第9話 緑風

 夏がはじまる。

 終業式の最中、樹はある姿を探している。

 その姿は小さくて、列の最後尾にいる彼からは見つけることができない。

 体育館は若い人いきれで息が詰まりそうだった。こんなつまらない儀式はとっとと終わればいい、樹は早く風を感じたかった。


 教室で成績表やら始業式の予定表やらをもらい、やっと解放される。友人たちは早めの昼食をとりながら待望の夏休みの計画を立てていた。部活の夏の大会で盛り上がるものもいる。しかし、樹はそんなことになんの興味もない。彼は二階の窓から校門へ至る方角を見下ろしていた。

「清水、みんなで飯食いに行かねぇ? 俺割引券持ってんだ」

「サンキュ、でも今日は急いで帰らないといけないんだ。じゃあ!」

 友人の誘いを躱し、樹はさっと立ち上がる。カバンを掴んで椅子を直し、教室の扉を出るまで無駄な動きは少しもない。友人はその姿が消えてからはっと我にかえり、別の友人たちと話の続きを始めた。


 風花は自転車を押しながら校門へと歩いていた。前カゴにカバンと十号のスケッチブックが斜めに入っている。

 明日からいよいよ夏休みだ。去年までは楽しみだった夏も、今年はそうそう遊ぶ予定はない。いくら実技重視の芸大を目指すとは言っても、基礎学力は必要だし、何より実技の技術を伸ばさなくてはいけない。

 すでに美術専門学校の芸大受験コースを申し込み受講している風花だが、受験コースの課題だけでなく、たくさんの枚数を描かないといけない。

 美術部にも入らず、進路を決めるのが遅かった風花はとにかく、たくさんのモチーフに触れ、素材に慣れなくてはいけないのだ。

 ——でもま、今日ぐらいはいいか。好きなもの描こ。

 風花は今日も川沿いの道を選んで歩く。川向こうの風景を川越しにスケッチしようと思ったのだ。いくつか場所を探しているうちに、桜の木が張り出している下に古いベンチを見つけた。この角度からだと遠くの山脈がちょうどいい感じで入る。ここから描いてみようと自転車を止め、いつも持ち歩いている携帯用絵の具を鞄から出して一旦ベンチに置くと。風花は別の手提げバックから、おにぎり二つとお茶を取り出した。昼食には少し早いが、誰も気にしないだろう。

「腹が減っては創作意欲も落ちるからね」

 と、風花がお握りにかぶりつこうとした時。

「横いいですか?」

「え?」

 許可も得ずに隣に座ったのは、夏服も涼やかな眼鏡男子だった。風花に好きだと告した彼だが、風花の捻挫事件以来ほとんど話す機会がない。下校時間ですら姿を見かけることがほとんどない。風花は友人と帰ることが多いし、受験生の風花に彼なりに気を使っているようで、押し付けがましいことは何もしてこなかった。移動教室の折にすれ違うと挨拶するくらいだ。

 なのに今日はどういう風の吹き回しなのだろう。風花とてお年頃である。端正な顔立ちの長身の後輩に好きだと言われて意識しないこともない。風花は彼のおかげで進路を決めることができたし、話せるようになってよかったと伝えたはずなのに、あまりの放って置かれように、最近ではあの告白は夢だったかと考えはじめていたところなのだ。

「し、清水君⁉︎」

 風花は怜悧な眼差しに驚いて目を見張った。この暑いのに汗一つ書いてない。

「スケッチブック持ってこっちに歩いていく吉野さんが見えたんで追っかけてきました。ここで絵を描くんですか? 少し見てていいですか?」

「え? けどつまんないよ。暑いし」

「それは見てはダメってこと?」

「い、いや、違うよ。だって画塾じゃみんなに見られるし、見たいんならどうぞ〜。でも先にお昼食べるけど」

 風花は戸惑いながらも取り出したお握りを掲げて見せた。

「お弁当はそれだけ?」

「うん、清水君は?」

「俺? 俺は……持ってないですよ」

「じゃあ、お握り一つあげるよ」

「いえ、悪いです」

 樹は驚いたように差し出された丸っこいお握りを見つめた。

「いいって。お母さん大きく作ってくれたし。具も結構入ってるよ」

「……じゃあ、ありがたくいただきます。俺、近くの自販機で飲みもの買ってくるから、食べるのちょっと待っててもらえますか?」

「うん、いいよ」

 風花は駆け出す樹を見送りながら、お握りを置いてスケッチブックを広げた。そこには進路を決めてから描いた私的なスケッチがいくつか描かれている。多くは静物画だ。芸大の実技試験は室内で目の前に置かれたモチーフを描くからだ。

