第26話 風邪 1

 その日の午後、玄関脇の電話が鳴ったとき、風花は自分の部屋でスケッチブックを広げていた。

 この春、最初に出された課題のイメージをまとめていたのだ。しかし、ドアが開けてあったので、階段下に置いてある電話から母のよく通る声が響いてくる。

「あらあらまぁまぁ。それは大変ですわねぇ、きっといろんな意味でほっとされたんですよ。あらやだ! まだお祝いを申し上げておりませんでしたわね、難関突破おめでとうございます。ご立派ですわ〜。それでご容態は? まぁ、かわいそうに、私でできることでしたら……え? ええ⁉︎ ま、そうなんですか? ええ、勿論です。すぐ行かせます、ぼんやりした娘ですけど……少しでもお役に立てば……いえ、いいんですよ、ちょうど学校は春休みですし。丈夫なだけがとりえですし。はい……はい。それではごめんくださいませ」

 ——む、何かヒトをこき使う算段をしているな、母め。

 途中から聞き耳を立てていた風花は、適当な言葉がつるつる飛び出す母親の応対に、つい鉛筆をとめてしまっていた。

 ——すぐ私を行かすって、何よ? どんな使いっ走りを目論んでいるのやら……よし、ここはキツパリ断っちゃる、私は今勉強中ですから!

 勉強中とははなはだ疑わしいが、芸大生にとって、スケッチブックと鉛筆は必携アイテムである。

「風花ぁ、ちょっとおりてきなさ~い」

 案の定、電話を終えたらしい母親が、二階に向かって大声で呼ばう。そらきた、と風花は思った。

「今忙しいの~! 勉強中です」

 風花も負けずに大声で返す。

「何言ってんの! 樹君のおばあさんから電話があって、樹君、風邪でダウンしてるんだって!」

「へあ⁉︎」

 風花はスケッチブックを放り出し、階段を駆け下りた。

「お母さん⁉︎」

 ほらね、とほくそえむ母を尻目に風花は必死だった!

「何⁉︎ どおいうこと? おととい一緒に合格発表見に行ってご飯を食べたとこだよ! 昨日のメールだって一言、お休みだけだったし」

 メールが短いのはいつものことだから、風花は何も気にしていなかったのだ。風花も樹もあって話すことの方が大事だと思っている。

「風花に気づかれないように、無理したんじゃない? おばあさんの話では、昨日は熱が上がりだして、今朝は四十度まで上がったんだって。おばあさんが昨日から泊り込んでいるんだけど、樹君がおばあさんを気遣って、家に帰るように言って聞かないって」

「そんな……」

「言い出したら聞かないって、おばあさん困ってしまって。そんで、樹君に内緒で風花に少しだけでも来てもらえないかって。インフルエンザではないからうつらないと思うからって。風花、すぐに行って来なさい。なんかあったら、お母さんも助けに行くから」

「そうする!」

 風花が着替えに二階へ上がり、髪を後ろで括っておりてきた時、母は台所でたくさんのタッパーを並べていた。作り置きのおかずが入っているのだ。

「風邪は部屋を暖めて、湿度を高めにして。水分を取らせて安心させてよく眠らせるのよ」

「わかった」

「おかゆは作れるわよね。おばあさんがいくらか作り置きしてあるらしいけど、これも持って行ってね。食べられるようだったら少しは食べたほうがいいし。昨日は食事を受け付けなかったっていうから」

「そんなにひどかったんだ……私に言ってくれたらいいのに」

「いかにも、辛抱強そうだもんね、樹君は……いろんな意味でもさ。かわいそうに。あ、それからね」

 母は紙袋に色々詰めながら、最後に思いついたように付け足した。

「なんだったら泊まって来てもいいわよ。お父さんには適当にごまかしといてあげるから」

「っはぁ⁉︎」

「樹君、昨日うなされて、風花の名前呼んでたんだそうよ。泣かせるわよねえ……こんな鈍感な娘を愛してくれてるんだもんねぇ? 風花?」

「えーっと、これとこれでいいかな」

 返答に窮した風花は、冷蔵庫から飲料を取り出してカバンに詰めている。

「はい、じゃあこれ。樹君によろしくね、いってらっしゃい。がんばんのよ」

「……いってきます」


 前カゴいっぱいに荷物を詰め込み、風花は自転車に飛び乗る。

 ——なんで樹君、そんなことに……。

 一緒に合格発表を見に行った時は元気だった。

 いつものように、自分の受験版語を見つけても、大きな感情も表すこともなく、しれっとしていた。風花のほうが興奮して泣き出し、どっちの合格発表だかわからないね、と言われたのはつい一昨日だったのに。

