第35話 青嵐、そして恵風 7

 同日、午後遅く。

 夏季休業中ということで、工科資料室は比較的空いている。上級生や教授達は研究室の方に分散しているようだった。勢いを失った日中の日差しがそれでも強い西日となり、灰色の壁に斜めに差し込んでいる。

 うまい具合だ、と柳は思った。これなら誰にも邪魔されず、資料もゆっくりコピーできるし、パソコンも自由に使える。

 日の当たる席を避け、スチール棚の向こうに回ると、最近見慣れた端正な横顔が見えた。樹が資料室の一番奥にあるパソコンのディスプレイを睨みつけている。

「あれっ⁉︎ お前まだいたん? 昼メシ前に帰るって言ってなかった……って、なにこわい顔してんねん。どうしてんな」

「……うるさい」

「お、おい! ちょっと清水! お前、ほんまに目がすげぇぞ。本気で何かあったんか?」

「……別に?」

「別にって顔かよ? それが」

「黙れよ……」

「黙れとゆうなら、もう聞かんけどな。そのツラは凶器やで」

「……」

 樹はもう柳に答えず、ものすごいスピードでキーボードを叩きはじめた。手元を一度も見ることなく、時々、ウインドウの順番を入れ替えて文章を暗記し、また作業ウインドウに戻ることを繰り返している。柳は感心しながら眺めていたが、やがて隣に腰を下ろすとパソコンを起動し、自分の作業に取り掛かった。

 しばらくの間、二人とも押し黙って作業していたが、やがて柳の好奇心の虫が頭をもたげてくる。

「お前なにやってん? それはもしかして課題のドイツ語翻訳論文……うわー、むっちゃ進んどるやん!」

 柳は隣のディスプレイを覗きこんで言った

「あれ? ちょっと見るに工科系の論文やないんか。microbiologyってなんや? ……って、微生物学⁉︎ 何でまたそんなもん」

 柳は検索画面を見て頓狂な声をあげた。

「先生は理系の論文ならなんでもいいって言ってたろ」

「お、やっと口を利いてくれたな。そらまぁ、そうやけど」

「何でもいいんだ。こんなもん。ただ訳して自分の考察を付け加えるだけだ」

 本心からどうでもよさそうに樹は再びパソコンに向かった。キーボードを叩く手は少しも止まらない。

「そんな投げやりな。けど、お前早いな~打つの。英語得意なんか?」

「昔、親父に叩き込まれた」

「へえ~、さいですか。立派なおとんやなぁ」

 樹が自分のことを話すのは珍しい、と柳は思った。

 その時、勢いよくドアが開けられ、賑やかな足音がこちらへ向かってきた。工学部新入生一の美人、三田村詩織だ。

「失礼しまぁ〜す。あれぇ? 清水君! と、えっとぉ〜」

「柳です」

「あ、柳君。ごめんごめん、顔はよく知ってたんだけど」

 詩織はちっとも悪びれずに、愛想良く笑った。

「夏休みの午後だって言うのに、真面目ねえ。課題のレポート?」

「そう。三田村さんはなにしてんの?」

 柳は愛想よく答える。

「私? 今までテニスサークルで大暴れしてた。たっぷり汗かいちゃった。今シャワー浴びて着替えてきたところ……ねぇ、もう帰らない? 日も暮れかかっているし、友だちとご飯食べに行こうっていってたところなの~。清水君、一緒にどぉ? もちろん柳くんも。女子が余ってんの」

