第37話 青嵐、そして恵風 9

 話は数時間、さかのぼる。


 宮崎梓の母と姉が病院に到着したのは、夜半を少し回った頃だった。K駅からタクシーをとばしてきたらしい。

 二人はバタバタと病室へ駆け込んでいった。しばらくして、母親の方は涙ぐみながら病室から出てきたが、思ったより宮崎の様態が安定しているのを見てほっとしたらしく、取り乱してはいない。

 当直医から話を聞いたところでは、今のところ薬で容態も落ち着いているので、手術云々の話は明日以降になるとのことだった。

「ありがとうございます、ほんとにお世話になりました。ご迷惑をお掛けして申し訳ございません」

 突然田舎から呼び出された梓の母は、戸惑いながらも風花たちに何回も頭を下げた。この人が初め、永井の電話を振り込め詐欺かと間違ったのかと思うと、風花は密かに面白かった。


「さて、親御さんもいらしたことだし、俺はこのまま失礼するけど、君達も一緒に戻ってもう一晩合宿所に泊まるかい?」

 永井氏はさすがに疲れたように、のびをしながら二人に提案した。

「どうする? 吉野」

「うん……」

 風花はそれはしたくないと思った。自分はなんとしても、できるだけ早く樹に会って謝らなくてはいけない。たとえもう嫌われてしまったとしても。この気持ちはどんどん先へ進んでいる。なのに体だけ後戻りはできなかった。

「私はこのロビーで朝まで待って始発で帰ります。どうせ、すぐに夜明けだし」

「そうかい。で、君は? 小川君」

「吉野が残るんじゃ、俺もボデイガードをしなくちゃ。すみません、永井さん、そういうことでお願いします。ありがとうございました」

「よし、わかった。先生には事の顛末を俺からちゃんと伝えておくよ。じゃあ、お疲れさん。あんまり無理するなよ。何かあったら事務所に連絡してくれ」

「はい、お世話になりました」

 軽トラックで永井氏が去った後は、灯りの落ちた広いロビーに小川と風花だけが残された。

「やれやれ、大変な一日だったな。あ、もう日付が変わったか。ほれ、ジュース。夕飯も食ってなかったろ?」

「ありがと。それどころじゃなかったモンね。お腹空いているのも気がつかなかったよ」

「……でさ、お前。いいのか?」

「え?」

「アイツのこと。連絡つかないんだろう?」

「大丈夫。明日帰って、ちゃんと謝るから」

「大丈夫か~? あいつ結構、陰険そうだったぞ~」

 小川は疑い深そうに言った。

「ははは。確かに見かけは意地悪そうに見えるかもね。私も初めは冷たそうな人だって思ったもん。でも、ホントはちょっと不器用で無口なだけで、とっても優しいんだよ。私のことすごく大事にしてくれるし」

「こいつ……俺の前でのろけかよ、はらたつ」

「のろけになるのかな?」

「ちぇ、どうやら俺の入る余地は今はなさそうって?」

 小川は肩をすくめて言った。

「へへへ、そうかも。でも、もっと早く言ってくれたらかなり嬉しかったかもね」

 確かに小川の告白がもう二年ほど早ければ、有頂天になっていたかもしれない、と風花は思った。

 ——いや、当時は胸が痛むほど憧れていたから、かえって空恐ろしい気持ちになったかな?

 あの頃の自分の気持ちを、今は冷静に振り返る事ができる自分を風花は感じていた。でも、樹はそのずっと前からふうかを好きだと言ってくれたのだ。

「ちょっと遅すぎましたね。小川氏」

「それを言われるとつらい……お前の良さってわかりにくいんだよな」

「でも小川君のおかげで私、ここまで来れたんだよ? 小川君の絵をいつも追いかけてたんだ」

「だったら、これからも追いかけさせてやるさ。俺はまだまだこれからだ」

「わ、いうなぁ。でも、きっとその通りになるね。私も頑張るよ」

「さ、少し休もうぜ。この椅子は寝心地悪そうだけどな」

「うん」

 非常出口の緑のランプだけが灯るロビーで、二人は楽な姿勢になった。

 ——樹君は今どこにいるのかな? おばあさんのところかも。

 もうかれこれ三時間以上、樹には電話をしていない。自宅の留守電も解除されていない。しかし、祖母の家に電話するわけにはいかなかった。かければ事情を話さなくてはいけないし、それでは心配をかけてしまうだろう。樹が困るかもしれない。

