14 初めての別れ
それからしばらく経ったが、ヒメはバイクに乗ることは叶わなかった。マンチカンの体調が悪化したのだ。
アジトの一室で横たわるマンチカンを看病するのが、最近のヒメの日課になっていた。
「調子はどう?」
ヒメは粥を盆に乗せ、マンチカンの部屋に顔を覗かせた。身を起こして本を読んでいるマンチカンに、ヒメは表情を変えた。
「安静にしてなきゃダメって言ったのに!」
「ごめんごめん。でもこう寝っぱなしだと治るモンも治んねぇよ」
ヒメは頬を膨らませながら、盆をサイドテーブルに置いた。
「なにを読んでたの?」
「ん?」
マンチカンはヒメに向かって本を広げた。
「うっわぁ……」
そこに描かれていたのは、青一色の風景だった。
「これ、海?」
「そう。前時代の、まだ青い海だった頃の写真だね」
環境破壊の進んだ世界は、とうの昔に青い海さえもなくなってしまった。黒く濁った海に、かつての透き通る海を思い浮かべる者などいないだろう。
「こうして見ると、こんな美しい風景があったなんて信じられないわね」
「ヒメさんは海見たことあるの?」
「ううん、シティには海なんてなかったから。本で見たことがあるくらいね」
そう言って二人して本に視線を落とした。
そこに写された風景を見ていると、この前マンチカンと見た空が思い出された。
「昔の海は透き通ってたから、空の色が映ってたんだね」
「あら違うわよ、マンチカン。空の光を反射してるんじゃなくて、光の屈折でそう見えるのよ」
ヒメの言葉にマンチカンは首を傾げた。プリンシパル・シティで最高の教育を受けてきたヒメと違い、ここには字を書ける者も少ない。簡潔に説明したつもりだったが、マンチカンはいまいちピンときていないようだ。
「なんかよく分かんねーけど、ヒメさん頭いいんだな」
今度はヒメが黙り込む番だった。
「……頭だけ良くても、ここじゃなんの役にも立たないんだけどね」
マンチカンが気遣わしげにヒメへと視線を向けた。ヒメは苦笑いでそれを受け流す。
「これでも私、学校では成績優秀者で通ってたのよ? まぁ、将来の役に立てられたかというと、微妙なとこだけどね……」
ヒメは市長の娘だ。卒業したら次期市長候補の男と結婚する運命だったのだろう。ヒメの意思など関係ない。市長の娘であろうと女のヒメが市長になれるわけもなく、自身の夢を叶えるなどそれこそ夢物語だった。
「でもさ、ヒメさんのその優しさだって、今まで積み上げてきたものの結果だろ? ここのやつらってそういう優しさを知らずに生きてきたやつばっかだからさ。役に立ってんじゃん」
笑顔を向けるマンチカンに、ヒメはただ目を見開いた。
そういう考え方があるとは思わなかった。優しい友人たちに囲まれて生きてきたのは、ヒメの生まれ持った環境のおかげだ。自分の努力のおかげではないけれど、それがここの人たちの役に立っている。
「マンチカンは、人を励ますのが上手ね」
優しいのはマンチカンの方だ。こんな優しい人が死ぬなんて間違っている。
日に日に体調が悪化していく彼を見ながら、ヒメは祈るようにそう思っていた。
*
しかしヒメの祈りも空しく、マンチカンの具合はどんどん悪くなっていた。
その日は風の強い日だった。強風に煽られて、窓がカタカタ揺れる。勢いよく雲が流れる空を、ヒメは不安げに見上げていた。
「ヒメ姉!」
「ヒメちゃん!」
アメショーとスコの声に、ヒメははっとした。廊下の先から二人は駆けてくる。
「ヒメ姉早く! マンチカンが……」
その言葉にヒメは一も二もなく走り出した。
マンチカンの部屋にはシャムとロシが先に来ていた。マンチカンを見下ろして、悲痛な表情を浮かべている。
「マンチカン……」
ヒメが部屋に入ってくると、二人は彼女のために場所を開けてくれた。
「ヒメ、さん……?」
マンチカンがうっすらと瞳を開ける。その声は小さく掠れていた。
「ははっ……。情けねぇや……。ヒメさんにこんな、姿を見せる羽目になるなんてな……」
「なに言ってるのよ……! マンチカンにはまだやることがあるでしょ!? まだバイクの乗り方も教えてもらってないし、あなたの仕事はどうするの……? マンチカンはすぐ元気になるんだから……」
涙混じりのその言葉が、現実のものにならないことはこの場のみんなが気づいている。それでも、誰もヒメを否定することなどできなかった。
「ヒメさん、みんなのこと頼むよ……。こんな環境で育ってきたやつばっかだからさ、素直になれないんだ。ヒメさんが来たことでみんな救われたんだよ。ヒメさんがいれば、『猫』はきっと大丈夫だ」
「そんなこと言わないでよ……! みんなどれだけマンチカンの笑顔に励まされてきたと思ってるの!? 私が代わりになれるはずないでしょ……」
ヒメはマンチカンの手を取ってそう叫んだ。涙交じりのその声に、マンチカンは力なく笑う。
「俺、人を見る目は確かなんだよ。ヒメさんなら大丈夫、みんなの希望になれる」
マンチカンは一言喋るだけでも苦しそうだ。
勢いよくドアが開いた。
「ペルシャ! ペルシャ遅いよ! マンチカンが……!」
涙目で大声を上げるスコには目もくれず、ペルシャはマンチカンが横たわるベッドへずかずかと足を進める。
「ペル……シャ……?」
マンチカンが急に咳き込んだ。押さえた手には血がべっとりとついていた。
「悪い……限界、みたいだ……」
その瞳からポロポロと涙が零れた。
「死にたくねぇなぁ……! なぁペルシャ、どうせ死ぬなら、なんで俺らは生まれてきたんだろうな……」
その問いにペルシャは答えない。答える術を持っていない。
「お前の意志は、わしらがちゃんと継ぐ」
静かにそう言うと、やっとマンチカンは笑った。
「頼んだ、よ……」
そうしてマンチカンは眠るように息絶えた。
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