「ああ、いいよ」

 柳が大いにたまげたことに樹は軽くうなずき、作業の保存処理をし始めた。

「お、おい、清水、ええんか?」

「朝から何も食ってなかったからな」

 そういいながら樹は自分のメモリを取り出した。さらに問いかけてくるような柳の視線を軽くかわし、荷物をまとめ始める。

「うわやった〜! 清水君を初めて誘えた! うれしい。さ、柳君も行こうよ」

「あ……ハイ」

 支度をしながら、どう考えても不自然だ、と柳は思った。

 柳も女子と食事に行きたいと言う気持ちがあるのも確かだが、いつにない言動が目立つ樹のことが、少し心配になってきたのだ。

 工学部棟の外には同じ学年の女子が三人待っていて、三田村が男子二人を連れてくると嬉しそうに迎えた。

「わぁ、清水君だ~」

「私、口きくの初めて〜」

「お腹空いたね、早く行こう」

 女の子達は盛んにおしゃべりで盛り上がるが、樹はほとんど相槌だけでそっけなく、気を使った柳が、仕方なく関西弁で愛想よく応対する。のんびりした話し方に女の子達も好感を抱いて、まずまずよい雰囲気の中、駅の裏にあるという、創作料理の店に着いた。

「あれ? 清水君入んないの?」

 三田村が正面に立ち尽くしている樹に声をかけた。

「ここ、前に来たことがある。様子はかなり違うけど」

 小洒落た店の外観を眺めながら樹がつぶやいた。

「ああ。前は確かいイタリア料理の店だったかな? よく知っているわねぇ」

「おい、入ろうぜ。腹へったわ」

 柳が促し、一同は店内に入っていった。


 柳が観察していると、やはり明らかに樹はいつもと様子が違って見えた。席についてからも落ち着かないようで店内を見渡している。

 店は趣味よくシンプルに内装されていて、女性向にしつらえてある。六時を過ぎ、店はそろそろ混みはじめていて、若いカップルやグループで七割がた席が埋まっていた。

「お前、飲み物は?」

 柳が肘でつつくと、樹ははっとしたように柳を見た。

「ぺリエ」

「ぺりえって? なんや、ただの水やないか。こんなんでええんか?」

「それとも本当はお酒がいいとか?」

 樹の横に座った三田村がメニューを差し出す。

「……」

「そらあかん、ここにおるもんはだいたい未成年やろ?」

「柳君、お堅い系~。でもま、ここは真面目しておこう。まだ早い時間だし」

「って普段は飲んでいるんかいな~。三田村さん」

「ふふふ、実は私、もう二十歳超えてるわよ。清水君は? 少しぐらい飲まない? 辛口系みたいだし」

 三田村は樹を会話に引き込もうとしてくれたが、樹は首を振っただけだった。

「ひょっとしてお前、飲めるん? 酒」

「飲まない」

 自分が何を言っているのかにも無関心で、樹は店の奥のテーブルについているカップルを睨みつけている。

「さ、さぁ、みんな好きな食べモンゆうてやぁ~」

「はーい!」

「じゃあ私、若鶏のハーブ焼き! 水菜とサーモンのサラダにぃ」

「パクチーみんないける? 私だめ」

 女性軍が我先に無国籍な料理をウエイターに告げていく。柳には見当もつかないような名前の料理も多く、下宿生たる彼は密かに懐具合を心配したが、メニューを見ると以外にも値段はリーズナブルで、学生風の若者が多く集うのもうなずけた。

「お前は何たのむ? 清水」

「いい」

 樹は相変わらず、視線をさまよわせていた。

 ——コイツ、絶対あの彼女となんかあったな。さては喧嘩したか。千円賭けたってええ、間違いあらへんわ。

「あ、飲みモンきたで、ほな乾杯しよか~」

 柳はすっかり諦めてその場の盛り上げ役に徹した。

「はーい。あ、清水君、グラスどうぞ〜」

 詩織は甲斐甲斐しく、ペリエの緑のビンから樹のグラスに注いでやった。

「ほな、かんぱーい!」

 料理も次々に運ばれ、女の子達も若者らしく旺盛な食欲で手を伸ばす。柳も腹が減っていたので喜んで取り皿をいっぱいにした。料理は値段の割りには盛り付け方も美しくて美味しかった。