 ——会いたいな。

 風花は痛切にそう思った。あの広い胸と長い腕。告白そうな薄い唇からは想像もできないような優しいキスが無性に恋しかった。

 ——やっぱり。明日の朝、一番に会って話をするしかないわ。

 そこまで考えて風花は目を閉じた。



 樹は動けなかった。

 白い服を着た風花が必死でこちらへ向かって走ってくる。大きなカバンが飛び跳ねる。もうかなり走っているのだろう、足がよろめいて体が横に流れた。

「あ!」

 届くはずもないのに、樹は腕を伸ばしかける。当然空を掴む事となる。風花なんとか持ちこたえ、また懸命な顔で駆け出した。樹はそのまま額をガラス窓につけ、溢れそうになるものを懸命に堪えた。

 ——もう充分だ。

 こんな自分に会うため、風花は全力で走ってきてくれている。あの風のように透明な心には何の曇りもないのだろう。

 その間にも風花はどんどん近づいてき、ついにマンション庇の下に姿が見えなくなった。

 反射的に樹も玄関へ身を翻す。と、自分の姿に気がついた。シャワーの後、素肌にタオルを引っ掛けただけ、髪もくしゃくしゃだ。

 慌てて自部屋に引き返し、細身のジーンズに足をねじ込み、白いコットンシャツをひっかぶって、手ぐしで髪を撫で付けながら玄関へ飛び出す。ドアの外に動くものの気配。



「よぉし、駆けどおせた!」

 風花は息を切らして、すっかり暗記している暗証番号を押した。分厚い強化ガラスの自動ドアは音もなく開く。朝が早いせいか、通り同様、ホールにも誰の姿もない。エレベーターは運良く地上階に停まっていた。

 エレベータの中の鏡で、風花は自分の姿を見て愕然とする。大きなカバンを抱えて髪は乱れてほつれ、顔中に汗が流れている。ノースリーブの簡単な白いシャツワンピはお気に入りだったのだが、今はしわくちゃで、汗でしっとり濡れていた。

 ——うっわ~、まるで夜叉だね。仕方ないか。約束破ったバツだもんね。嫌われても仕様がないもの。でも、勇気を出してちゃんと謝るんだ!

 でも、ここに来ずにはいられなかった。樹がここにいるとは限らないのに。

 エレベーターの扉が音もなく開く。七階のホールの、斜め前の扉が樹の部屋だった。

 ベルを押そうと腕を伸ばした瞬間、内側から扉が開いた。

「え?」

 ぐい、と手首がつかまれ、そのまま扉の内側へ引っ張り込まれる。

「わ! むぐぅ」

 それ以上声が出せない。

 広い胸に、顔が押し付けられ、きつく抱きしめられてしまったから。

 カバンがどさりと放り出され、後ろで重い音を立てて、ドアが閉まったことだけが辛うじてわかった。

 ——あれ? 樹君、震えてる?

 顔を上げられないので、樹の表情をうかがい知る事はできない。

 ただ。

 自分が既に許されていることだけわかった。だが、それでも——謝らなければ。

「んぐ」

 風花は腕の中でもがいてみる。しかし、樹は腕の位置を変えただけで少しも力を緩めようとはしない。それどころか、却ってきつく抱きしめ覆いかぶさってくる。

 どれほどそうしていただろうか? 風花は今度は本気で身じろいだ。次第に苦しくなってきたせいもある。

 やっと少し腕が緩み、風花の踵が地に付いた。

「あ……あの、樹君?」

 切れ長の瞳が恐ろしいほどの真剣さで、風花を見下ろしている。

 樹は、普段のきちんとした身なりからは想像できない姿でいた。シャツの前ははだけ、髪を乱した格好で、風花の頬を自分の胸に押し付けている。風花の靴は半ば宙に浮いてしまっているが、樹ははだしのままだ。

