第38話 青嵐、そして恵風 10

 数時間後。

 日はすでに中天近くに昇り、リビングは眩しすぎるほどだったが、程よく空調が効いており、室内はどこも快適だった。

 ただ一人、ソファに丸まってふくれている風花を除いては。


「風花、もう機嫌直してこっちへ座ったらどう?」

 樹は上機嫌でダイニングのテーブルを示す。

 ——誰が機嫌を悪くしたんだ、誰が~。

「……ここでいい。楽」

 実は風花は体が痛いのだ。椅子よりも、柔らかいソファで丸まっている方が楽でいい。身に覚えのある樹はそれ以上は言わず、なにやらキッチンで忙しく立ち働いている。

 風花は樹のシャツと短パンに着替えていた。だぶだぶで風通しがよく、シャワーを浴びて湿った体に気持ちがいい。

「それで、急病の人は大丈夫だったの?」

「あっちゃん? うん、急性盲腸炎だって。昨日夕方過ぎにやっとお家と連絡が取れて、ご家族が病院に着いたのは真夜中過ぎになったけど」

「本当に大変だったね」

「うん、結構大変だった。でも永井さんが付き添ってくれたし」

「小川さんもついててくれたし……って?」

 樹が意地悪そうに付け足す。

「だってしょうがないじゃない。緊急事態だったんだし~」

「でも告られたんでしょ?」

 さらりとした口調だが、樹は目の隅でしっかり風花の様子を観察している。

「う~……でも、私の気持ちはちゃんと伝えたし、小川君だってわかってくれたよ。電話で言ったでしょ? 私しっかりしてたよ」

 風花はソファにネコのように丸まったまま、ちっとも悪びれずに答えた。

「そうだね、風花は案外しっかりしてるよね。だけどおかしいなぁ。彼がそんなに聞きわけがいいとは思えないんだけど」

「ほんとだもん」

「う~ん、何か釈然とはしないけど、風花がここに来てくれたから当面は不問にする」

「でも、かなり頭にきてたでしょう、樹君」

「きてた。彼はさすがに人の弱点をうまく突いてくるね。見事に頭にきた。おかげでしたくもない課題をこなし、食いたくもないもの食べ、一晩中悶々としていた。つまり俺が一番馬鹿だったってことだ」

「確かに意外に大人気なかったよね〜」

 風花は冷蔵庫から色々出している樹の背中に言った。

「認めます。俺もまだまだだ」

「そういえば、携帯にに電話何回もしたんだけど、電源落としてたでしょう。私すごく悲しかったんだからね!」

 風花は調子づいて言った。小川にこっそりキスされたことは、これで何とか言わなくてもすみそうな展開である。これなら隠しているだけでウソはついてないと、風花は密かに自分を納得させた。

「……ごめん」

 案の定、痛いところをつかれて、樹は口ごもった。

「実は携帯はあの後、水に落として、壊れてしまったんだ」

「ええっ! それは珍しくドジを……。最新機種だったのに……もったいない」

「だね。反省してる」

 お互い言いにくいことがあるのだ。

「この家も留守電ばっかだったしね!」

「そう言えばまだ留守電解除してなかった。普段この家に電話なんてかかってこないし、見もしなかった。そんなに何回もかけてくれたの?」

「かけたよ。最初十分おきぐらいにかけてたんだから!」

「本当にごめんなさい。今、留守電聞いてもいい?」

「わ! 聞かなくてもいいよ! すぐ消して!」

 今にも電話を見に行こうとする樹に、風花はソファから転がり落ちるようにして止めた。

「絶対消してね!」

「あ、まだ、ご機嫌斜め……じゃあこれはどう?」

 樹はキッチンから出てくると、朝食の載ったトレイを風花の前に差し出した。

 キツネ色のトースト、ベーコンエッグ、オニオントマトサラダ、そしてオレンジジュース。

 ごくり、風花の喉が鳴る。何しろ昨日の昼から、ほとんど何も食べていなかったのだ。おまけに早朝ランニングも含め、したことのない運動もイロイロしてしまったし。

「食べる」

「ソファで食べる? 体、辛そうだ」

「そんな行儀の悪いことしないよ。テーブルでいただきます」

 食べ物で治らない風花の機嫌などないのかもしれなかった。たしかに座るのに少し勇気が必要だったが、ソファからクッションを借りてダイニングの椅子に敷き、ゆっくり腰を下ろす。なんとか大丈夫のようだ。

