第30話 青嵐、そして恵風 2

「では、これで講義を終ります。諸君、ごきげんよう。よい休暇を」

 老教授は茶目っ気たっぷりに階段状になった広い講義室を見渡し、ぶ厚い本を抱えて出て行った。講義室内は講義が終ったことにも気付かず、熟睡している学生がちらほら見える。眠っていない学生も物欲しげに光と緑溢れる窓の向こうを眺めている。

 夏休み前の一般教養の講義はこれで終わりということなった。

 樹は手早くノートやテキストを片付け、物憂げに立ち上がる。黙ってステップを下りようとしたとたん、後ろから明るい声がかけられた。

「清水君! もう今日はこれで終わり?」

 振り向くと見覚えのある女子が華やかな笑顔を湛えて彼を見上げている。確か学部の一回生で同じグループの学生だった。明るい茶髪は顎の両側でくるくると巻いてあり、ストラップの服を重ね着したすらりとした肢体が、垢抜けた印象を与える。

「……じゃあ」

 そっけなくうなずいて樹がそのまま行こうとすると、親しげに腕を取られた。樹は上品なネイルアートを施したその腕を見下ろした。

「あは、噂どおりのブアイソ君ね。私の事知ってる?」

「顔は」

「あ、覚えてくれてたんだ。私、三田村詩織。清水君とお近づきになろうと思って声をかけたんだ」

 取り付く島のない樹の態度にもちっとも悪びれず、詩織は輝くような笑顔を見せた。通り過ぎる男子学生たちがちらちらと彼女に視線をあてて行く。確かに詩織はこの無彩色に近い講義室の中で目立って華やかな存在であった。

「挨拶くらいならいつでもどうぞ」

 そういい捨てて樹が背を向けると、詩織は一瞬、ん?という顔つきになったがすぐ後を追ってきた。

「じゃぁさ、お近づきのしるしにランチ一緒しようよ」

「……俺は一人で食べるから、横が空いてたら」

「よかったぁ。それってオッケーってことだよね」

 取りつく島もない言葉にも臆せず、詩織は積極的である。理系女子には珍しいタイプだ。

 樹は混んでいたせいもあって、風花とよく行くカフェには向かわず、工学部棟の一階にある学生食堂に向かった。ここはちっともオシャレでもキレイでもないが、安価で量も豊富なため、圧倒的に男子学生が多い。樹は食券を買ってビーフカレーとサラダをトレイに乗せると、さっさと空いた椅子に座った。

「よいしょっと」

 詩織もタラコスパゲッティとアイスコーヒーを乗せたトレイを樹の向かいに置く。

「お腹すいたね~。あの先生話長いから」

「……」

 詩織はしばらく樹の食べる様子を見ていたが、やがて可笑しそうに話しかけた。

「清水君って男の子のワリにはきれいに食べるんだね~」

「そ?」

 前にも似たようなこと言われたな、と樹は珍しく相槌を打った。

「そう、そうだよ。私の周りの男子なんて、お箸もちゃんと持てないコもいるよ」

「ふーん」

「……なんかさ、清水君って無駄に喋らないのよね。そういう人いいわよね」

「……」

会話が途切れる。しかし、詩織は意外に気が長いようで気を悪くしたふうもなく、巧みに話題を変えた。

「ね? 夏休みとか清水君はどうするの?」

「夏休みに、とかってつけなくてもいいんじゃないの?」

「あ、そういう固い話し方もなんとなくいいわ~。で、何するの? な・つ・や・す・み」

「今、考えてるとこ」

「あ、そうなんだ~。んじゃさ、よかったら私と出かけることもその考えに入れといてくれない?」

「入らない」

「わ! 噂にたがわぬヒヤメンだ~」

「ヒヤメン?」

「そ、ヒヤメン。冷ややかな男子ってこと。今作った造語。流行らないかな?」

「さぁね」

 樹は最後のカレーを嚥下してから短く言った。食べ終わったトレイを片付け始める。だんだん面倒くさくなって来たのだ。

「清水君、私のこと、気に入らないかな?」

 特に落ち込んだ風もなく、詩織はアイスコーヒーをすすった。

「別に。でも強引なのは苦手だ」

「ってことは自分が強引なんだ~。そうゆう話も聞いてみたいわ~」

 詩織は、視線をめぐらせ、答えを期待していなかったように、唇の両端を上げた。

「いいよ。気が向いたらまた誘うから。よかったら付き合ってね」

 そう言って詩織は樹よりも早く立ち上がった。引き際をよく知っている。きっと頭も切れるのだろう。

「ごちそうさま~」

 詩織のトレイには食べ残したスパゲティの皿と、これまた飲み残したコーヒーが乗っている。風花と違って小食のようだ。

 なんだか、よくわからない子だ、と樹は思った。

 これほどそっけなくされてもめげない根性、というか自分本位の大らかさは見上げたものだ。まぁそれほど親しく女性と話したことはないが、風花とはだいぶ違う。

 ——なるほど、大学にはいろんな人物がいる。

 樹は薄く笑った。


 眩しすぎる戸外に出、自分の学部のロッカー室に立ち寄り、荷物を引き取ってくると樹は駅に向かった。

「今帰りぃ?」

 後ろから声をかけてくるのは柳素直である。同級生で同じ授業を取っているのに今終わりも何もないものだ。

「またお前か。いったいどこから湧いてくるんだよ?」

「湧くて、俺はボーフラか? 俺かて駅に用事があるんや」

「下宿生なのに?」

「下宿生でも駅に行くことあんの! ここのショッピングセンターには大きな書店が入ってるからな。オベンキョの本買うんやで」

「ふーん、そうか」

 のんびりした話し方の柳のペースに、樹もいつの間にか合わされてしまっている。

「今日もええ天気やな~。なんかワクワクすんな~」

「ワクワク?」

「おい、清水、お前さっき、三田村さんとメシ食うとったやろ? 実は俺も食堂のすみっこにおってん。彼女、俺等の学部の同級の中で一番の美人やって評判やったで。何話とったん?」

