第6話 そよ風 5

「お母さん、私行きたい大学があるんだけど」

「あらぁ、やっと決まったの?」

 夕食後、足の怪我のせいで手伝いの洗い物をしなくてすみ、テーブルに頬杖をつきながら話を切り出した娘に、風花の母はにやりとしながら振り向いた。

 あの後、会社勤めの母の帰宅を待って整形外科に行き、山ほど湿布をもらって帰ってきたほかには特にいつもとちがわない家庭の風景。

 父の帰りは九時ごろになると、ついさっき連絡があったばかりだ。帰りを待って切り出してもよかったのだが、友達のように仲のいい母の意見を先に聞きたかったのだ。

「それで? どこどこ? どこの大学?」

 洗い物をすませ、エプロンを外しながら母は風花の前に腰を下ろした。こころなしか瞳がわくわくしている。

「お母さん、なんだか楽しそうなんだけど?」

「気のせい、気のせい。で、どこ?」

「取り合えず第一志望はK芸大。あと、私学の芸大を受けとこうかな、って思って」

「K芸大ねえ、遠いわねえ。お父さんがなんて言うかなあ」

「まだ受かってないよ!」

「あ、そうか」

 ——あれ? なんか、さっきの会話を思い出すぞ?

「で、いいの? 芸大でも」

「お母さんはいいけど? ふぅちゃん、昔から絵描くの大好きだったじゃない」

「うん、そうなんだけど……お父さんにはお母さんから言っといてくれない?」

「だーめ、自分で言いなさいよ」

「う~、なんかユウウツだぁ」

 ごく普通のサラリーマンの父親は姉が嫁いだ後、次女の風花をそれはかわいがっているのだ。

「でもさ、ふぅちゃん、将来なりたいものでもあるの?」

 片付けを終えた母は、手をぬぐいながら、食卓に戻ってきた。

「う~ん、今は特にはっきりとは。なんでもいいからクリエイティヴな仕事に就きたいとは思うけど、それは四年間でゆっくり考える。それでもいい?」

「いいよ、お母さんもふぅちゃんにはそんな仕事が向いてると思うから。お父さんに話すとき味方になったげる」

「うん! ありがとう! お母さん。私がんばる!」

「でもさ、何で急に決めたの? いままで結構うじうじしてなかった?」

 食卓に両肘をつき、顎を支えた母は興味津々で風花を見つめている。

 ——うう……さすが母、スルドイ!

「いや、今日ちょっといろいろあってね」

「いろいろ? 何さ?」

 ほんのり顔を赤らめ、視線を泳がせた娘を母は逃しはしない。

「そういえば、何で足くじいたの? どうやって帰ってきたん?」

 ——お母さん、あんた、鋭すぎだよ!

「うん……学校で転んでくじいたんだけど、最近できた友達に送ってきてもらって……色々話している途中でなんとなく決心がついたというか……」

「新しい友達! 男の子ね?」

「……まぁ、そう」

 なんで次々母にはわかってしまうのか、風花は肩を落としながら認めた。

「へえ〜、いいじゃん。彼氏?」

 風花の姉に間違えられることが自慢のこの母は、ニヤニヤ笑いながら娘を追い詰める。

「ち、ちがうよ! 単に委員会が一緒なだけの顔見知りで……偶然あたしが転んだところに居合わせたもんだから、仕方なく送ってくれたというか」

「ふう〜ん。ま、いいわ。風花も少しは前進したようだし。じゃ、夏休みがんばんなね? なるべくなら浪人して欲しくないし」

「ふぁい! がむばります!」


 その夜―――

 風呂上りにベランダで風に当たりながら、風花は今日一日のことを思い返していた。

 難しい顔をしていた父親も(母が言うには演技だとのことだが)最後には許してくれたし、なんだか慌しくも大きな気転となった一日だった。

 住宅街の夜空は闇というほど暗くはなく、星も少ない。

 でも、見えないところでは無数の星ぼしが輝いているのだ。ただ雲に目隠しされているだけで。

 

 ——うん。本当に清水君のおかげで違った風にものが見れた。あたしは絵を描く、これからも。両親も許してくれたし、きっと、これでいいんだ。いいんだよね? ああ、なんだかやっと前に進めそう……。


 なぜだか風花は、この気持ちを樹に伝えたいと思っていた。






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