第27話 風邪 2
「風花⁉︎ なんで……そうか、おばあさんだな」
大儀そうに上半身を起こしながら樹は言った。いつも通りのいい声がかすれている。
「あ、寝てなきゃダメだよ。そのために来たんだから」
「近寄らないほうがいいです。咳は出ないけど」
樹は横になる事はなったが、腕を伸ばして風花を遠ざけようとした。風花はかまわず、ベッドのそばに進み、樹の目線になるよう床に座る。
「あのね、気を使わなくていいの。私、風邪なんて、幼稚園の時から引いたことないもん。自慢じゃないけど、小学校の時から学校、一日も休んだことないんだから。お母さんとお父さんが去年同時にダウンしたときも私、めちゃくちゃ元気で看病したんだからね。だから大丈夫!」
樹に口を挟ませないよう一気に巻くしたてる。
「それに、いつも樹君、私を助けてくれるんだから、タマには私も役に立ちたいんだもの。帰れって言ったら泣くもんね」
「……」
普段から頬や顎の線がシャープな樹だが、今は熱で消耗しているせいか、一段とそげたようにやつれている。普段はさらりとした前髪が乱れて額に張りつき、熱があることを示している。眼鏡を外した顔はあまり見た事がないが、いつも涼やかなその瞳は発熱のためか赤く潤んでいた。
いつもとは変わり果てたその姿に、風花は胸がきゅんと痛み、本当に泣きたくなってきた。
「絶対、帰らないから! 本気だもん!」
「……」
「……」
二人の視線がぶつかる。
「……参りました」
「よろしい。風邪っぴきはまず寝ること」
「……俺、小学校の時、風邪で三日間休んだから風花に負けた。それに泣かれると困るし」
「ふふ、そうでしょ? ここにいるからね?」
「ありがとう……」
「何かして欲しいことある? お腹空いてる? おかゆ作ろうか?」
「まだ欲しくない……」
「お薬は?」
「今朝、おばあさんの主治医に往診してもらって薬はさっき飲んだ」
「お熱は?」
「さっきは三十八度だったけど、今はわからないな」
「ん、じゃあ、とりあえずこれ飲んで」
風花は近くに置いてあるコップにスポーツ飲料を注いで手渡した。樹はおとなしく飲み下す。
「ここにいるから少し眠って」
「いやだ……風花と話す」
樹は駄々っ子のように言った。
「何言ってんの、元気になったらいっぱい話せるよ。ね?」
「お姉さんみたいだ……」
「当たり前でしょ、お姉さんなんだから」
「じゃ、顔をこっちに向けていて」
「はいはい、こんな顔でよかったら」
樹は口をつぐみ、心なしかゆったりとした表情で風花を見つめた。安心した風花はゆっくり樹を観察する。眼鏡を外した目元は繊細そうで、うっかりすると綺麗に見えてしまう。これは描きにくそうである。
樹は視力が悪いため、風花の顔がどこまで見えているかはわからないが、いつもの厳しい口元が影を潜め、視線がふっと緩んだかなと思ったら、ゆっくり目が閉じられてゆく。どうやら眠りかけているようだった。薬を飲んだと言っていたから、そのせいもあるのかもしれない。
こんな無防備な姿を晒す樹を、風花は見たことがなかった。きっと熱が上がってきているのだろうと思う。
心配は心配なんだけどなんだか嬉しいな。堂々とそばにいられるんだもん。わたし、いつの間にかこの人の事、すごい好きになってるんだ。
そげた頬を指でなぞると、ほんの少し目が開き、唇がわずかに動いた。微笑もうとしたのかもしれない。風花は愛しい幼子を愛撫するように額に手を当てた。
樹の眠りが深くなるまで、息を潜めてそばに付き添い、それから部屋の中を見渡した。
暖房はよく効いている。部屋の隅に小さな加湿器が置いてあり、微かに蒸気がのぼっていた。
ベッドサイドの机の上にはタオルと、薬の袋、三分の一ほど残ったミネラルウォーターのペットボトル。これは暖房のため、すっかり温まっている。後で取り替える必要がありそうだ。
二つ並んだ本棚には大型の本や写真集が並んでいた。机の脇には大きな最新型のデスクトップのパソコン。その隣の洒落た棚にはコンポと大量のCDがきちんと整理されているが、飾り物の類は一切無かった。
あいかわらず、あんまり生活感の無い部屋だなあ。高校生男子の部屋ってもっと散らかってるんじゃないの?
