25 彼女の任務

 コンコンと小さくノックの音が響いた。

「入るよ、ヒメちゃん」

 ロシが顔を覗かせると、ヒメは相変わらずベッドサイドの椅子に俯いて座っていた。昨日の晩からだから、かれこれ十二時間以上飲まず食わずだ。

 ロシはひとつ息をついて、ヒメへと近付いた。ヒメの目の下にはクマが浮かび、表情は疲れ切っている。

 心配そうな目を向けるロシに、ヒメは気づいていない。その目はただシャムに向けられていた。

「シャムはどう?」

 そして安らかに寝息を立てているシャムを見下ろした。その頭には包帯が巻かれている。布団で隠されていて見えないが、腕や腹にも治療の痕があった。

「お医者様は峠は越えたって言ってた。あとは安静にしてれば大丈夫だ、って」

 その表情は硬い。まるで彼を傷つけたのは自分であるかのように、ヒメは言葉少なだった。

「ヒメちゃんも、食べないともたないよ」

 そう言ってロシはローテーブルにかたんとトレイを置く。トレイには湯気を立てたスープとパンが乗せられていた。

 ヒメはゆるゆると横に首を振る。

「シャムが怒るよ?」

「……食欲がないの」

 ロシはなにも言わずに椅子を移動させて、ヒメの隣に座った。

「お父様は、どうなったの……?」

「……市長の相手はペルシャだったんだ。あのペルシャと互角だったそうだ。君のお父さん、すごいね。大丈夫、とどめは刺してないよ」

 それを聞いてヒメは安堵する。でもそれはしてはいけないことのような気がして、言葉にするのは憚られた。

「喜んでも、いいんだよ」

 静かに告げられた言葉にヒメははっと顔を上げた。視線の先ではロシが穏やかな表情を浮かべている。

「離れているとはいえ家族じゃないか。ここには僕らしかいない。大丈夫、みんなには黙っておくから」

 そう言われてはどうしようもない。ヒメの目からぽたりぽたりと雫が零れた。

「私……やっぱりどっちに立つこともできなくて……」

「うん」

「お父様が死んだらどうしようって……。でも、シャムがこんなになって帰ってきて、心臓が止まるかと思った……」

 ロシはすっと手を伸ばして、ヒメの頭をぽんぽんと撫でた。

「僕らには血の繋がった家族はいないけど」

 ヒメは顔を上げる。

「『猫』が家族みたいなものだ。誰かが傷ついて戻ってきたら、ヒメちゃんと同じようなことを思ったと思うよ」

 それを聞いて、ますますヒメの涙は止まらない。

 相反する思いを抱えてもいいのか。ずっと迷っていた。ロシはそれを許すという。

「泣かせてんじゃねーよ」

 ふたりの視線が同時にベッドへ向く。いつの間にか目覚めたシャムが、ロシを軽く睨みつけていた。

「シャム!!」

 勢いよく立ち上がったヒメの椅子が倒れる。そのままヒメはベッドに縋り付いた。

「ねぇ無事!? 傷は痛む!?」

 必死なその顔にシャムは面食らう。そしてふっと笑った。

「……心配、かけたな」

「そうだよバカ!」

 叫んでヒメはぱこんとシャムの頭を叩く。

「いって」

 本当は全然痛くないのだろう。頭を抑えて痛がる振りをしたが、シャムはヒメを見上げた。

「おかえり、なさい……」

「ただいま」

 泣き出してしまったヒメの腕を軽く引いた。シャムの腕の中に倒れ込んだヒメは、そのまま泣き続けていた。

「結局自分が泣かせてんじゃん」

「うるせー、俺はいいんだよ」

 ロシの呆れた様子のため息を、シャムは聞こえなかった振りをした。


   *


 シャムの体調は順調に回復して、もう歩き回れるようになっていた。とはいえまだ跳んだり跳ねたりするには充分ではない。なのにショートカットとして窓から飛び降りようとするシャムに、ロシの怒鳴り声が響く毎日だった。


 その日、ヒメはペルシャの部屋に呼ばれていた。

「ペルシャ、話って?」

 大きな椅子に座り、デスクに両肘をついたペルシャは、難しい顔で視線を落としていた。

「……ロシ達から聞いたかもしれんが、ヒメに一つ提案がある」

 なんのことだろう、とヒメは首を傾げた。ロシから先日の任務のことは、少ししか聞いていない。

 ペルシャが自分の父と友人だったとは、驚きだった。

「ヒメ、プリンシパル・シティに戻らんか?」

「え……?」

 『猫』をやめろということだろうか。

 突然のことにヒメは頭がまっしろになった。

「あーいやいや、すまん。順番を間違えた。お前さん、賢いだろう? その頭脳を生かしてみんか? 『猫』の病気を治す手立てを見つけてほしい」

 ヒメは目を見開いた。まさか舞花から言われたことを、ペルシャからまた言われるとは思わなかったのだ。

 ヒメの方から切り出そうとは考えていた。しかしペルシャの方から言われてしまったことに、ただ驚く。

「ただ、『猫』から離れることにはなる。わしらは離れていても仲間だと思っとるが、ヒメもそう思っとるなら、プリンシパル・シティに戻って治療法を研究してくれんか?」

 願っても無いことだ。

 みんなの治療法の研究はしたい。だが離れてもみんなが仲間と思っていてくれるか。それだけが不安だった。ペルシャがそう言ってくれるなら、大手を振ってアジトを離れることができる。

 だが懸念材料がもう一つだけあった。

「でも……お父様は……」

 父にも母にも黙って出てきたのだ。このまま帰ることなどできるのだろうか。父の険しい表情を思い出して、ヒメは俯いた。

「そこも話はつけとるぞ」

 ヒメは顔を上げる。顔を上げた先のペルシャは、笑みを浮かべていた。

「周蔵にお前さんのことを頼んでおいた。まぁあんだけボコボコにしたら聞かない訳にはいかんわな。大丈夫、わしがちゃんと見といたんだから、間違いはない。ちゃんと世話しとったんだから、怒らずに迎えるって言っとったぞ」

 ヒメは言葉にならなかった。ペルシャも父もちゃんと自分を見ていてくれた。どうでもいいとなど思われていなかった。

 目頭が熱くなる。

「……私、こんなにお世話になったのに、言われるままに帰っていいんでしょうか……?」

 ペルシャはにっかり笑う。

「もちろんだ。それにヒメはこれから『猫』の役に立つんだろう? ……子どもの夢は大人が全力で応援するべきだ」

 ヒメは驚きの表情でペルシャを見た。自分の夢を、どうしてペルシャが知っているのだろう。

「周蔵……親父さんはちゃんと知っとったよ。それを承知の上で、戻ってこいとのことだ。……頑張ってこい」

 とうとう涙が零れた。ペルシャだけでなく、父も応援してくれるというのだ。舞花も、シャムも、『猫』のみんなも待ち望んでいる。がんばらない訳にはいかない。

 ヒメは乱暴に涙を拭った。まっすぐにペルシャを見据える。

「ヒメ、プリンシパル・シティにて任務に当たってきます!」

 姿勢を正して叫ぶヒメに、ペルシャは慈しむような笑みで頷いた。

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