第一章 猫を被る
2 理想都市の少女たち
四月の暖かい日差しが降り注ぐ。
よく晴れた日の朝、学校や会社に向かう人々で駅は混み合っていた。
この駅の最寄りの高校は、
「
「あら舞花さん、ごきげんよう」
良家の子息子女が多い桜見坂学園。その生徒とあらば、挨拶一つを取っても品の良さが滲み出ていた。もっとも、このプリンシパル・シティには上流階級しかいないのだが。
プリンシパル・シティ。それは理想都市。
この国が発展するに伴って問題になったのは、環境汚染だった。大気汚染や水質悪化など、じわじわと人々の生活に影響が出るようになり、出した答えが一つ。都市をぐるりとドーム状に覆い、理想的な環境を維持しようというものだった。
その名をプリンシパル・シティ――重要な都市。通称PCという。
ドームに覆われたこの都市は、常春・人工空・清浄な水に空気、と快適な空間を誇る。
ただ、国の全てを覆えたわけではない。莫大な予算を掛けて作られたそれは、要となる都市だけだった。その中に住まえる人はごく一部、金持ちだけだった。金を持たない貧民層は理想都市から追い出され、ドームの外の薄汚れたスラムで暮らしていた。
影を隠して光る街、それがプリンシパル・シティだった。
「比乃芽さん、『猫』の話は聞きまして?」
学園へ向かう道すがら、クラスメイトの舞花が話し掛けてくる。
「猫、ですか? あの愛らしい……」
比乃芽は緩く波打つ長い髪を揺らして、小首を傾げた。舞花はくすくす笑う。
「いやだ、違いますわ。最近、世間を騒がせている犯罪者のことですわ」
比乃芽はそういえば、と思い出す。
新聞やテレビでニュースになっていた。政治家の家や大企業に忍び込んで機密情報を盗んでいく輩がいる、と。犯行現場には必ず『猫参上』のカードがあることから、どうやら犯人は『猫』という集団であると言われていた。
「なんでも、犯人は『外』の人たちらしいんですって」
舞花は続ける。
「先日もセントラル鉄道の本社に忍び込んだらしくて、問題になっていたそうよ」
万全なはずのプリンシパル・シティのセキュリティだが、彼らは時折どこからか忍び込むらしい。警察は血眼になって犯人の行方を追っていた。
「お詳しいのね」
「父が警視総監ですもの。わたくしに危険が及ばないようにと聞かせてくださいましたわ」
舞花はそう言って微笑んだ。
「比乃芽さんもお気をつけあそばせ? 市長の娘なんて、わたくしの比ではありませんから」
彼女は心の底から心配そうな声で。比乃芽の瞳は揺れた。
「えぇ……」
その返事もどこか上の空だった。
プリンシパル・シティ市長、朝日屋周蔵。
比乃芽の父はそういう肩書きだ。創市以来、市長を勤め上げてきた朝日屋家の現当主である。支持率は実に九十八パーセント。その数字が小さくなることはない。その一人娘とあっては、比乃芽の箱入り振りは並大抵のものではなかった。
選ばれた者が住まうこの町で、犯罪が起こることはない。あっても完璧なセキュリティシステムですぐに始末されるだろう。
それでも比乃芽には幼い頃からボディガードがつけられていた。中等部に上がる頃にどうしてもと父親に頼み込んで目の付く範囲にはつけないようにしてもらったが、根本的には変わらない。
*
「ただいま戻りました」
比乃芽を母親が迎える。
「お帰りなさい、比乃芽さん。お父様が書斎でお待ちですよ」
「お父様が? 帰られているのですか?」
母親は気遣わしげに頷く。比乃芽の瞳は揺れた。
比乃芽は書斎のドアをノックした。
「お父様、比乃芽です」
「入りなさい」
ドアを開けると、書斎の重厚な机で周蔵が書き物をしていた。パタンとドアを閉めると、比乃芽は父親の前に立った。
「来月はお前の誕生日だったな」
周蔵は顔も上げずに話し出す。
「はい」
「パーティーを開くから用意しておくように。お前の婚約者を選ぶ場だ」
「え!?」
大声を上げた比乃芽に、周蔵はちらりと目をやった。その目は面倒な色をしている。
「お前ももう十六だ。婚約者ぐらいいたっていいだろう」
「ですがお父様……!」
「私の言うことが聞けんというのか」
周蔵はそのぎょろりとした目を比乃芽に向けた。
比乃芽はこの目が幼い頃から怖かった。反論を許さない、有無を言わせぬ目。この目をされたらなにを言っても無駄だ。
「わ、かりました……」
結局比乃芽はそれしか言うことができず、部屋に戻るしかなかった。
*
休み時間、比乃芽は舞花たち友人数人で集まって歓談していた。
「まぁ、パーティですか」
舞花は楽しそうに言う。比乃芽は小さくため息をついた。
「急にそんなことを言われても、気乗りしませんわ」
「でも比乃芽さんは遅いくらいですわよ?」
舞花はくすくす笑う。
「そう、なんですか……?」
「えぇ。だってわたくしに婚約者はいますもの」
初耳だった。他の友人たちも驚いている。
「まぁ、そうですの?」
「えぇ。小さいときに父が決めた方ですが」
舞花は薄く頬を染めた。
「ともかく、そこまで身構えることないですわよ」
そういうものなのだろうか。
比乃芽は窓の外に目をやった。
「そういえば先日の『猫』の件、ご存知?」
輪の中の一人が話の流れを変えた。みんなの視線が彼女に集中する。
「先日というと、セントラル鉄道のことですか?」
比乃芽は舞花に聞いたことを口にした。外から進入してくる犯罪者集団。現場に『猫』の文字を残す輩のことを。
「その後のことですわ。警視庁の庁舎にも文字が残されていたそうですわよ」
舞花の顔が青褪める。警視庁といえば、彼女の父親の職場だ。
「幸い被害は何もなかったそうですけど、こうも続くと不安ですわよね」
その言葉を聞いて、舞花は安堵の表情を浮かべた。みんなが舞花に励ましの言葉を贈る中、比乃芽は別のことを考えていた。
「外の人も、中に住めたらいいですのにねぇ」
ずっと思ってきたことだった。この町にはまだ人の住める部分がある。ならばもっと外の人を入れてもいいのではないだろか。
以前、自宅の窓から見かけた少年。あの人はもしかしたら『猫』の一員だったのではないだろうか。『猫』というだけあって、屋根から屋根へと移動していたのかもしれない。人間にそんな芸当できるはずもないけれど。ただ、あの少年が持つ金の色の髪は、比乃芽の印象に強く残っていた。
みんなが平和に暮らせる世界が作れたら――
しかし比乃芽が言った瞬間、友人たちの目が勢いよく比乃芽に向いた。
「何仰ってらっしゃるの!? 比乃芽さん!!」
「そうよそうよ!! 外の人たちを入れるだなんて恐ろしい……」
「どんな病気を持っているか分かったものじゃありませんわ!!」
教室にいた級友たちも、その騒ぎになんだなんだと目を向けてくる。比乃芽はなんでもないと手を振った。
こほんと舞花が咳払いをする。
「とにかく、滅多なことを言うものではありませんわ。比乃芽さんはもっとご自分の立場を理解なさるべきよ」
友人たちもうんうんと頷く。
そういうものなのだろうか、と比乃芽は首を傾げるしかなかった。
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