樹は既に規則正しい寝息を立てている。飛び出していた肩を布団でくるみ、もう一度額に手を当てると、さし当たって、ここでできることはなくなった。
そっとドアを開け、リビングに行く。
リビングもきちんと片付けられていて、埃一つ積もっていなかった。ここも空調が効いていて寒むくはない。カウンターの向こうのキッチンにも汚れた食器は無い。おばあさんが片付けたのだろう。
——まず、お母さんの持たせてくれたものを冷蔵庫に入れて、中身を確かめて。
やることが見つかった風花は、いそいそとキッチンに入って冷蔵庫を開けてみた。ラップをかけた器がいくつか入っている他はほぼ飲み物だけ。部屋と同じような殺風景な中身である。
母のタッパの中身はおかゆにするためのご飯と、豆腐、生姜、葱、柔らかく煮た豚バラの塊といったようなものだった。生姜や葱は体を温め、生姜湯や葱湿布にも使える。
——母よ、ありがとう。
次は洗面所。悪いと思ったが、世話をするために来たので覗いてみると、洗濯機の中にシーツと着替えたモスグリーンのパジャマが入っていた。横の棚を開けていくと、観音開きの戸棚に洗剤が並んでいる。
——やることみつけた。
早速洗濯機のスイッチをONにする。
樹が目を覚ましたとき、ブラインドの向こうはすっかり暗くなっていた。
部屋を見ると、まず目に入ったのは部屋中に干されたシーツやタオル、よく見ると樹の着替えまで干してある。
椅子を余分に運び込んで、その間にベランダから探し出してきた物干し竿を渡して洗濯物が干してあるため、まったく違う部屋に見えた。
そして、シーツの向こうで風花が樹の机に向かっている。熱心に本を読んでいるようだ。
「風花?」
「あ、目が覚めた? どれどれ」
風花がシーツのテントを掻い潜りながらベッドの方へやってきた。
「満艦飾……」
「あ、これ? ヒマだったから洗っちゃった。この加湿器じゃちょっと小さすぎるかなって思って、ここに干したの。暖かいしね」
「今何時?」
体はまだ気だるい樹だったが、自分の部屋で目が覚めて、そこに風花がいるということに、不思議な充足を感じる。
「八時。たっぷり三時間は寝てたよ。どぉ? 気分は。熱は……まだあるね」
風花は湿ったひたいに手を当てた。
「さっきよりはいいね」
「そお? ああ、大分汗かいてるねぇ。着替えた方がいいよ。おばあさんの置いてってくれたのがそこにあるし。それから体も拭いたほうがさっぱりする」
「うん……」
樹はゆっくり半身を起こした。
「待ってね、蒸しタオル持ってくるから」
風花が電子レンジで蒸しタオルを作り、部屋に戻ってくると、樹は布団から抜け出し、ベッドに腰掛けてミネラルウォーターを飲んでいた。これはぬるくなっていたものではなく、風花がさっき取り替えてきたものだ。
「お待たせ。あ、起き上がれるんだ。大丈夫?」
蒸しタオルを渡しながら風花は尋ねた。
「まだちょっとふらふらするけど」
紺色のパジャマのボタンを外しながら樹は風花を見ている。
「ん? なに?」
「俺のハダカ見たい? 俺はいいですけど?」
「や! 私別にそんなつもりじゃっ……ごめん! え、えーと。じゃあ外で待ってるから! しばらくしたら見に来るし」
自分が干したシーツに絡まれながら、風花はわたわたと出て行った。
「ふふ。可愛い」
樹はもう半分くらい体が癒えたような気がしていた。
数分後、風花がおどおどノックして入っていくと、樹は上半身裸で腕を拭いているところだった。パジャマは新しいものに着替えたらしく、足元にブルーの塊が丸められている。
