第4話 そよ風 3

 期末テスト前の放課後は慌しい。

 いつもなら部活動へ向かう生徒達も、一斉に帰り支度で廊下に溢れかえる。

 公立ながら進学校として名を馳せているこの高校は、テストにも真剣に向き合う生徒が多く、試験前の放課後を無駄に過ごすものは少ない。

 風花は英語の教官室にノートを返してもらいに階段を上っていた。英語の教官室は二年の教室の端にある。

 ——あ~あ、この期末で志望校とか絞るんだろか? みんな色々考えて予備校とか行ってるんだから、私もそろそろ動き出さないといけないなぁ。

『俺はお前に描き続けて欲しいけどな。』

 おととい美術室で会った時小川は挑発するようにそう言った。

 ——小川君はすごい、才能があって自分の進む道をとっくに定めているんだもの。それに比べて私はなぁ……。

 ぼんやりと踊り場を抜け、二階から三階へと階段をのぼりかけた時、体の大きな男子生徒がものすごい勢いで上から駆け下りてきた。

 肩にかけた大きなスポーツバッグが体重四十二キロの風花にぶつかる。

 小さな体は文字通り吹っ飛ばされ、廊下に思いっきり尻餅をついてしまった。

「いったぁ!」

「あっ! 悪い!」

 よほど急いでいたのだろう、男子生徒はそう言い捨てると後ろも見ずに走り去ろうとする。

「待てよ黒木!」

 右手から低い声がした。

 風花がへたり込んだまま声のした方を見ると、清水樹がいて風花を突き飛ばした男子生徒を鋭く呼び止めた。

 背こそ高いが体の容積なら完全に負けているのに、少しも動じた風に見えない彼はいつものように冷たい表情のままだった。

 ただ、目が―。

 いつも何事にも興味のなさそうなその目が眼鏡越しに、ヒヤリとするような怒りをたたえ、同級生らしい男子を見据えている。

「な、なんだよ、清水」

「女の人突き飛ばしといて、そのままか。ちゃんと謝れ」

 樹の視線から逃れるように、黒木と呼ばれた男子は風花のほうに振り返った。

「や、や、清水君、私なら大した事ないから、別にそんな……」

 よろよろと立ち上がりながら風花は、大きな男子生徒二人の間に入ってとりなした。今まで気がつかなかったが、右の足首が少し痛い。変なふうに捻ってしまったようだ。

「謝れ」

 風花を無視して樹が厳しく迫る。通り過ぎる生徒達が好奇の視線を投げて行いった。

「……ゴメン、大丈夫? 悪かったよ」

「あ、大丈夫です。気にしないで」

「俺、急いでいて……。ほんとにゴメンよ、じゃ!」

 頭を下げ、何だか尻尾をまいた様子で黒木が走り去る。

 風花は呆然と見送った。

「大丈夫ですか? 吉野さん」

 カバンを拾い上げて風花に渡しながら、見下ろしてくる樹の目にはもう怒りの色はなく、少し冷ややかないつもの彼の眼差しだった。心配しているようにはとても見えない。

「あ……ああ、多分。ちょっとぶつけて痛いくらい?」

「どこに行くんです?」

「えっと、英語教官室にノートを取りに行こうとしてて」

「すぐに保健室に行ったほうがいいですよ」

「ん~、いいよ、すぐそこだし、もう帰るから」

「そうですか、じゃあ気をつけて。失礼します」

 軽く目礼して樹が階段を下りてゆく。

「はぁ〜」

 風花は大きく息を吐いた。

 ——なんだかよくわかんない人だなあ。


 樹はつい一ヶ月ほど前、突然風花に好きだと告白した後、風花の返事も聞かず、態度も変わらずというか、顔を合わすこともほとんどないという態度の不思議君なのだ。

 ——あの人本気で私に告白したんだろか? とても恋する少年の態度に見えないんだけど? 私がチビで特に見栄えのするほうでもないんで、結局からかわれかのかな? う~む……男の子なんてよくわかんないわ〜。っていうか、足……結構痛くなってきた……ような? ま、いいか。