「でも、静物ばっかりじゃつまんないからね」

 風花は目の前に広がる夏の河川敷を眺めた。

 昔は風景画をあまり描いたことがなかった。自分のイメージをキャンバスに表現するいわゆる心象画ばかり描いていたのだが、それでは受験対策にはならない。このところ通っている芸大受験コースの実技では石膏デッサンや静物画が専らだ。

「ここからだとうまく斜めに構図が決まるな。あの橋を手前に入れて……山並みを無効に描いたら奥行きが出るかな」

 言いながらさかさかと紙に当たりをつけていく。たちまち全体の位置どりが決まった。

「すごい、絵ってこうやって描くんですね」

 いつの間にか戻ってきた樹が後ろからスケッチブックを覗き込んでいる。走ったのだろうに、サラサラの髪はどこにも張り付かずに風花の頬をかすめた。高二男子の油臭さはどこにもない。

 ——うわ、近い! でも、この子、肌きれい……男の子なのに。

「さすがに上手ですね」

「あ? い、いやっ! それほどでも……ていうか、まだ構図決めただけだし!」

「そうなんですか? あ、でも先に食べませんか? これ」

 樹が差し出した手にはオレンジジュースが握られていた。

「お茶は持ってるの見たけど、デザートがわりにと思って。暑いし、熱中症になってもいけないから」

 そういう樹は自分用にミネラルウォーター持っている。

「あ、いいの? ありがと。じゃあ、食べようか?」

 二人はしばらく黙々とお握りを頬張った。

「清水君でもお握り食べるんだねぇ」

「食べますよ。なんだってそんなこと」

「だって、どっちかというとお握りよりサンドイッチの雰囲気だから」

「俺はご飯の方が好きです。祖母の料理で育ったから」

「おばあちゃんがいるの?」

「一緒には住んでないけど近くにいます」

「ふーん」

 何気ない会話が風花を満たしていく。あたりは蝉時雨の正午である。ふたりは黙ってお握りを咀嚼していく。

 もりもり食べ終えた風花は満足してオレンジジュースを飲んだ。沈黙を共有できるのは心の垣根が取れたということである。

「ごちそうさま」

 二人は同時に言った。

「絵を描く?」

「描くよ、見てて!」

 簡単な昼食を片付けた風花は勢いよくスケッチブックを開いた。

 柔らかめの鉛筆を走らせ、さっさと書き込んでいく。一番難しい鉄橋ですら迷わずに微妙な遠近感を出すことができた。

「本当はここで黒鉛を抑えるスプレーを吹き付けるんだけど、今日は省略して彩色しまっす。お水がいるな。どっかに水道あったかな?」

 風花がカバンから折りたたみ式の水入れを取り出すと「あ、これ使ってください」と、樹は自分が飲んでいたペットボトルのミネラルウォーターをためらいなく水入れに注ぎ込んだ。

「あ、水道水でいいのに」

「だってちょっと距離がありますし。俺早く見たいんですよ、この絵ができるところ」

「じゃあ遠慮なく使わせてもらいます。まずは遠景から」

 そういうと、風花は固形絵の具を薄めて太い筆で空を塗り始めた、次に川、手前の土手を。全体的にざっと色が乗った頃合いで、今度は少し恋色と細い筆で調子をつけていく。樹は黙って見守っていた。

 風花の筆は止まらない。使う色はどんどん多彩になっていき、筆も細いものになっていった。かと思うと、影をつけるためか、薄めた紫を含ませた平筆で全体を引き締めていく。

 最後に濃いめの白でハイライトを入れると、橋のある風景画の完成だった。

「できた!」

「お見事!」「ありがと!」

 声が揃い、二人は笑いあった。初めてのことだった。

「すごいな。絵ってこうやってできるんだ」

「清水君だって絵ぐらい描いたことあるでしょ?」

「いや、比べようがない。これなら芸大大丈夫ですよ」

「まだまだ。でもそういてもらえるのはすごく嬉しいよ。私の描く絵にだって人を喜ばせることができるんだ」

「絵ってすごいですよね。暗い絵の前に立つと暗い気持ちになるし、明るい絵の前では楽しくなる。キャンバスに向かう作者の気持ちが伝わってくる。吉野さんが描いた絵を見てるとすごく優しい気分になる」

 こんなに多弁な樹は初めてだ。

「わー! いっぱしの評論家だぁ」

「あなたの絵だからそう思うのかもだけど」

 風花は黙った。黙るしかなかった。

「俺はこの絵好きだ」

 ——この人やっぱり?

 日差し眩しい日中を川風が通り抜けていく。

「夏休み、頑張ってください。そんで始業式になったら、またここで会って」

 樹は真っ直ぐに風花を見据えていった。切れ長の涼しげな目元に真摯な色が滲むのを小さな芸術家は見てとった。

 ——この人はやっぱり。

「う……うん。うん」

 風花は頬に熱が宿るのを感じながら、スケッチブックの隅に今日の日付を入れたのだった。







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