二の親友だった少女。

 いつも三人でいた、誰よりも大切な友人。


 ――今はもう、この世にいない女の子。


「彼女がいなくなってから、僕は自分に、ふたつのことを誓った」

 いや、誓ったわけではないのだろう。そんな気取った言葉を選ぶべきではない。

 ただ逃げた。怖くて怖くて堪らなくて、目を背けることを選んでしまった。

「ひとつは――もう二度と自分から、他人に余計な口出しをしないこと」

 乞われない限り。求められない限り。

 僕はなんにも気がつかないし、何を言ったりもしない。

「そしてもうひとつは――」

 僕が決心したことは。


「――朝霧を、いや、矢文を自由にさせてやることだ」


 朝霧と玖代に――矢文と深夜に――ずっと依存していた自分。

 本当なら、もっと早くにそれを止めるべきだったのだ。間違っていると気づくべきだったのだ。

 手遅れになる前に――そうするべきだった。


「……玖代が亡くなったのは、事故だったと聞いてるが」

 一色が言う。僕は苦笑を返すように、

「もちろんそうだよ。別段、僕が殺した――みたいな、そんな物語的な展開で嘆いているわけじゃない」

 失笑とともに嘯いてみせる。その通り、玖代深夜が亡くなったのは、ありふれた交通事故が原因だった。

 彼女は、僕とはまったく関係していないところで、ある日突然いなくなってしまっただけ。

 劇的なことなど何もない。

 悲劇気取りは許されない。

 ニュースにもならず、新聞にさえ載らず。ふと気づいたときにはこの国の人口が、ひとり分だけ減少していたというに過ぎない。

「僕が感じた後悔も、だから、同じくありふれた感傷でしかないんだと思う」

 物語としては三流で、安いプロットを読者に哂われてしまうような。

 だけど、それでも――当事者にしてみれば堪らなくて。


 きっかけとしては些細なものだ。

 いつも通りの下らない会話。

 ほんの少しの自己顕示欲。

 愚にもつかないヒーロー願望。

 そして、致命的に歯車のずれた運命。

 ――それらが合わさって、取り返しのつかない事態を招いてしまった。


 たとえば、最後に交わした言葉が罵倒だったとか。

 喧嘩別れしたまま、二度と仲直りできなくなってしまったとか。

 そんな、さして珍しくもない、どこにでもあるような悔恨。

 残されたふたりが離れたって――何もおかしいことはないはずだった。


「ああ、要するに――」


 と、僕は言う。誰もいない図書室の中で。

 あるいは一色に向けてではなく、

 さながら神に懺悔する敬虔な信仰者の如く、

 抱えてきた思いを、

 身勝手に、

 誰に聞かせるでもなく。

 僕は、告白する。


「――要するに僕は深夜が死んだことを、未だに認められないだけなんだと思う」



     ※



 一色が去ってからもしばらく、僕は図書室に残っていた。そろそろ時間が危ないのだが、どうにも身体を動かせないでいる。

 ヨミは、あの愛すべき図書室の住人は、そんな腑抜けた僕のところへ飛んできた。


「佐太郎は、水母くらげの物真似でもしとるのか?」

「……なんでだよ」


 開口一番、抜けたことを言うヨミに、知らず苦笑が零れてしまう。

 くらげ――か。確か、身体のほとんどが水分で構成されているとか聞いたことがあった。

 なら僕とは違う。僕にはもう、水分なんて残っていない。


「能天気そうでいいよね、ヨミは」

 肩を竦めて、皮肉るように僕は言う。

 剥がれかけの仮面を被る作業だ。いつもの調子を取り戻すための、いわば世界とずれた自分の波長を元に戻すための調整作業チューニング

「言ってくれる。これで私も、いろいろと悩みを抱えていたりするんじゃがな」

 心外だとばかりに憤慨してみせるヨミ。

 日がな一日、図書室に籠もっているだけの存在にも、悩みらしきものはあるらしい。

「まあ、そりゃみんな、いろいろと抱えてはいるんだろうけどね……」

 今の僕に、自分以外の誰かのことを考えている余裕はあるのだろうか。

 中学のときの僕は、いろいろなことに首を突っ込んでは、手前勝手に引っかき回していた。そのことへの後悔は、ひとりの友人を喪い、そして恋人をも失ったことで、僕の魂の奥底に重く堆積している。