 風花は大したことないと自分を励まし、三階の教官室でテスト範囲のノートを返してもらい、ついでに一つ二つ質問をしてから家路に着いた。

 ——ちょい時間食っちゃったなぁ。それにしてもなんか足、けっこうつらくなってきた感じ。嫌だなぁ。

 校門を出て少し歩いたところで、さっきひねった左足がだんだん痛みを増してきた。まともに地面に下ろせないようになって風花は足を引きずりながらゆっくり歩く。

「い、いたたた」

 街路樹の陰にあるベンチに座って様子を見ると、右の靴がきつくなっているのがわかった。腫れているのだ。

——な、なんかマジに痛いよ~、でも駅まで歩くしかないし。友達もみんな帰っちゃったし、自力で何とかしないと。頑張れ私!

 憂鬱な気分にすっかり頭を押さえつけられながら、風花はゆっくりと立ち上がった。約一キロの駅までの道をとぼとぼと歩き出す。


「だから保健室に行ったほうがいいと言ったでしょう?」

 後ろからつっけんどんな声がしたと思ったとたん、カバンがひったくられ、視界が白いもので遮られた。

 そのまま目線を上に上げていくと、開襟シャツの襟が見え、大きな喉仏、形のいい顎、への字に曲げられた唇、そして極めつけに超不機嫌そうな樹の瞳とぶつかった。

「えーと……?」

 風花が呆然としていると、今度は目の前を黒い髪がさらっと横切っていった。

 樹が風花の足元にしゃがみこんで靴の上から足に触れている。

「あ~あ、やっぱり腫れてきましたね? これは痛いはずです。早く冷やさないと」

「え? あ、あのっ、大丈夫だから。駅まで行ったら何とかなるし」

「その足でどうやって駅まで行くんです? 捻挫をナメたら後にひびきますよ。さぁ」

 言うなり清水はしゃがんだ姿勢のまま広い背中を風花に向けた。

「さぁ? さぁって……ええっ⁉︎」

 ——これは、この体勢はもしかして?

「何やってんです? さぁ早くおぶさってください」

「おぶ……」

 おんぶというのもものすごいが、いかにもめんどくさそうな口ぶりに、風花はたじろいでしまう。

「い、いいよ。そんな、恥ずかしいし……ホントに大丈夫だから! 気持ちだけで……あの」

 おろおろと逃げ道を探す風花に清水は怒ったような、いらだったような眼差しを向けた。そして――。

「ひゃっ⁉︎」

 いきなり風花は横抱きにされていた。そのままのっしのっしと大またで運ばれる。さすがに本通りより一本隣の川沿いの道を選んでくれたようだが、お姫様抱っこというにはあまりに乱雑だ。まるで荷物みたいな扱いである。あまりの展開に風花の頭の中が真っ白になった。

「ひわわわわ! し、清水君! 下ろして。こんなの!」

「少し黙っててくれませんか? おんぶが嫌だというからこうしてるんでしょう?」

「わかった! わかったからおんぶ! おんぶにして! お願い!」

「はいはい」

 樹は平然と風花をゆっくりと地面に下ろし、さっきと同じように背中を向けた。

 恐る恐る辺りを見回すと、幸い下校時間を過ぎているせいか、すぐ近くに学生らしい姿はなかったが、駅に近づけばどうかわからない。少なくともこの川沿いの道より人通りはあるだろう。

 しかし、この気難しそうな男はテコでも動きそうにない。

 ——えーい! 毒くらわば皿まで!

 半ば以上やけっぱちで風花は体を白いシャツにあずけた。

「うううう、オモクナイデスカ?」

 黙ったまま、大またで歩く人の顔は見えない。

「あの〜カバンぐらい持ちますけど……」

 二つカバンは、風花のお尻の下で清水が握っている。

「吉野さん面白いなあ。吉野さんがカバン持ったって俺の感じる重みに差はないと思うんだけど」

 肩越しにさっきより少し柔らかみを帯びた声が応じる。

「ぐ……そ、そりゃそうだけど、気休めぐらいになると思って……」

「はいはい」

 どんどん駅に近づいてくる。散歩するお年寄りがちらちらと二人を見ていく。風花は頬がひりつくのを感じた。

「重さなんか感じない。あなた、ほんとに十七歳? ちっこすぎる」

 樹の言葉はいつも唐突だ。

「うう……どうせミクロですよ」

「ミクロねぇ」

 彼は笑っているのだろうか?

