第28話 風邪 3
「……本気で言ってるの?」
沈黙の後、樹は尋ねた。相当驚いたらしい。
「うん、実はお母さんにも許可もらってるんだ」
「うわ、それじゃあ信用落とせないじゃないか」
樹は急に脱力したようにシーツに沈み込んだ。
「んん? お母さんは本気で心配してたんだって」
「ええ、わかってます。でも本当にいいの?」
「いいよ。心配だし。リビングのソファで寝られるし」
「風花、夕飯は?」
「さっき、樹君が眠っている間にすませた」
「……そう」
「ちょっとリビングの点検してくるね。洗い物もあるし」
「待って、風花、今夜はここで寝て」
樹は体をずらし、ベッドを開けた。
「へ? それはちょっと……」
風花はさすがにそこまでは考えていなかったので、両手を振って答えた。
「ダメ、ここまで来たんなら乗りかかった舟でしょ? 最後まで俺の面倒見て。幸いダブルサイズのベッドだし。風花、風邪ひかないんでしょ? 俺だって移したりはしないから」
「や~、恥ずかしいよ。それに……」
「何?」
「私、ゆるい服装でないと眠れない人だし。お風呂とか結構真面目に入ってから寝る方だし」
「全部用意できる。着替えは俺の新しいTシャツと短パンがそこに入ってるから。風呂に入ってそれに着替えればいい」
「い、いやでも……」
——乙女として、そんなことホイホイ引き受けてもよいものか? お母さんだってさすがに一緒に寝るまでは思ってないから、お泊まり許してくれたんだろうし……うわー、どうしよう……。
「俺が風邪っぴきだから嫌がってるの?」
ぐるぐるしている風花を樹は下から覗き込んだ。いつも風花が無意識にしている仕草である。もちろん樹はその威力を知っている。
「だったら、仕方ないです……」
「わぁ、もう違うって! わかった一緒に寝ます!」
「……」
「って、なに急に起きてんの?」
「はいコレどーぞ」
樹は病人とも思えぬすばやさでベッドから抜け出し、壁に作り付けのクロゼットからTシャツと短パンを出して、風花に差し出した。
「残念ながら下着までは用意できないですけど」
「下……⁉︎ な、なに言ってんの? わかった! 着ます! わかったからベッドに戻って!」
差し出された着替えを手に、風花はまたわたわたと部屋を出て行った。
「……ああ、操作しやすい人だ」
病人にしては悪知恵が回りすぎる樹である。
「ちゃんと寝てる~?」
風花が部屋に戻ってきたのは十時を回った頃だった。
素直に樹の言に従ったらしく、ちゃんとぶかぶかのTシャツを羽織っている。あれから大急ぎでフロを沸かし、諸々の後片付けをしてからゆっくり風呂に入ってきたらしい。その間に下着を洗って乾燥させたから、とりあえず清潔である。
「ええ、待っていましたよ」
「戸締りと、お部屋のチェックはしてきたよ。家に電話もした」
「お母さん、なんて?」
「しっかり看病するのよって」
「ふーん……」
「それにしても、お風呂も大きくってかっこよかった~、家のもあんなお風呂だったらいいのになあ」
「どうぞ毎日でも入りに来てください。髪は乾かした?」
「うん」
「じゃ、どうぞ」
樹は布団の端を持ち上げ、風花に入るように促した。部屋は電気を落としているが、心なしか微笑んでいるようである。
「……」
「早くしないと寒いよ」
「あ、ごめん。お、お邪魔します……」
「いらっしゃい」
女は度胸だと、心を決めてベッドに滑り込んだ風花に、樹はすっぽりと布団を被せた。上質の羽根布団なのだろう、ちっとも重さを感じない。
——ひー! なんだかすごい恥ずかしい体勢だ……これ。乙女の危機、危機なのか?
「心配しなくてもなにもしやしないよ。ていうか、できない。残念だけど」
「し、しんようしてますし」
「信用ねぇ……念のため少し離れてね。頼んだくせに今更だけど、風邪は移したくないし、俺の理性のためにも」
「わかった」
風花の部屋の物の二倍はある大きなベッドなので、二人で寝ても体はくっつかないですむ。寝心地のいい上質なマットレスだった。
「念のために言っとくけど、今日だけ特別なんだよ? いい?」
「はいはい、風花は風花だもんね。ふ……安心したらまた眠くなってきた……普段こんなに眠る奴じゃないんだけど」
「熱で体が消耗してるんだよ、お薬も飲んだし」
「せっかくこうしてるのに、もったいないな……キスもできない」
「バカ、病人なんだからおとなしくなさい」
「はいおねーさん、お休み……」
「お休み」
風花も仰向けになって目を閉じた。
——ん?