「イタダキマス」

 今気がついたが、風花はひどく喉が渇いていた。オレンジジュースがあっという間に無くなる。

「もっと飲む?」

「飲む」

 風花はもくもくと食べている。

 オレンジジュースを置いていったのは祖母だが、樹は普段ジュースは飲まないので、これは風花専用である。

 ——随分可愛い声を上げていたからなぁ。

「好きなだけどうぞ。全部飲んでいいよ」

 樹はキッチンから冷えたオレンジジュースを取ってきて、風花のグラスになみなみと注ぐ。自分にはミネラルウォーターを注いだところで、電話が鳴った。携帯ではなく、家の電話である。

「もしもし?」

『あ、清水か? 家に帰っとったんや。よかった~、心配したで~。携帯に何遍かけても出ぇへんし』

 電話は柳からである。どうして樹の家の電話を知っていたのだろうか?

「すまん。携帯は壊れたんだ。でもお前なんで、俺の家の電話番号を知ってる?」

『そんなん、アドヴァイザーの先生丸め込んだに決まってるやないか。うちの大学、結構いい加減やな。まぁ俺がそれだけ人望あるってことや』

 コイツの辞書に遠慮と言う文字は無いのか?と樹は思った。しかし、昨日のことは自分が悪かったので、その件は黙殺することにする。

「それで?」

『それでって、その後のことが気になったから電話しとんのやんか。昨日のお前の顔、すごかったもん。フツウやなかった、アレは』

「悪かったな。反省してる」

『ふぅん……その調子では彼女と上手くいったんやな。どうや? 図星やろ。あ〜ひょっとしてソコに彼女おるんとちゃう?』

「……」

 樹は柳が意外な洞察力を持っていることに驚いていた。風花のことは一言も話していないのに、なんというカンのいい奴であろうか。

『まぁ、ええわ。お前が落ち着いてるならそれで。三田村さんたちはさすがに驚いとったけど、俺が上手くごまかしといたったから、お前の評判は落ちとらん。ありがたく思え』

「世話になったな。ありがとう」

『うーわ、お前がそんなこと言うなんて。真夏に雪降るんとちゃう? よっぽどいい事があったんやなぁ〜』

 ——鋭い。

「お前、うるさいよ。切るぞ」

『ふむ。元通りやな。安心したわ、うまくやれよ。お礼にレポート見せろや、な? ほな!』

 ——なんなんだよ、あいつ。

 樹は苦笑しながらダイニングに引き返した。

「お友達から?」

「まぁね」

「珍しいね、樹君が電話でそんな風に笑うなんて。よっぽど認めた人なんだね」

「……」

 鋭いのはここにもいた。樹は無言でトーストを取り上げた。彼も昨日からほとんど食べていない。

「おいしいねぇ」

 風花の皿はもうほとんど空っぽだ。

「よかった。はい、トースト、まだ食べるでしょ?」

「ください」

 しばらく二人は若者らしく、食べることに専念した。

「……そういえば、もうすぐ親父が帰ってくるらしい。パソコンにメールが来てた」

 グラスを置くと樹が唐突に言い出した。

「え? 樹君のお父さん?」

「ああ、多分来月かな? 風花にも会って欲しい」

「う……うん」

 風花はトーストを飲み込みながら言った。

「もしかしたら、海外転勤を引き上げてくるかも知れないんだ」

「そうなの? よかったねえ」

「風花のご両親と、ちゃんと話し合って……俺が話すんだけど。もしお許しが出たらもらえたら、ここで一緒に住んでくれる?」

「ええ⁉︎ 待ってよ、それじゃあお父さんはどこに住むの?」

「無駄に広いおばあさんの家がある。もともと父の実家だし」

「うわぁ~、でもどうだろう。私はもう、決めちゃったからいいけど、そう上手くいくかなあ? だって二人ともまだ学生だし、うちの両親だってそうホイホイ許してはくれないと思うなぁ」