 ——この人いい声してるなあ。って感心してる場合じゃない! あれに見えるはウチのガッコの人だ。ああ、なんかもう、どうしていいんだか……。

 駅前通りはすぐ近くだ。風花は焦った。

 ——とにかくうつむいていよう。そうすりゃ少なくとも誰だかわかるまい。おひめさま抱っこよりなんぼかマシよね、そう思おう。

 風花は樹の頭で自分の顔を隠すように額を伏せた。なんだかもうどうにでもなれと開き直った心境だった。

「吉野さん?」

「ハイナンデスカ?」

「おとといの四時間目、美術室にいたでしょ? 小川さんと」

「ん? えーと……あ、そうだった。自習だったんで美術室に行ったんだ。何で知ってるの?」

「あの時俺、体育でグランドにいたから」

「あ、そうなの?」

「すみません」

「え?」

「前に約束したのに。小川さんのことはもう言わないって」

「あ、そうか。いいよ、別に」

「なんで?」

「なんでって、別に理由はないけど……」

 言いながら風花は少し顔を上げた。

「……」

 見慣れた道のはずなのに、そこには別の風景があった。いつもの通学路。川沿いの並木。でも、風花の背の高さでは土手の下から向こう岸のビルの屋上は見えない。その向こうの山並みも。雲も。

 初夏にしてはまだ空気が澄んでいて、遠くまでよく見通せる。

 背の高い樹はいつもこんな風景を見ているのだ。

 ——ちょっと視点を変えるだけでいろんなものが見えるんだなあ。

 ツバメがついっと青空を横切っていった。子育ての時期は終ったはずだからあれは親なのか、巣立った雛なのか?

 心が澄んでいろんなものがよく見えてくる。それぞれが自分を主張しながら、でも全体の調和が取れている。

 ——なんだろう? この不思議な感覚。風景がまるでちがって見える。前にもこんな事あった……ような?

 風景。

 四角いビル、空を低く横切る電線。

 風花が中学生の時描いた風景画が鮮やかに頭の中に蘇ってきた。前に樹が好きだといってくれた昔の絵。

 ——あの時は確か新しいマンションが建って、そのせいで周りの町並みがかえって引き締まって見えたんだっけ? そんで描く気になったんだ……あの絵を。

 絵。

 絵を描く人。

『俺ははじめてお前の絵を見て負けたと思ったんだ』

 絵は見えているものを、心に映ったものを描くもの。

 線、色、形でものや思いをキャンバスに写し取る。

 自分で選んで、描いて、調和させる。

『俺はT芸大に行く。お前に感謝してる』

 ——ああ、そうだ。美術室。テレピン油の匂い。カンバスに向かう私。絵を描くのが何より好きだった。なんで忘れようと思ってたのかな?

「吉野さん?」

 ——あたしも絵を描きたい、描き続けたい……。

 存外居心地のいい背中で風花はそんなことを思っていた。


 駅に着く。

 午後もまだ早く、人通りは結構あったが、さっき心配したほど変な目で見てくるものは誰もいなかった。

「ここで少し待っててください」

 小さな広場のベンチに風花を下ろし、清水は駅前の薬局に入っていく。

 しばらくして小さな包みを持って戻ってきた彼は、風花に靴と靴下を脱ぐよう指示した。

「早く冷やしておくと後が楽だから」

 そう言いながら素足に湿布を巻いてゆく。馴れた手つきだ。

「うん」

 風花はもう何も気にならなかった。湿布の冷たさが腫れた足首に心地よかった。

 改札をぬける。エレベーターを初めて使った。

「あの……ありがと」

「どういたしまして」

 箱の中で二人の目が合った。





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