第21話 天つ風 2
《今どこ?》
<特急電車の中。もうすぐU駅>
《じゃあN駅で会える?》
N駅は風花の家の最寄り駅より、各駅停車で三つ手前の駅だ。特急の止まるU駅で乗り換えなくてはならない。
<いいけど、予備校は?>
《今日はさぼり》
<え! もったいない>
《いいの。実力試験は余裕で合格圏内だったから、息抜き》
<んまぁ、あいかわらずですこと>
《会ってくれないの?》
<会います会います。N駅に行けばいいんだね? 駅前に新しくできたお花屋さん知ってる? その前で>
《OK。じゃあ家にも連絡しておいてください、夕飯いらないって。じゃ、あとで》
<はーい>
やり取り終了。
——いっつもイキナリなんだよね。でも、先週はテストで会えなかったし、今週も勉強が忙しくて会えないと思っていたから、なんかとっても……そう、素直に嬉しい! 今日はお気に入りを着てきてよかったぁ。
風花は先月買ったばかりのワンピースをつまんだ。
実習中は汚れても平気な作業着を着ているのだが、芸大の友人たちは個性的なファッションをする人が多く、私服とのギャップが激しい。
無論、風花はそういう意味では自分を崩さないので、周囲に迎合する必要ないと普段通り自分の好きな服を着ている。しかし、ファッションセンスのいい人たちに囲まれていると、いい意味で刺激になる。
という訳で、最近私服のバリエーションが増えた風花なのである。
今日着ているのは、レモン色のワンピースで、季節的には少し早いのだが、大きめの白い格子柄が大変気に入り、風花にしては珍しく即断で買い求めたものだ。上半身は体の線にあって、スカートの部分は程よく広がっている。襟ぐりと背中はスクエアにカットされてて少し大きく開いているが、唯一の装飾品であるチョーカーをすると、ぴったり収まる感じなのだ。
——だけど髪はカットしてずいぶん経つから、少し伸びすぎて重いかなあ。黒いし。
風花は先日初めて化粧品を買った。
今までクリームと日焼け止め以外は使ったことのない風花だったが、母はちゃんとした化粧品は絶対必要だからって力説しながらお金をくれたのだ。
『いい? ふぅちゃん、お店の人の言うことをしっかり聞いて、肌に合う物を選んでもらいなさいね』
そして風花は真奈美に勧められた自然派素材のメーカーで、店員に勧められるまま化粧品を一揃え買った
——でも、化粧水と乳液以外はほとんど使ったことないんだよね。でも、口紅だけはポーチに入れてたんだ。
風花はカバンをごそごそしして、黄色の巾着を取り出し、ま新しい口紅を取り出してみた。キャップを取ってくりくりとまわすと、桜色の口紅が現れた。上品でとても気に入った色なのだが、今まであまり使う機会がなかったものだ。
——でもまさか、電車の中で使うわけにはいかないし、U駅で化粧室に入って塗ってみよう……って、もう私塗ることに決めてるし! でもいいよね? もう大学生なんだし。すこしはきれいになりたいし。
「キレイになったところ見てもらいたいし……」
風花はこっそりつぶやき、母さんにメールを入れた。U駅の化粧室で口紅も塗ってみる。桜色に染まった唇はいつもより、感触がなめらかな感じだ。ついでに、にーっと笑ってみる。
——別に変な感じじゃないと思うんだけど。
各駅停車に乗り換える。そろそろ混んできた車内から逃れるように駅で降りた。N液は比較的大きな駅で、待ち合わせ場所と決めている、花屋の前も人でいっぱいだ。
しかし、樹をを見つけるのは造作ない。たいていの人より、頭半分背が高いからだ。案の定、離れたところからでも風花はすぐに樹を見つける事ができた。
「ああ、目立つ……」
白い半袖シャツにダークな色の細身のパンツ、いつもとほとんど変わらない服装である。樹の服装の趣味はいたってシンプルなのだ。色味のあるものはあまり着ないようにしているらしい。しかし、それが大変印象的で、隣の待ち合わせらしい女の子達がちらちら視線をおくっている。そして、樹はそんな秋波にちっとも気がついていない。
「黙ってれば、相当モテるはずだよねぇ……」
そう呟いたとたん樹は顔を上げ、風花とばっちり目が合ってしまった。
「こ、こんにちは!」
「こんにちは。思ったよりも早かったですね」
上からじっと見下ろしてくるその表情は、やはりよく読み取れない。でも、なんかいつもと違うように風花は感じた?