「覚えてない」

「ひ~、高嶺の花を……なんチューもったいない。でもな、なんかわかる。俺もあの人苦手や。なんかこう、キマリ過ぎっちゅうか、俺なんかには華やか過ぎるわ」

「……」

「それにお前には彼女おるしなぁ。今日はこれからどうするん? もうこれから学校に用事はあんまないやろ?」

「まだ学校には出る。借りたい本もあるし。先生に課題の資料集めとか質問もある」

「せやな。難しそうな課題いっぱい出たしな。英語の論文の翻訳が一番苦手やな。俺は暇やし、一緒にレポート書こ」

「気が向いたらな。じゃあな」

「うん。さいなら~、彼女によろしく~」

 数年前に立て替えたばかりのモダンな大きな駅ビルは、平日の昼下がりとあってそれほど混んではいない。二人掛けの椅子が向かい合った形の快速電車も空いているとはいえないが、空席がちらほらある。樹はしかし、座席に座ろうとはしないで、座席の背にもたれてドアのほうを向いて立つ事を選んだ。

 風花は今朝、出かけたはずである。今は、樹が見ている山並みのどこかにいるはずだった。


 昨夜は短い時間だったが、樹の家の裏の公園で会った。

 風花の大学は昨日で授業や実習が終わりで、アトリエの片付けやら何やらで遅くなり、駅から電話がかかったのは七時を回っていた。いかに長い初夏の黄昏もそろそろ暮れようかと言う時刻で、公園にも子どもたちや年寄りの姿は既に無い。

 風花は機嫌よくブランコを揺らしながら、アイスを食べ、いつものように今日の出来事を、迎えに来た樹に話して聞かせる。

「それでね、明日から合宿だって言うとみんなかわいそ~、なんて言うんだ。決まった時はいいな~って言ってた人たちがさ。みんな、とっくにバイトやら旅行の計画立てたみたいで。いいんだ~、私は自分のスキルアップするんだから」

「真面目に勉強して来るんだよ」

「うん。たとえ一週間でもあこがれの神山先生の元で研修できるんだもん」

「それからできるだけ連絡してくること。いいね」

「ふぁい! でも神山先生の主義で携帯もスマホも禁止だって言ってたから、研修所にある公衆電話からになるけど。さすがに長電話はできないかな?」

「それはいまどき珍しい環境だね」

「そう。ネット環境にあると雑念が入るからって、たまにはゲームもラインもない環境を受け入れろって。実習生はこれだけは守る約束をさせられるの。だから携帯は持っては行くけど預ける」

「それでもできるだけ連絡して。公衆電話でいいから」

「はーい」

 樹は風花のブランコを止めた。

「帰るよ。さぁ、立って」

「うん」

 風花はアイスのカップをくずかごに放り投げた。

 二人の上には紫色の黄昏が迫っていた。

 藤を絡ませた東屋を通り抜ける際、青々とぶら下がる蔓の影で、樹はやっと風花を抱きしめた。大きな体を折り、丸い頤をすくい取ると覆いかぶさる。

「ん、んん……」

「風花、甘い」

「え? あ、さっきアイス食べたからだね」

「もっと食べたい」

 長いキスだった。

「は、はぁ〜」

 唇が離れた時、風花は茹だった頬で大きな吐息をついた。

「いい? 絶対小川さんに隙を見せるなよ」

 がっしりと肩を掴まれ、眼鏡の向こうから強く見つめられる。

「んー、わ……かった」

 聞いているのかいないのか、とろんとした目つきで風花がめずらしく顎を上げて体を寄せてくる。無意識にキスをねだるようなその仕草に、樹は次の言葉を失った。

「風花」

 口付けは次第に深みを増し、風花の体から次第に力が抜ける。樹はそんな風花から無理やり体を引き離した。

「ダメだよ、風花。そんな顔しちゃ」

「ん? だって気持ちいいんだもん」

「だからダメだって。隙だらけじゃないか。このまま襲ってもいいの?」

「あ~、それは困るかなぁ」

 ふにゃふにゃと風花は笑った。

「お願いだからしっかりして」

「はい! しっかりします」

「どうだか……帰ろう」

 いつもの路地を抜けると、玄関先で母が回覧板を手に、隣の主婦と話しているところだった。

「ただいま~。おばさん、こんばんは」

「風花おかえり~。樹君もいつも送ってくれてありがとね」

「いいえ」

「まぁまぁ、風花ちゃんの彼氏? イケメンねぇ、背が高い~」

「こんばんは」

 樹もきちんと挨拶をする。

「じゃぁ、俺はこれでシツレイします。風花、おやすみ。明日は気をつけて」

「ありがと、じゃあね~」

「樹君、またいつでもご飯食べにいらっしゃいねえ」

「ありがとうございます。じゃあ、失礼します」

「気をつけて〜」

 しばらく樹を見送って風花も家の中に入っていった。

 それが昨日のこと。


 快速電車のドアにもたれかかって樹は外を眺めている。

 ——お山で遊んでるお嬢さん。山から下りてきたらもう逃がさないからね。

 樹は唇の端で笑っていた。


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