 風花は考え込んでいる。母はともかく、姉もいなくなった家で風花まで出て行くとなれば、父は絶対反対するだろう。

「わからない。すぐには無理かもしれない。だけど俺も、少し色々考えたこともあるんだ。将来のこととか」

 確かにこのままの自分ではだめだと、樹は思っている。

 昔から特に努力しなくても、大抵のことは人よりできた。しかし、今回のことでそんな舐めた気持ちではいけないと思い知った

 風花を幸せにするために、自分はもっと強く、しっかりとしなくてはならないのだ。

 それに。

 風花をもう、手放したくはない。

 風花といることで自分は強くなれる。欠けた部分が満たされる。大切でなくてはならないこのタレ目の女の子。

「……あれ? 風花?」

 樹が思いをめぐらしている間に、いつの間にか風花はテーブルに突っ伏して眠ってしまっていた。手にはトーストのかけらを持っている。昨日から心配のし通しだったろうし、ロクに眠っていないのだから無理もないのかもしれなかった。

「あ~あ、お腹がいっぱいになったら、またまたお眠ですか? ほんとに、このおねーさんは。よいしょ」

 樹は風花を抱き上げた。

 ついでに口元についているパンの粉をなめ取ってやる。

 思いついて、樹は風花を抱いたまま、電話機に向かい、留守電のボタンを押した。

 ピー。

『もしもし~、あ、やっぱ留守電か~、さっきはごめんね、携帯切ってるの? 怒ってるんだよね。私も病院だから携帯切ってるの。病院の連絡先、言っとくね』

『やっぱまだ、怒ってるの? まだあっちゃんのお家と連絡取れないの……ごめんなさい。ほんとに、ごめんね』

『まだ帰ってないの? それともそこにいるの? やっとあっちゃんの家に連絡取れました。でも、遅くなるそうでやっぱり帰れません。ごめんね』

『あっちゃんのお家の人が来ました! 今から始発で帰ります。すぐにそっちにいくから! ほんとにごめんね。許してくれなくても会ってっください』

「風花……ごめん」

 ——こんなに必死で俺なんかのために……一生懸命……許してもらうのは俺の方だ。

 樹は風花を抱えなおすと、さっきまで風花とひと時の眠りを取っていた自分の部屋に引き返す。

 自室はブラインドのウイングを半分だけ開放してあり、薄暗い部屋中が縞模様に染まっていた。水色の壁紙もあいまって海の中のように見える。同じ色のシーツの波もやはり縞模様で、乱れていたがすっかり乾いていた。その中に樹はそっと風花を下ろす。

 お腹がいっぱいになった眠り姫は、一瞬「むにゃ?」と言ったが、再び深い眠りの中に落ちてゆく。

 ——自分がしっかりとして、この子を守らなければ。

 風花はさっき、上手くごまかしたつもりだろうが、樹には小川がなどう言って、どのように行動したか、なんとなく理解できた。この娘に関して言えば二人は同類だったから。

 ——でも、もういいんだ。

 風花は自分のものになるといってくれたのだから。

 ——この小さな体を全部俺にくれた。

「風花……ゴメンね。もう、泣かしたりしない、辛くなんてさせない……誰にもやらないから」

 耳元でささやく。

 聞こえたか、そうではないのか、風花は少し身じろぎして横向きに丸まった。眠った顔に微笑が浮かぶ。

 樹は堪えきれずに口づけを一つ落とす。

「ふふ……なんだか俺まで眠くなってきた……お嬢さん、隣、失礼しますよ」

 目が覚めたら眩しすぎる戸外に飛び出し、きらきらした風の中を二人で歩いて風花を家まで送っていこう。

 眼鏡を脇に置き、背後から抱くように樹も丸くなる。すぐに眠気が訪れた。

 青いシーツの海で眠る二人を、縞模様の光が包む。

 夏は始まったばかり。

 二人の恋もまだこれから。

 風が街路樹を揺すって笑った。






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風は樹に語り、樹は風の夢を見る 文野さと(街みさお) @satofumino

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