17 動き出す日常

 降り続いた雨は、三日目の朝に止んだ。久々に覗かせる太陽が、濡れた地面を乾かしていく。

 その日の午後。ヒメは黒いグローブを手に、顔を強張らせていた。

「右がアクセルでこの銀色のがブレーキ。止まるときはこれを引いてね。これさえ覚えてれば大丈夫だと思う」

 随分簡単そうにソマリは言う。ヒメの前には、使い込まれたバイクが鎮座していた。


 変わらなければと思ったのは、ずっと前。今の自分になにができるかを考えて、思い出したのは配達係を求めているというマンチカンの言葉だった。

「なんか心配だなぁ。ヒメさんほんとに大丈夫?」

 傍で心配そうな表情を浮かべているのは、酒屋に働きに出ているソマリだ。長く明るい茶髪を三つ編みにした彼女は、その豊満な胸を反らして腰に手を当てヒメを見ていた。

「だ、大丈夫……だと思います……」

 ヒメに頼みたいのは商品の配達だという。そのためにはバイクに乗れることが必要不可欠だった。マンチカンのバイク仲間でもあったソマリに乗り方を教わったが、その表情は硬い。

「要は慣れだよ。こけても怪我するだけだから。さぁいってみよ!」

「いや怪我したくないんだけど!」

 ソマリに背中を押され、ヒメはバイクに跨った。

 直線道路、人通りの少ない路地。練習するには打ってつけの場所である。


「いった……」

 かぽんと小気味のいい音が、浴場に響き渡る。

 アジト近くの銭湯で、ヒメは昼間に作った傷に顔をしかめていた。頭に手ぬぐいを乗せたスコが、その様子をおかしそうに見ている。

「でも乗れるようになってよかったね、ヒメちゃん」

 丸一日かかって、ようやくヒメはバイクに乗れるようになった。それまでにこさえた傷は勲章だ。

「せっかく紹介してもらった仕事なのに、最低条件すら飲めないようじゃ話にならないからね」

 ヒメは苦笑を浮かべる。

 ぴちょんと水滴の音が聞こえた。銭湯は『猫』のメンバーだけではなく、町の住人で賑わっている。

 二人の間に落ちた沈黙を、スコは破った。

「マンチカンに……悪いなって思ってる?」

 ヒメの表情が強張った。

 あの仕事を初めに紹介してくれたのはマンチカンだ。身の振り方を悩んでいたヒメに、優しく教えてくれたあの笑顔。

 今はもういない。

「もっと……いろんなことができたんじゃないかなって思って……」

 初めて人の死を身近に感じた。あっけなく命が失われていくことに、恐ろしさを覚えた。

 スコは顎先まで湯船に浸かる。

「ボクらはたくさんの仲間を見送ってきたけど」

 その声は幼さを含みながらも、どこか大人びていた。

「あとから悩んだってできることは他になかったよ。その時を精一杯やっていた」

 スコの頬には水滴が滴り落ちていた。それが涙なのか、ただの水なのか、ヒメには区別がつかない。

 無法地帯の外だ。自警団たる『猫』のメンバーは、いくつもの死線を越えてきたのだろう。幼く見えるスコだって例外ではない。涙など、とうに枯れ果てた。

「でも」

 スコは目を伏せ続ける。

「ボクらに必要だったのは、ヒメちゃんのその優しさなのかもしれない……。ボクらはあまりにも死に慣れすぎた」

 大人になれずに『猫』は死ぬ。決まりきった未来に絶望するときを、彼らは乗り越えてきた。死が傍にあることに慣れきってしまった。

 ヒメはそこに現れた一筋の光だ。この町とは違う価値観を持つプリンシパル・シティの少女。彼らが忘れてしまったものを、思い出させてくれた。

 銭湯は日常の音で溢れている。ここでそんな重い会話が交わされているなど、思いもしないだろう。

「だから、ヒメちゃんはそのままでいていいんだよ。ボクらはヒメちゃんが大好きだ」

 重苦しい空気を振り払うかのように、スコはにっこりと笑った。いつもの笑顔だ。

 その笑顔を見てヒメの頬に伝ったものは、きっと水滴ではない。

「わっ」

 ヒメは思わずスコを抱き締めていた。

「ヒメちゃん!? 苦しいよー!」

 ヒメのささやかな胸に抱き締められて、スコは苦しそうにもがいた。

「お前ら早く上がれー!」

 隣の男湯からシャムの声が響いた。

 ヒメはスコを腕から開放し、二人で顔を見合わせる。そしてくすっと笑い合った。

「はーい!」

 二人の声が重なった。


   *


 それからのヒメは、何かが吹っ切れたかのようだった。配達の仕事も順調にこなしている。その美貌のせいで配達先で口説かれることも多々あるが、うまくかわせるようにもなってきた。


 そんなある日のことだった。

 日が沈み、仕事を終えてヒメはアジトに戻ってきた。酒屋で労いのワインを一本貰ったので、ヒメはペルシャにあげようと考えていた。なにしろヒメは酒が飲めない。うわばみのペルシャの喜ぶ顔が目に浮かぶ。

「ふざけんなよ!」

 そんな声が聞こえてきたのは、ペルシャの部屋の前に来たときだった。声の持ち主はどうやらシャムのようだ。

 ヒメは慌ててドアを開けた。

 シャムがペルシャの胸倉を掴んでいた。

「な、なに……!? どうしたの……」

「ふざけてなどおらん。プリズン・シティの癌は市長だ」

 ヒメの声を遮って、ペルシャの硬い声が響いた。ヒメの動きが止まる。

 聞こえた言葉が信じられなくて、ヒメはペルシャの顔を凝視した。部屋に沈黙が落ちる。しかし否定の言葉は飛んでこない。

「ペルシャ……なんの話……?」

 震える声でヒメは問い掛ける。だがペルシャの視線は下げられたまま。その沈黙が肯定だと語っていた。

 一番に動いたのはシャムである。

「ふざけんなよ! 誰の……誰の前でそんなこと言ってると思ってんだよ! ヒメの目を見てもっぺん言ってみろ!」

 胸倉を掴まれたペルシャは、それでも否定の言葉を述べようとはしなかった。

「さっき言ったとおりだ。我々の最終的な目標は、プリンシパル・シティ市長の暗殺にある」

 それ以上蒼白にならないと思えたヒメの顔だったが、さらに血の気が引いた。

 シャムはクソッと吐き捨ててから、手を離した。

「それを知ってもなお協力するというなら残れ。強制はせん」

 それだけ言うと、ペルシャは踵を返して出て行ってしまった。

 部屋には嫌な沈黙が落ちる。

「ヒメちゃん……」

 騒ぎを聞きつけたのか、扉の傍にはロシが立っていた。ロシがヒメの肩を押して、ソファに座らせる。ヒメの唇は震えていた。

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