——あれ? なんかいつもと違うような……思い過ごしかな。
「なぁに?」
「いや……別に。呼び出してすみません」
「私はいいよ。もう今日の予定はないし。清水君こそ大丈夫なの?」
「大丈夫。会いたかっただけ……風花はどっか行きたいところありますか?」
「ん~、じゃあ本屋に行ってもいい?」
人物画の参考になるような書籍があるかもしれないと思ったのだ。
「じゃ、そうしましょうか。俺も見たい本あるし」
「うん!」
「ちょっと、風花……」
先に行こうとした風花を樹が呼び止める。
ひょっとして口紅つけてることに気づいてくれたのかと、風花はいそいそと振り返る。
「はい?」
「ごめん。なんでもないよ」
「ええ〜?」
ほんの少しむくれた風花は唇を尖らせた。
「いや、今日はいつもよりか目が垂れてるなって思って」
「は?」
——なんなんだ、それは。
あんまりな言葉に、風花は文句を言う気もなくしてしまった。
大型書店の芸術関係の書架の前は人が少なく、ゆっくりと画集を広げる事ができる。
ムンク。どの人物画もげっそり痩せて、ぞっとするような眼窩から溢れる情念の
――ダメだ、私にはこんな絵描けない。
風花は重い画集を綴じて書架に戻した。
ヴァン・ゴッホ。「タンギーじいさん」ゴッホの画集には必ず載っている人物画だ。どこにでもいそうな中年男性の絵である。しかしこの小柄なオヤジが普段どんな話し方をして、どんな人付き合いをしていたかまで伝わる迫力。
——すごい絵だ。タッチは私と似てない事もないんだけど……って怒られるなぁ。
「なに見てるんです? ああ、ゴッホ?」
「はわ!」
耳元に低い声が吹き込まれ、風花はやっと我に返った。慌てて画集を書架に戻す。重いので一苦労であるが、樹が手伝ってくれた。
「勉強の本でしょ? 買わないの?」
「う、うん。でももう、いいや。いいです。買うには高すぎるし、重いし。見ただけで十分です〜、清水君は何か買ったの?」
「ええ参考書を。じゃあごはんでも食べる? 少し時間が早いけど」
「そうする!」
ご飯と聞いて風花は急に元気が出てきた。昼を食べたのが早くてそろそろ空腹だったのだ。
「何が食べたい?」
「お腹がいっぱいになるもの! あ、でも今日は私も……」
「ダメ」
「え〜」
樹は割り勘をしない男である。しかし風花はあまり納得していないのだ。
——そりゃ、彼はお金持ちみたいだけど、いつも奢ってもらうのもなんだかなあ……いつかちゃんと伝えなきゃ。
しかし、風花は今は言わないことにした。数日ぶりに会えて嬉しかったからだ。
樹が選んだのは明るい感じの洋食屋で、二人は窓際の席に座ることができた。屋外は明るく、横顔に少し黄色くなってきた光を受けながら食事をする樹を風花はじっくり観察する。人物画の勉強になると思ったのだ。
軽く陰影が付いて、くどくない程度に彫りのある顔立ち。
——眉毛は心持細め。別に整えてはないんだろうけど、すっきりした直線を描いている。やらかい筆がいいかも。指は長く、手の甲は骨ばっている。ナイフの使い方が上品だなあ。それに食べ方もキレイだって、お母さんも言ってたっけ。私も見習わないとなぁ……それにしても……これは描けない。
「なに見つめてるんです?」
ふいに樹が顔を上げる。視線が真正面がらぶつかった。
「俺がいい男だから見とれてたとか?」
「……」
まさか、受験生に人物画のモデルとしてどうかと思って見ていたなんて言えず、風花は焦った。
「いやその……見とれてたって言うか、観察してました。夏休みの課題のテーマが人物画だったんで……参考にしようかと」
「だろうね、ずいぶん難しい顔してたから」
「そ、そお?」
——よかったぁ、でれでれした顔してなくって。
「俺を描きます?」
「いやっ! それはないなって思ってたとこ。難しそうだし」
「俺の顔が変?」
「違う違う! その逆。顔立ちが整った人って私みたいなヘボ絵描きにはかえって描きづらいのです」
「そう? 知ってた? 風花って考え込むと、目がいつもより垂れるんだ。フツウは反対なんだけどね。今日は会ったときからそうだった。なんかずっと考えてるね。俺のことだったの?」
「ぐむ、なんちゅーことを」
しかし、当たらずとも遠からずである。課題の人物画のこと思うと、どうしても樹が頭に浮かんでしまうのを抑えられなかったのだ。
「俺なら風花を描くな」
「え?」
風花は唐突な言葉に目を見張った。
「俺がそんな課題をもらったとしたら風花を描くな、きっと。描きやすそうだから。いっそ自画像にしたら?」
「ちょ、ちょっと、そんな風に言われるの、今日二回目なんですけど?」
「同じこと言った人がいたんだ。男?」
「女の子。友達の真奈美ちゃん。どうせ、がちゃがちゃしてる顔ですよ~だ。自画像がいやだから、画集とか見て参考にしてたのにぃ」
風花は唇を尖らせた。
「がちゃがちゃとは言ってないでしょ? 風花は素直に感情が表に出るから描きやすいかなって思ったんだ。人物画って表面だけ描けばいいもんじゃないんでしょ?」
「おっしゃる通りです」
——専門外なのに、よくわかってるなぁ。
「でも、やっぱり初めての人物画だから、自画像はちょっとイヤかなって思って……ゆっくり考えてみる」
「そうだね」
ふっと目が伏せられる。珍しいことだった。
——あれ? 今日の清水君もなんか少しおかしい。さっきからほとんど笑わないよ? そりゃいっつも無口でブアイソだけど、今日は少し難しい顔してない? いつもだったらもすこし柔らかい感じになるのに。私の思い過ごしかな?
しかしどう訪ねていいかもわからずに、風花は食事を終えた。そのまましばらく二人でショッピングモールを見て回り、家路についた。外に出ると、終わりかけの夕焼けが見事だった。初夏の長い一日もようやく暮れようとしている。
「風花は自転車?」
「うん、そうだけど」
「置いていって大丈夫? 少し歩きたい」
「うん、いいよ」
送ってもらうのはいつものことなのだが、普段なら樹が風花の自転車を押して一緒に歩く。しかし今日はふわりと手が繋がれた。さっきは優雅に銀器を操っていた手だ。少し熱い。
十五分も歩けば風花の家に着く。いつもは風花がよく喋るのだが、今日はなんとなく言葉が続かない。二人で黙って歩く。しかし、風花は困らなかった。
——沈黙を分かち合えるようになれば、その人との距離が近くなったって言うけど、その通りだと思う。二人でいるだけで楽しいんだ。
家の前の道はいつもすこし寂しい気持ちになる。
「風花」
初めて風花を捉えた場所で樹は急に立ち止まる。
強い瞳が風花を捉えた。
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