第20話 天つ風 1
初夏の風はうっすらと緑色をまとっている。
キャンパスの並木道を娘達がさざめきながら過ぎていく。
それは青みを増した柳の枝と、背後の赤煉瓦の校舎が重なる中を通る色鮮やかなパレードのようだ。
その後ろからちょこちょこと歩いていく吉野風花は、今春、このK芸術大学に入学したばかりの新入生である。
楽しみにしていたキャンパスライフは楽しくいけれど、高校生の頃よりずっと忙しいと感じながら夏の課題を持って帰るのだ。
「風花ぁ!」
「あ、まなちゃん。学生課の用事終わった?」
「うん。一緒に帰ろ?」
友達になった工藤真奈美は、少しぽっちゃりしたショートヘアーの可愛い同級生だ。彼女はステンドグラスに興味があって、いつかはそれを勉強したくてこの大学に来たのだという。
同級生といっても彼女は一浪しているから、風花より一つ年上なのだが、年上ぶったところはなく、敬語で喋られるのを苦手としている。
「あ~あ、大学入ってまで夏休みの宿題があるとは思わなかったわぁ」
真奈美はさも心外だというように、癖っ毛の髪をかき回した。
「しょがないよ、まなちゃん。だって大学の休みって二ヶ月近くもあるんだから」
「え〜、風花って悟ってる~」
「まなちゃんがワガママなんだよ。課題ぐらいあるよ〜」
「でもさぁ、その課題が人物画なんだよ? 嬉しい?」
「全然嬉しくない」
風花は力強く否定した。
「そだよねえ~、まだしも風景画とか、心象画とかの方が何とかなりそうな気がするわ~」
「だよねぇ」
人物画というものは、単に対象の人物に似せて描けばいいというものではなく、その人の内面にも迫らないといけない芸術だ。よほどの観察眼がないと難しいものである。
「でさ、風花は誰を書くつもり?」
「……まだはっきり決めてないよ。まなちゃんは?」
風花はさきほど、ヒゲの教授から課題を言い渡された時、思いついた人物がいるのだが、まだ決めかねていたのだ。
「そーだねぇ、最後の手段はやっぱ自画像かなぁ。そういう選択肢もありだよね?」
「でもそれだけはしたくない」
風花はもう一度力を込めて言った。
「なんでよう~。風花の顔、とっても描きやすいと思うんだ~」
「え?」
思いがけないことを聞いたように風花は立ち止まった。
「私?」
「だってさ、大きなタレ目に丸顔でしょ? すごく描きやすそ~」
「ぐっ、ひとが気にしていることを……」
「褒めてるんだよ。そうだ! 私、風花を描こうかな?」
真奈美はしげしげと風花を観察しながら言った。その目は陽気な女友達のそれではなく、芸術家の目つきである。この辺りが芸大生らしいとところだ。
「お断りですぅ〜」
「いや~、マジ褒めてるって! ほんと描かせてくんない? モデル料払うからさ」
「絶対嫌です〜。そんな理由で選んで欲しくありませんよ~だ」
「も〜、ケチ~」
「ケチでけっこう、メリケン粉」
「しゃあない、ばぁちゃんに頼もっかな?」
風花がホッとしたことに、存外あっさりと真奈美は引いてこの話はこれで終わりとなった。
地下鉄に乗り込むところで、風花は真奈美と別れた。彼女はこれからバイトなのだ。真奈美は夕方までの二時間、パン工場で成型の仕事をしてる。料理も好きな真波は北陸に実家があって、大学の近所にワンルームマンションを借りている。
——バイトかぁ、興味はあるんだけど、私は一人暮らしもダメだって言われたし。お父さんがバイトなんてしなくっていいって言うし、それに……絶対、ずぇーったい、禁止する人がいる。
地下鉄の暗い車窓に端正な横顔が浮かんだ。
二週間だけ年下で、いつも無愛想で表情も少なく、でもとても優しい人が。
「……」
風花の恋人、清水樹君は大変印象的な人物である。先ほど人物画のモチーフに思いついた人物とは樹のことなのだった。
吊革につかまりながら風花は彼のことを思い浮かべた。
高校生にしては、悟りすましていて一見生意気に見える。しかし、考え方や未来への目線はしっかりしているし、無駄なことを一切言わないし、しない。
——もしかして、あたしと付き合ってることが最大の無駄じゃないかな? なんてね……そういうことを言いたいんじゃなくて。
風花はふるふると首を振った。ネガティブモードはよろしくない。こんな時は自分を突き放して考えるといい。そう、ちょうど絵画の批評のように。
——人物画のテーマとしてはどうだろうか?
樹は背が高く、細いわりに筋肉質だ。肩幅も広いし、長い腕は優美な所作を見せる。
——でさ、あの腕がね!
我知らず風花は頬を染めた。
——時々ぎゅってしてくれるんだけど、すっごい気持ちよくって安心して眠たくなっちゃうぐらい。
「……客観視だからね!」
緩みかけていたほっぺたをぺしぺしと叩き、風花は思考を引き戻した。
ターミナル駅で地下鉄を降り、JRに乗り換える。人混みをすりぬけることにも最近慣れてきた。下りの特急電車は平日のラッシュ前で具合よく空いており、車両のすみっこに座ることができる。
——それにつけても人物画だよなぁ。眼鏡の人は描きにくいかな? 外してもらえたらいいのかな?
強い日差しを避けるためのシェードが下りた室内は、程よく冷房が効いていて、ついついぐるぐる回りの思いに耽ってしまう風花である。
「うーむ……顔を描く。顔……顔か」
観察眼は絵描きの必須条件だ。風花は今度は樹の顔の造作を思い出すことに集中した。
——眼鏡の奥の瞳は睫毛がけっこう長くって、キレイだ。鼻筋は通っているし、頬や顎の線も直線的。唇は薄くって、初めて会ったときは冷酷そうな印象だなんて思ったっけ?
「唇。唇ねぇ……」
——たまに笑うとカワイイし、印象がすごく変わっちゃって……キ、キスもなんか、すごい情熱的だし……。
「って、わあああ!」
あっと口を押さえた時はもう遅く、風花は両隣の乗客がびく、と体半分姿勢をずらせたことに気がついた。車内が空いていて幸いだったが、それでも恥ずかしいことには違いない。もう顔が上げられなかった。そして思った。
——もうダメだ。彼は描かないほうがいい。第一、顔が整っている人って描きにくいよ、きっと。まなちゃんが言うように、がちゃがちゃした顔の人のほうが描きやすいとおもう。
「え?」
『だってさ、大きなタレ目に丸顔でしょ?』
真奈美の言葉が蘇る。
——だから私?
風花がこっそり憤慨していると、ケイタイにメッセージが届く。ちなみに流行のSNSは二人とも全く興味がない。二人の通信手段はメッセージか、直接の電話である。
——清水君だ! なんだろ? 今頃は予備校じゃあ……?
風花はドキドキしながらメールを開いた。
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