3 誕生パーティの夜
「朝日屋さん」
声に比乃芽は振り返った。
「学園長。ごきげんよう」
「ごきげんよう、朝日屋さん。お父様はお元気ですか?」
比乃芽は微笑む。学園長と比乃芽の父は、古い友人だという。時折こうして近況を聞かれることがあった。
「もうすぐパーティが開かれるそうですね。僕もお誘いいただきました」
その言葉に比乃芽は表情を曇らせた。学園長は彼女の心境を悟ったのだろう。気遣わしげな視線を向けてくる。
「ままならないものですな。僕としても、君のように優秀な生徒が上級学校に進まないのは、非常に惜しい」
そう言って学園長は窓の外に目をやった。
システムで完全に制御された空は、今日も青く晴れ渡っている。突き抜けるような青空だが、これは偽物だ。シティを覆うドームの屋根に映し出された紛い物である。どこまでも飛んでいけそうな青空なのに。
いつかは飛べると思っていた時期は、とうの昔に過ぎ去った。
「私は朝日屋の一人娘ですから」
比乃芽は学園長に笑いかけた。
生まれた時から決められていた道だ。朝日屋の家に生まれた以上、家のために生きる他ない。自分の夢など持ってはいけない。
「そう、ですね」
学園長を見やると、彼もどこか寂しげな目をしていた。比乃芽の事情を分かっているのだろう。彼女の頭脳を持ってすれば、プリンシパル・シティの将来にきっと役立つ。だが生まれ落ちた家がそれを許さない。比乃芽は諦める選択しかないのだ。
まっさらな空に、雲がゆっくりと流れていった。
*
誕生パーティーの夜がやってきた。
やや身体のラインに沿ったワインレッドのドレスは、比乃芽をいつも以上に大人っぽく見せている。オフショルダーのドレスでなんだか心許ないが、胸元に付けられた繊細なレースの薔薇には心踊らされる。髪もアップにしていてこのまま外に出るには少し寒いかもしれないが、室内だから大丈夫だろう。
主役は比乃芽のはずだが、政界の要人達が多く来訪していて、人だかりはむしろ周蔵のまわりの方が多かった。
それでもその息子たちが比乃芽のまわりを取り囲んでいることには変わりなかった。市長の娘に取り入ろうとする下心が見え隠れして、比乃芽は気がひける。
貼りつけられたような笑顔に囲まれて、息が詰まりそうだ。
「ちょっと失礼します」
バルコニーに出て、比乃芽はようやく一息つけた。自分が主役なのは分かってはいるが、どうにも心が追いつかない。
このまま父親の言うとおりに、結婚しなければいけないのだろうか。やりたいことも言い出せず、親が敷いたレールの上を進んでいってもいいのだろうか。
こんな日常、抜け出せたら――
ふと星空を見上げようとしたときだった。
バルコニーの上の階から足がぶら下がっていた。その足の持ち主は下の階――比乃芽の下に飛び降りてきて、顔を上げた。フードがするっと落ちて、金の髪が覗く。
比乃芽はひゅっと息を吸い込んだ。そして続くはずだった悲鳴は、喉から漏れることはなかった。
その人影は、いつの間にだろう。比乃芽の背後に回っていて、比乃芽の口を押さえていた。室内の光の届かないところへ引き摺られる。
「……大声を出さないか?」
その声は少年のものだった。がっしりとした体つきで比乃芽より頭ひとつ大きいが、声からは同い年くらいに思える。
比乃芽はこくこくと頷いた。
その手がゆっくりと離れた。少年はフードを被り直す。
「俺のことは誰にも言うなよ? 言ったときは」
少年は親指を立てると、首元でピッと一線を引いた。
比乃芽は思い出していた。友人の舞花が話していたことを。プリンシパル・シティに潜り込み、悪事を働く集団。
比乃芽は少年の胸元を掴んでいた。
「お願い! 私を盗んで!」
「なんで俺が……」
「あなた、『猫』なんでしょう? 人ひとりも盗めないの?」
挑発するかのような物言いに、少年の眉がぴくりと上がる。
「お前を盗んで俺になんのメリットがあんだよ」
「このシティの重要機密を握ってるわ。あなたたち、それが欲しいんでしょう?」
少年は眉間にしわを寄せて考え込む。
予定になかった事態だ。勝手なことをして、と仲間に怒られるかもしれない。だがシティの情報は喉から手が出るほど欲しかった。
少年は一歩踏み出す。
「勝手なマネすんなよ?」
そう言って比乃芽を担ぎ上げた。
「ちょっと!」
荷物のように抱えられて、比乃芽は抗議の声を上げる。
「うるせぇ。舌噛んで死にたくなかったら黙ってろ」
そう言われて口を噤む。
少年は比乃芽を抱えたまま、手すりに足を掛け軽い動作で屋根に上がった。重力を感じさせない動きで家から家へと飛んでいく。
比乃芽は彼に抱えられて、前が見えない。遠ざかっていく家を見ていた。
「ばいばい」
そうして人知れず『朝日屋比乃芽』が消えた。
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