 けれど――あるいは一色の言う通り。

 逃げているだけの今の僕も、きっと、真っ当だとは決して言えないのだろう。


「お主もまた、いろいろと抱えておるみたいじゃのう、佐太郎」ふと、ヨミが口を開いた。「あの男も、あの男で、いろいろと回りくどい輩のようじゃが」

「……何、聞いてたの?」

「ふん。この館は、それ自体がすなわち私の身体にも等しい。内部を行き交う言葉など、耳を使わずとも聞こえてしまうのじゃよ」

「……」忘れそうにはなっていたが。

 ヨミとて、これでも精霊を自称する超常の存在ではあるわけで。

 そのくらいの不可思議は、当たり前のように行使するのであった。


「といっても、あの会話じゃ何を言ってるかまではわからない、かな」

「……ま、確かに。察することしか叶わんの」

 なにせ要領を得ない会話だった。きっと一色だって、厳密な意味で過去のことを知れたわけではないのだろう。ましてヨミは、暗号の件さえ知らないのだから。

 もっとも僕自身、故意にそういう言葉を選んだわけだけれど。

「じゃがまあ、わかることもある」

「へえ……、何?」

「――佐太郎も、まだまだ若い、ということじゃよ」


 口角を嫌らしい角度に歪めるヨミ。

 本当に。まったく好き勝手言ってくれるものだ。


「一色だって同じだろ?」

「さてな。確かに不器用な奴ではあったが――」

 不器用。それはそうなのかもしれない。

 一色が僕に暗号を解かせた理由が、この話をしたかっただけなのだとしたら。

 それは確かに、不器用としか言えない。

「――しかしそれでも、佐太郎、お主よりは大人じゃろうよ」

「……そうだね。一色はきっと、僕よりずっと大人だよ」


 そして、あるいは。

 一色の本当の目的とは、もしかしたら。


「……いや」


 いや、よそう。

 僕にはわからない。

 僕には読めない。

 それで構わないだろう。

 読めないものがあったって――それはそれで、構わないはずだ。


「さて……、僕もそろそろ戻るよ」

 言って椅子から立ち上がった。

「なんじゃ? 拗ねたのか、佐太郎」

「馬鹿言え」振り返り、軽く睨めつけて言う。「もうすぐ一時間目なんだ、二日も休むつもりはないよ。教師に目をつけられる」

「ふむ、では私はしばらく眠るとするか」

「こんな時間から寝るのかよ」

「ふん――なにせここ二日、誰ひとり私に会いには来なかったからな。暇で暇で仕方がない」

「そっちが拗ねてんじゃん」

「るっさい、裏切り者」

 長机の上に胡坐をかき、ヨミは上目遣いに睨みつけてくる。まるで子供のように――実際、子供にしか見えない顔で――べえと舌を突き出してきた。

 気取った口調が崩れ去ったヨミは、それこそ本当に同年代の友人のようで。

 その様子に苦笑しつつ僕は言う。

「はは、そうだね。じゃあ眠ってるといいよ」

「ぬ」

「午後になって僕が来てから、眠くなったら困るからね?」

「……ふん」舌を戻し、ヨミはふいと視線を背けた。「子ども扱いすでないわ、ばか」

「そんなつもりはないけど。ん――じゃあ、また」

 と片手を振り、僕は図書室を後にする。


 放課後の話の種は――そう。

 友達と、暗号を解いて遊んだ話にするのがいいだろう。


 そんな風に、考えながら。

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