「きゃ! まだだったんだったら言ってよぅ」
「風花」
再び部屋を出ようとする風花を樹が呼び止める。
「なに?」
「背中拭いて」
「え?」
「汗で、気持ち悪いから、背中拭いてほしい」
「そ、そぉ? 背中……背中なら……うん、わかった」
相手は病人なんだから、と開き直って風花はタオルを受け取り、背中を向けた樹に向き合った。
「い、いきます」
広い背中。肩甲骨がごつごつとしている、男の背中。風花はタオルで丁寧に拭いていった。
——なんかドキドキする。
「ん……気持ちいい」
「そぉ? だいぶ汗かいてたもんね。はい、おしまい!」
最後に腰のあたりをなぞって清拭は終了だ。
「すっきりした。ありがとう」
ひょいとそばのパジャマを羽織り、風花の方に向きながら樹はにやっと笑った。前はまだボタンをかけていない。
「何真っ赤になってんの?」
「べべべ別に?」
——絶対ワザとパジャマの前止めてないよね!
「外、真っ暗だよ。風花、そろそろ帰らなくていいの? 俺はもう平気」
「まだ大丈夫。何か食べる? お薬飲まないとでしょ?」
「……うん、少しなら食べられそうだ」
「すぐ用意するよ。あ、その前にシーツ替えるよ。ちょっと机の方に移動できる? 立てるかな?」
「支えて」
そういうと樹は立ち上がり、自分より三十センチも低い風花にしなだれかかった。むろんわざとである。病気は時として武器になる。
「むむ」
「意外と力持ちなんですね?」
「そうなの。風花さん、力持ち。よいしょ!」
樹を座らせると、風花は手早くシーツを替え、落ちていたパジャマの塊と共に丸めて部屋を出てゆく。しばらくして戻ってきた時には、両手に持ったお盆の上に卵粥が盛られていた。消化にいいように葱が細かく刻んでふりかけられている。
「どーぞー」
「ありがとう。さっき、この本見てたの?」
「うん、それ外国の植物図鑑だね。解説の意味はわかんないけど、花や実の細密画がとてもキレイだったから」
「ボタニカルアートっていうんだ。すごいよね」
「やっぱり、アートだったんだ。すごいね、見てて飽きなかった。学術書みたいなのに、こんなにきれいに描けるもんなんだね」
「うん」
樹は机に向かってお粥を食べ始め、風花はベッドにかけてあったカーディガンを肩にかけてやった。
「おいしい……」
「よかった〜。食べたら生姜湯とお薬飲んで、も一度寝るんだよ。おばあさんには電話したから」
「はい、お姉さま」
「そんな口きけるんならだいぶ回復したね」
「優秀な看護士さんのおかげでね」
食べ終わった樹は薬を飲み、洗面所で身の回りの事をしてから部屋に戻って来た。すかさず風花が体温計を渡す。少し頬の赤みが取れたようだ。
「歯、磨いた? まだお風呂はダメだから。あ、熱計れたね? 三十七度八分。ずいぶん下がったね。コレなら大丈夫」
「風花、頼みがある」
「何?」
「今日は帰らないで。そばにいて」
「は……え?」
「冗談。言ってみただけ。もう九時ですし、家に電話して誰かに迎えに来てもらって。申し訳ないけど送っていけない」
「そんなのはいいんだけど。けどでも……」
「俺ならもう大丈夫だから」
布団に潜り込んでいる樹の表情は窺えない。
「わかった」
「え?」
樹が布団をまくったまま振り返った。
「いいよ。一晩ついていてあげる」
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