「おいしいね~」

「この粒マスタードすっごく効くよ~」

「清水君、はい、これどうぞ」

 樹のテーブルの前には、いつの間にか女の子がよそってくれた取り皿が3~4枚も並んでいた。

「清水君、あんまり食べてないね〜」

「あ、ホントだ。口に合わない?」

 他の女子の言葉に詩織も声をかける。

 それはその通りで、朝から何も食べていないといった割りに、樹はグラスから水を飲むばかりで、料理にはほとんど手をつけていなかった。

「あ、いや。別に? 食べるよ」

 そのまま会話は無難な方に進んでいく。大方は夏休みに何をするとか、自分の課題のことだった。柳はあまり女子への免疫はなかったが、気さくで話し上手なのでいつの間にか仕切り役になっている。しかし、どんな話題を降っても樹はあまり乗ってこなかった。それどころか、どんどん雰囲気が苦しそうになっていくのだ。

「おい清水、お前ほんまに大丈夫か? さっきから絶対変やぞ。あのコになんかあったんと違う? それなら無理せんでええぞ。ここは俺が……」

 味気なさそうに料理を咀嚼する樹に、柳が女子に聞こえないようにささやく。

 まるでそれが合図だったかのように、樹はいきなりさっと立ち上がった。視線の向こうでは、例の二人連れが腕を組んで店を出ていくところだった。

「キャ! なぁに?」

「おい! 清水、おい! どうしてん」

「ごめん、柳。俺ちょっと用事を思い出した。すまんが、ここ払っといてくれ、後で返す!」

 そう言い放つと返事も聞かず、樹は店を飛び出していった。後には呆然と柳と女の子が取り残される。

「なんやねんあいつ」

「どうしたのかな? 清水君、今日は調子が悪かったの?」

「そうやねん。ちょっと暑気あたりしたかもって、言うとったの忘れとったわ。みんな気ぃ悪せんといてな。俺なんかが相手でごめんやけど、おもろい話いっぱい知ってるるから、許して」

 柳はなんとかその場をとりなしながら、樹が出て行ったドアの方を見つめていた。

——清水〜何があったか知らんけど、とりあえず頑張りやぁ。


 店を飛び出した樹は、駅に向かって走った。

 さっきから小川の言葉が耳を離れないのだ。

『逢い引きすっぽかされたぐらいで、ネチネチ文句言ってんじゃねーよ! ちっせぇ男だな』

 小川の言葉を聞いた途端、頭が煮えた。煮えくり返った。唯一の連絡手段である携帯すら、衝動的に捨ててしまった。だから風花との連絡手段は今はない。

 人通りをかわしながら無我夢中で数ブロック走り続け、商店街の外れの交差点でやっと立ち止まる。土曜の夜で繁華街は混雑し、もう全力疾走は不可能だった。

「ハッ……ハァッ!」

 息が上がり、街灯にどさりと背をあずける。

 ——俺は何をしているんだ!

 膝に両手をつき、肩で息をついていると、汗が顎を伝ってアスファルトに滴り落ちた。シャツも、細身のボトムも汗で体に張り付いている。

 『樹君……』

 電波越しの風花の声は震えていた。きっと駄々っ子のような樹に悲しみ、呆れていたのだろう。なのに自分はみっともない態度を取ってしまった。病院に会いに行くという思いをやんわり拒絶されてしまったからだ。風花のことだから、あれから何度も自分に連絡をしただろう。樹の携帯と、おそらく自宅にも。

 ——全て八つ当たりだ。こんな無様な自分は初めてだ。

「全くガキじゃないか!」

 樹は声に出して自分を罵った。

 さっきの店は偶然、初めて風花と二人で出かけた折に入ったレストランだった。あれは植物園に行った日のことだ。オーナーが変わったのか、外観も内装も店の種類も異なっていたが樹はすぐに思い出せた。

