16 彼女の想い

 一夜明けて、ヒメはようやく共同墓地へ行く決心が付いた。それでもひとりでは行く勇気がなくて、シャムについてきてもらった。

 手を合わせるヒメの後ろで、シャムはただ黙ってそれを見守っていた。

 その日の晩、雨が降り出した。雨季に入ったのだ。

 雨季は二ヶ月あまり続く。その間雨がやまないことはないが、からりと晴れることもない。ただでさえマンチカンのことで気分が沈んでいるのに、追い討ちをかけるようだった。


   *


「ヒメ」

 洗濯物を抱えるヒメに声をかけてきたのはバーミーズだった。

 シャルトリューの一件から、バーミーズとは接点がなかった。ヒメはなにを話したらいいか分からなかったし、明らかに彼女はヒメを避けていたのだ。

 彼女は笑みを浮かべている。ほとんど交流がなかったはずなのに、その笑顔にヒメは警戒してしまう。バーミーズはヒメのことを嫌っていたはずだ。

「そんな警戒しないでよ。ちょっとお話しましょ?」

 そう言われては断ることができない。「ほら早く」と急かすバーミーズに連れられて、ヒメは三階の広間へ向かった。

 晴れた日は屋上に洗濯物を干すのだが、雨季はそうはいかない。このただっ広い広間を使うことになっている。天井に張られた紐に、ヒメは一つ一つ洗濯物を干していった。

 話をしようと言ったバーミーズは、そんなヒメをただ窓枠に座って黙って見ていた。手伝ってくれるわけでもなく、薄笑いでヒメの動きを見守っている。

「バーミーズ、話って……?」

 最後の一枚を干して、ヒメはタオルの陰から顔を覗かせた。バーミーズは相変わらず頬杖をついて薄ら笑いを浮かべている。

「シャムと、何かあった?」

 予想はしていたが、その名前にどきりとする。彼女との間に、その名前はタブーのはずだ。

「なにか、っていうほどじゃないけど……」

 親密になったわけではない。だけどあの晩、確かに二人の関係は変わった。

 尻すぼみになるヒメの言葉に、バーミーズは俯いた。やがてその肩が震えだす。

「バーミーズ……?」

「そうね……そうよね。シャムだって傷の舐め合いをするより、プリズン・シティの子の方がいいわよね」

「そんなことは……」

 否定しようとするヒメを遮るように、バーミーズは勢いよく立ち上がった。

「知らないだろうから教えてあげる。別にあんたじゃなくても良かったのよ。シャムの体には半分プリズン・シティの人の血が入ってる。だから、あんたじゃなくてシティの他のやつでも代わりになったんだから」

 投げられた言葉にヒメの頭は固まった。自分じゃなくても良かったというところではない。

 シャムの体に半分プリンシパル・シティの血が入っている? 彼はシティの人だった? どうしてここに?

 ヒメの頭に一瞬でたくさんの疑問符が浮かぶ。バーミーズの罵る言葉も耳に入ってこない。

「シャムが……シティの人……?」

 ようやく発せた声に、バーミーズは口を噤んだ。しかしすぐにそれは歪む。

「そうよ。知らなかったでしょ? 生まれてすぐにこの町に捨てられたらしいんだけどね。だから……あんたなんか……」

 バーミーズの言葉が切れ切れになる。

 その理論が通っていないことは、彼女自身も分かっているのだろう。生まれがどうであろうと、この場所で過ごした時間が全てだ。物心ついてさえいないときのことは関係ない。

 それでも、ヒメを許せなかった。

「なんで……アンタなのよ……」

 バーミーズの苦しそうな声に、ヒメは立ち尽くしていた。彼女はギリギリのところで泣こうとしない。『猫』のメンバーはみんなそうなのだろう。泣いてもどうにもならない環境で生きてきた。誰が助けてくれるわけでもない。自分だけでどうするしかない環境だったのだ。這いずるように生きることを強いられてきた。

 それでも『猫』に拾われただけでもまだましだろう。同じような境遇の者たちが、肩を寄せ合うようにして暮らしてきた。その中でバーミーズの心に芽生えた気持ちを、誰に理解してもらうでもない。いつか届けばいいと思っていた想いを、ぽっと出のヒメにあっさりと奪われたのだ。

 ヒメのせいではないことは、頭の中では分かっている。だけどどうしようもなかった。

「あたしだってずっとシャムのこと好きだったのに! あいつががんばってるところをずっと応援してきた! それなのに……後から出てきたあんたがなんで選ばれるのよ……!」

 ヒメは心臓を抉られるような思いだった。バーミーズの想いは本物だ。邪魔者は後から出てきたの自分の方だろう。彼女の気持ちを考えたら、なにも言うことができなかった。

 潤んだ目でバーミーズはヒメをきっと睨みつけた。涙を零さないことは、彼女の最後の矜持だ。

「絶対に認めないから」

 言葉を見つけられないヒメを置いて、バーミーズは去っていった。


   *


 その夜。ヒメはKITTY's Barのカウンターでひとりグラスを傾けていた。珍しくヒメ以外には客がいない。ウーロン茶に溶けかけた氷がカランと音を立てる。

「ねぇマダム・キティ。私、やっぱりここに来ない方が良かったのかなぁ?」

 誰もいないことを幸いに、ヒメはカウンターにもたれかかる。マナーに煩いマダム・キティだが、この日ばかりはなにも言わなかった。

 バーミーズにぶつけられた言葉は、ヒメの心に堪えていた。鋭い瞳が脳裏に浮かぶ。

 ヒメも自分の気持ちには薄々気がついていた。シャムがどこにいるかつい探してしまい、声を聞けば胸が高鳴る。これが恋というものか、と自分の変化に戸惑いさえ覚えていた。

 しかしバーミーズの気持ちを思うと気分が塞ぐ。彼女は長い時間をここでシャムと共に過ごしてきた。当然、ヒメよりもバーミーズの方がシャムの信頼も厚いだろう。気心の知れている仲間だ。

 考えることは多い。シャムの過去。バーミーズの想い。そして自分の行く先。

 考えても答えは浮かばない。気づけばマダム・キティのところに来てしまっていた。だが口について出た言葉は、そんなものだった。

「誰かにそう言われたのかい?」

「そうじゃないけど……」

 バーミーズの件だけではない。

 シャムはいまだに『ヒメ』と呼んでくれない。おい、とかお前、とか、たまに比乃芽とか。

『猫』のみんなに本名がないことは知っている。だけど自分も『朝日屋比乃芽』の名は捨てたのだ。『ヒメ』と呼んでくれないことが、比乃芽を仲間と認めてくれない気がして、どうしようもなく悲しかった。

「なら堂々としてりゃあいいんだ。どうせここの連中は方々から集まったやつばかりだ」

 ヒメは身を起こした。マダム・キティはヒメの方を見もせず、ただグラスを拭き続けている。突き放すような優しさが、今は心地いい。

 ヒメは静かに笑みを浮かべた。

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