『去年も同じようなことやってたね。でも、これでも喜んでいるんですよ、俺は』

『ぐす、よかったねぇ、よかったぁ。おめでとうねぇ』

『ありがとう』

『これで、一緒に学校へ通えるの?』

『時間が合えば。まぁ、コレで少しは俺も安心できるかな?』

『なによぅ~、私何にも悪いことしてないし~』

 涙と鼻水を拭き拭き風花はい言い返した。

『気づいていないところが悪いところ。おねーさん』

 そんな風花に優しく寄り添ってくれたのに。その暖かさにほっこりと感じていたのに。

 ——考えたらあの時から少し熱かったのかも。片付けや準備があるかもって思って昨日は電話もしなかったし。お休みメールだけで……でも、もしかしたら、本当は伝えたかったのかも! 私があっさりお休み返ししただけで終わっちゃったし。電話してくれたらすぐ駆けつけたのに……信用されてないんかなぁ?

 樹の家までは自転車で十五分しか離れていないため、風花が思いを巡らせているうちに、小さな自転車はマンションに着いた。

 エントランスで暗記したパーソナル番号を押す。すぐに解除されたのでおばあさんがまだいるらしい。

 エレベーターで最上階まで行くと、案の定、エレベーターホールに樹のおばあさんが待ち構えていた。風花とは今ままでに二度ほど面識がある。いつ見てもシックな装いが似合う老夫人であるが、今日はいつもの笑顔がなく、柔らかい皺の世った顔に心配そうな色を浮かべていた。

「まぁまぁ、風花ちゃんきてくださってありがとう。ごめんなさいね。わがまま言って」

「いえ、お知らせくださってありがとうございました。あの、それで樹君の様子は?」

「ええ、午前にお医者さんに往診してもらって薬を飲んだから、熱は少し下がったんだけど、ものが食べられなくってね。でも、私に移したり疲れるのを気にして、帰れって聞かないのよ。しまいには大丈夫だから起きる、とまで言い出すから……あの頑固者!」

「そうなんですか?」

「しばらくでいいから、ついててもらえる? きっと樹も風花ちゃんにいてもらいたいって思ってるんだけどね。そういうこと言わないのよあの子。お宅への電話も買い物ついでに外でしたのよ。強がりなんだから、まったく」

「私がきたからには大丈夫です! 私ヒマだし、カラダ丈夫だし。食べさせて寝かせます」

 風花は胸を張って言った。

「ごめんなさいね、甘えさせてね。私がいたらゆっくりできないようだし、あの子。何かあったら電話してくださる? 私は一旦家に帰って、何かあったらすぐつもりだから」

「はい、お任せください!」

「ありがとうね。風花ちゃんもお母さんもとってもいい人だわ。こんな人たちが周りにいてくださって、ほんとにありがたいわ。一時間ほど前に着替えさせて、シーツも替えたの。マスクも手袋も消毒液もあるわ。なんでも好きに使ってね。ただの風邪とはいえ、風花ちゃんに移ったらそれこそお母様に顔向けできないから、それだけは気をつけてね。それじゃ、お願いします。玄関は開いています」

 何度も頭を下げて、彼の祖母は帰っていった。


 彼女を見送ってから風花は静かに玄関のドアを開けた。

 中は物音一つしない。

 まっすぐ廊下を突き当たるとリビングだが、風花はそこには入らずに、手前の廊下をL字に曲がり、その一番奥のドアを静かに開けた。初めて入る樹の部屋だ。

 本棚と机以外、ほとんど家具らしい家具のない無機質な部屋。中は暖かいのに薄いブルーの壁紙のせいで室内は寒々と感じる。カーテンが引いてあり、部屋は薄暗かったが、一番奥のベッドに横たわる人が見えた。端正な横顔を見せ、目を閉じているようだ。

 彼は気配に気づいたのか、驚いたようにこちらに顔を向けた。

「誰⁉︎」





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