 樹が座っていた席の、ちょうど正面の奥の席に二人で腰掛け、食事をしたのだ。今日は仲睦まじ様子の二人連れが座っていた。


『あ~、これおいしい! 私、ニョッキって初めて食べたよ。もちもちして不思議な食感~』

『そお?』

『清水君のは何?』

『ペンネのアラビアータ』

『わ、それもおいしそう。ちょびっと貰っていい?』

『ちょっと辛いけど大丈夫?』

『本当だ。でもおいし~、これならつくれそうかな?』


 まだ寒い時期だった。あの帰り道、人の少なくなった川べりで、小さな温かい体を抱きしめた。

 ——風花……ごめん、風花。俺の方がどんなにか子供だった……。

 将来のことも何も決めていないくせに、老成したつもりになっていた、身の程知らずの生意気な子ども。それが本当の自分の姿。残酷な現実だ。

 たまらなくなった樹はふらふらと駅の方向に歩きだした。走って汗をかいたせいか少しだけ体が軽くなる。途中で公衆電話を見つけ、風花の携帯にかけてみるが、病院の中で電源を落としているのだろう。何度コールを待っても繋がらない。樹は再び歩き出した。

 このまま病院に行って謝るのが一番良いとはわかっている。しかし、風花が言ったように突発事態でバタバタしているところに、他人の自分が行くのが良いとは思えない。それに、小川に笑われて冷静でいられるか自信がない。

 彼が電話で自分に言ったことはあまりにも正論で、樹はどのツラを下げて彼に会えばいいか、わからなかった。彼は風花に何か行動を起こすかもしれないが、信頼できると言う大人がそばについているなら、風花の身はおそらく大丈夫だろう。

 ——ああ、大笑いだ。俺ってこんなにアタマ悪かったんだな。

 今は頭を冷やした方がいい。樹はまだよくまわらない頭でそう考えた。

 ——そもそも何故、俺はこんなにも風花に囚われているのだろう?

 中学一年の秋の日から六年間も、ずっと。ずっと風花を見てきた。これが恋だと自覚したのは、それから更に一年後。

 気がつくといつもおさげの姿を目で追っていた。

 自分と違って他人と自然に調和し、周囲を和ませるような笑顔や、時おり見せる鋭いひらめきを。

 ゆっくり、しかし確実に育つ想いに自分でも戸惑いながら見つめ続けた。やがて自分の想いをもてあまし、否定さえもした長い日々。ついに二年前の春の日に初めて声をかけ、その半年後に強引に恋人にした。

 自分の手元におくと少しは落ち着けるかと思ったが、平気な顔の裏でどれほど風花が愛しいか隠すのがやっとのありさま。

 ——情けなすぎだろ、俺。

 既に将来を考えている仲間もいるというのに。自分はただ一人、大切な人の気持ちすら思いやれず、子供っぽいわがままをぶつけてしまった。

 暮れゆく陽を追いかけるように駅に向かい、混み始めた構内に身を沈めていると少しは気が紛れるような気がした。

 快速電車もやはり混み合っていた。

 西の山あいに今まさに沈もうとする太陽が、今日最後の光を投げている。真っ暗な山々の稜線が赤く焼けて、それは美しい。この分だと明日も好い天気だろう。ここ十日ほど、雨は降っていない。

 そろそろ一雨欲しいね、と樹の隣に立ったOLが隣のサラリーマンに話しかけている。

 綾野町の駅に着くと、すっかり夜になっていた。星などどこを探しても見えない。樹は家に帰らず、ある場所に向かった。


 その家の門の前に立つと、打ち水のせいか、その家の前だけひんやりとした空気が流れているような気がする。樹は脇の通用門からひっそりとした邸内へと歩を進めた。

 幸いまだ電気が灯っている。暗い庭には笹や松など、あまり世話の要らない庭木が植わっている。その根元にすっかり花の時期の終った紫陽花が、青々とした葉を茂らせていた。夕刻に水が撒かれたのだろう、どの葉にも水滴が付き、玄関灯の光を映してきらめいている。

 踏むと音が鳴る玉砂利に気をつけながら、敷石を伝って玄関にたどり着くとガラガラとわざと音を立てて玄関の引き戸を開ける。

 その音を聞きつけ、ぱたぱたとスリッパの音がした。

「こんばんわ、細川さん。夜分にすみません、おばあさん、まだ起きてる?」

「まぁまぁ、めずらしい。はい、起きてらっしゃいますよ。奥さま〜、樹坊ちゃんですよ」




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