5 ヒメ

 辿り着いた場所は、朽ち掛けたビルだった。

 プリンシパル・シティができる前、この辺りは多くの企業のオフィスが並ぶビジネス街だった。ドームができてから、そのまま打ち捨てられてしまったのだ。栄えていた頃には多くの企業が入っていただろうビルは、今はもう見る影もない。

 それでも廃墟とまでになっていないのは、ここに住まう者がいるからだ。

「ペルシャー? 入るぞ」

 打ち捨てられたビルは、今では『猫』のアジトとなっていた。ノックもぞんざいにシャムはドアを開ける。

 と同時にナイフが飛んできた。シャムはさっと避けてそのナイフは彼の頭上、樫のドアに突き刺さった。比乃芽だけがひっと声を上げる。

「ちゃんとノックしろといつも言っとるだろうが」

 そこにいたのは大柄な男だった。髪には白髪が混じり、立派なひげを蓄えてはいるが、古びたソファにどっかりと座る様は貫禄があった。

「ちゃんとしたじゃねぇか。もう耳聞こえなくなっちまったのか?」

 シャムは突き刺さったナイフを引き抜くと、軽い調子でペルシャに投げ返した。ペルシャは難なくそれをキャッチする。

「やかましい! この青二才が!」

 彼はそう叫ぶとのそりと立ち上がった。そうして比乃芽を上から下まで眺める。比乃芽は蛇に睨まれた蛙のように体を硬直させた。ペルシャはにっと笑う。

「朝日屋の娘を連れてきたか」

 眉を上げたのはシャムだ。比乃芽はぎくりと顔を強張らせた。

「この子を知っているのか?」

「知ってるもなにも。市長の娘だぞ」

「な、んだってぇ……!?」

「おや、知らんで連れてきたのか。お前も随分大胆なことをするようになったなぁ。女を攫ってくるなんて。クソガキからガキに昇格してやろう」

 ペルシャはがっはっはと笑った。

 シャムはくらりと眩暈がした。まさかこの子がプリズン・シティ市長の娘だったなんて。それを知っていたらここに連れてこなかった。

「ま、連れてきちまったモンは仕方がない。よろしくな、朝日屋の嬢ちゃん」

 そう言ってペルシャは比乃芽に右手を差し出した。

「あ、よろし……」

「俺は認めないからな」

 遮ったのはシャムの鋭い声だった。

 比乃芽がシャムに視線を向けると、彼はフードの奥で冷ややかな目をしていた。

「認めないもなにも、お前が連れてきたんだろが」

 チッと舌打ちしてから、シャムは壁をダンッと殴った。朽ちかけたコンクリート壁の破片がぱらぱらと落ちる。

「勝手にしろ」

 それだけ呟いて、シャムは部屋を出て行ってしまった。手荒く閉められたドアを、比乃芽は見つめる。

「まったく……。仕方のないやつじゃなあいつは……」

「あの……」

「ん?」

「私は、ここに置いてもらってもいいんでしょうか?」

 比乃芽は小さくなってしまっていた。

 勢いで連れてきてもらったが、今さらになってとんでもないことをしでかしてしまったという気になってきた。『猫』と市長はいわば天敵同士。その市長の娘が敵対勢力に加わるなど、前代未聞だ。

 それでも、もう戻るつもりはないのだけれど。

 ペルシャはかっかと笑う。

「お嬢ちゃんが決めたんだろう? 決めたんなら迷いなさんな」

 そう言ってポンと比乃芽の背中を叩いた。それでも比乃芽は、沈む心を引き上げることはできなかった。

 そこに軽やかなノックの音が響く。顔を覗かせたのは、先程シャムと話していた変な服の少年だった。

「シャムどうしたの?すごい形相してたけど」

「あいつの頭が固いんじゃ」

 その言葉だけで全てを察したようだ。少年は仕方ないなぁとため息をつく。

 ペルシャが比乃芽に向き直った。

「改めて自己紹介だ。わしはペルシャ。この『猫』を率いておる。こっちはロシアンブルー。わしの左腕だ」

「初めまして、左腕です」

 おどけたその言い方に、比乃芽はくすっと笑ってしまった。

「私は比乃芽。よろしくね」

「よろしくヒノメちゃん。長いから俺のことはロシって呼んで。みんなそう呼んでる」

 穏やかな空気が場に流れる。比乃芽はちらりとドアの方に視線をやった。

「あの……シャムは?」

「あいつ? あいつは一応わしの右腕なんじゃがな、如何せん、かっとなりやすい正確でなぁ。少々手を焼いとる。腕はロシと互角なんじゃがなぁ……」

「ペルシャは変なとこで甘いんだよ」

「なんじゃロシ、もっと厳しくして良かったか?」

「冗談!」

 そう言って二人は楽しそうに笑う。二人の掛け合いを、比乃芽は眩しそうに見つめていた。

「いいなぁ……」

 ぽつりと呟いた言葉に、二人は比乃芽に視線を向けた。

「何がだ? 嬢ちゃん」

「いや、あの……えっと……」

 口に出していたことに気付いていなかった比乃芽は、飛び上がって首を振る。

 ペルシャは答えを待っている。誤魔化しようがなく、観念した比乃芽は渋々口を開いた。

「皆さんに名前がないのは分かったんですけど、私も『猫』としての名前がほしいなぁって。もちろん名前をもらえなかったことの意味は分かっていますよ!? だけど、私はもうあの場所に戻るつもりはないから……。『朝日屋比乃芽』は消えたから」

 比乃芽は手をもじもじさせながらぽつりぽつりと言う。図々しい願いかもしれない。ペルシャの優しさに甘えているのは分かる。

 だけど、新しく生きていくなら、ここがいいと思った。

「そうじゃなぁ……。元の名もいいと思うがなぁ」

 プリンシパル・シティでは家柄を重んじられていた。家に恥じないように、気品良く見られるように。周囲も同じようだったから、こんな風に心を許して笑い合える友達などいなかった。身を案じてくれる人がいるにはいたが、ロシたちとはまた違う気がする。心の底から信頼し合える仲間というものに、比乃芽は憧れた。

 ペルシャはふむ、と顎に手を添える。

「朝日屋比乃芽……比乃芽……ひのめ……」

 そしてパチンと指を鳴らす。

「『ヒメ』だ! 『ヒメ』はどうだ?」

 比乃芽の乃を取って、ヒメ。朝日屋比乃芽はヒメとして生まれ変わった。

 ヒメの表情が明るくなる。

「ありがとうございます!」

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