「ご、ごめんね」

「……」

「私、ほんとに台無しにしてしまって、せっかく……」

「風花」

 ずいっと、顔が近づく。

「は……はい」

「ごめんなさい」

「え? あ……だからそれは、私が約束破ったからで」

「風花は少しも悪くない」

「……」

「俺が全部悪い。とんでもないガキだった」

「え? 違うよ。私が約束を」

 またしても急に、大きな掌と長い指が風花の頬を包み込んだ。

「これからいい男になるよう、もっと頑張る。だからもう離れないで。ずっと俺のそばにいて」

 息のかかる距離で樹は言った。前髪から一滴雫が垂れて風花の頬を伝い落ちる。

「……いいよ」

 穏やかな気持ちで風花はふわりと答えた。

「風花、本当?」

「本当。離れないよ? 離れたくないからここに来たんだもん」

「俺の言うのは、つまり……一生って事なんだけど」

「え? 一生? それはだって……」

「俺のお嫁さんになってください」

「え⁉︎」

「風花は俺のお嫁さんになるんだ」

 樹は風花の瞳を見据えて言った。

「え? ええーっ‼︎」

 風花の頭が真っ白になる。恥ずかしさのあまり顔を逸らそうとしても、がっしり頬を掴まれているので、視線を泳がすことしかできない。

「あああの、樹君?」

「イヤだなんて、言わせない。俺の悪いところは全部直すから。お願い、うんと言って。風花、大好きだ」

 樹は駄々っ子のように言い放ち、強く唇を押し付ける。

 その唇は火のように熱かった。風花の漏らす吐息を全て呑みつくすかのように多い被さってくる。

「んっ」

 ただでさえ走ってきて酸素不足だというのに、息もつかせぬ責めの連続に気が遠くなる。室内は空調が効いて涼しいのに、風花の体はカッと熱くなった。

 ——もうだめだ……なにも考えられない。

 さすがにぐったりとしてきた風花に、樹は不承不承体を離した。

「風花、返事は?」

 ——こいつは〜、さっきはお願いします口調だったくせに~。

 タレ目がとろんと樹を見つめた。

「お嫁さんになってくれないの?」

「うん……わかった」

「くれないの⁉︎」

 巻きつく腕の締め付けが再び強くなる。ただでさえもう体力が底をついているのに、これ以上は命が危ない。風花は夢中でぱくぱくと口を動かした。

「くれます。お嫁さん……なる」

「風花……よかった」

 ——ああ、もうしてやられた感じがするけど、もういいかな? 許してもらいたくて、嫌われたくなくてここに来たんだし……こうして会えたんだから、ずっと会いたかったんだから、これでいいんだよね。でも、もう限界。なんも考えられない……。

「あ、風花。しっかりして」

 へなへなと崩れ落ちる風花にあわせて、自分も尻餅をつきながら樹は風花を抱えなおした。

「すごく眠い〜」

「いくらでも寝てください」

「ん〜」

「愛してる」

「ん~……わかった……頑張りま〜す」

 もう風花は半ば夢の中だ。彼の大好きなタレ目が幸せそうにいっそう垂れ下がった。

 口づけ。

 今度は限りなく優しく。頬を摺り寄せながら、樹はやっと腕の中に戻って来た風花を抱きしめた。


「じゃあ、行こう」

 樹は風花を片腕に抱き、そのまま立ち上がる。突然の浮遊感に風花はちょっと目を開けてむにゃむにゃ言った。

「行くぅ? どこ? もう私……動けないよ」

「知れたこと」

 樹はL字に廊下を折れ曲がり、一番奥の自室のドアを開けた。

 バタン。

 後ろ手にドアが閉まる。

「ベッドですよ」


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