暖かい布団の中で何かがもぞもぞ伸びてくると、それは風花の掌を探って繋がれた風花がはっと横を見ると、樹は既に端正な横顔を見せて目を閉じている。
——ま、コレくらいは許しちゃるか。
そう思ったのを最後に風花も瞼を閉じていた。
「ん? ここどこ?」
天井が自分お部屋の見慣れたものと違っていた。
——はっ、そうだ! 私、樹君家にお泊まりして……あれ?
がばと起き上がると既に陽が高く、時計は八時を指している
——じゅ、十時間も寝てた? 人んちで……しかも、好きな男の子の横でこんなに爆睡できるんだ。私って、もしかしてすごい大人物かも……で、樹君は?
ベッドの主は消えており、昨夜干した洗濯物もきれいに片付けられていた。
「樹君?」
リビングに行くと、ちょうど樹がバスタオルで頭を拭きながら洗面所の方からやってきたところだった。シャワーを浴びていたらしい。パジャマではなく、白いTシャツと黒のラフなパンツを身につけている。
「あ、起きたの? おはよう」
「起きたのって、樹君こそ大丈夫? 熱は?」
「ああ、さっき計ったら36度5分だった。俺の平熱」
「でも、急に動いたりしたらまた熱が上がるよ」
「わかってるよ、寝てばっかりだったんで気分転換にさっぱりしたかっただけ。今日一日は家でおとなしくする」
「ほんとうに?」
「本当。だって春休みだし、風花といろいろしたいことあるしね。早く風邪、治さないと」
「ん~、そうだね」
風花は機嫌よくうなづいた。
「やっぱり元気がいいよねぇ」
「……俺のTシャツ、よく似合う」
視線を宙に泳がせて、樹が仕方なさそうに笑った。首まわりが大きすぎて鎖骨が丸見えなのだ。しかも起き抜けなので風花は下着をつけていない。
「顔洗ってきたら? 朝ごはんつくってくれるんでしょ?」
「あ、そか。ちょっと待ってね」
「歯ブラシの予備は左の棚ですから」
「はーい」
裸足の足にスリッパを引っ掛けて、ぺたぺたと歩いてゆく風花は、どう見ても無防備そのものだ。後ろから襲いかかったら、あっという間に食べられてしまうだろう。
——やっぱりわかってない、あの人。目が覚めたら間近にある寝顔を見て、俺がどんな気持ちになったかなんて、想像もしないんだろうね。
短パンがハーフパンツになっている後姿を見送りながら、樹は小さなため息をついた。
——熱が下がったらただの男なんだなんて、これっぱかしも知らないんだろう。
苦笑を一つ落として、樹はポットに紅茶の葉を入れた。
「わー、この食パンおいしいね~、どこで買ってるの?」
トーストにかぶりつきながら風花は満足そうに笑った。テーブルには消化のよい、体を温める食物が並べられてあった。風花の母と、樹の祖母が作り置きしたものの中から、風花が選んで温めたのだ。卵に牛乳を入れて小さなオムレツにしたのは風花である。
「さぁ、おばあさんが持ってきたものだから、よく知らない」
「このジャムもおいしい~、卵はどぉ?」
「よい加減ですよ。奥さん」
「なんだって~?」
「いいや、なんでもない」
「そういや、はいコレ。郵便受けに来てたよ、合格通知。まだ封を切ってなかったんだ」
「ああ、見に行ってしまったし、そのあとはこの有様だったしで。どれどれ」
薄いブルーの封筒を樹は取り上げる。この中に大切なことが書いてあるのだ。風花は無邪気に喜んでいる。
「よかったねえ、ほんとに。難関突破したんだもの、そりゃ熱も出るよね~」
「そんなにシャカリキには、なってなかったつもりなんだけど……」
「もう! 合格した人はみんなそういう〜」
「……みんな?」
聞きとがめて、鋭く樹が突っ込んだ。
「ん? ああ、えーと、小川君も合格したっておとつい電話あったから」
「ふーん、彼はT芸大?」
「うん。彼もすごいよね。超難関校だもん。ちょっと遠いけど」
「そうだね」
首都圏にある有名芸術大学名を聞いて、樹はほっとしている自分にうんざりする。
「今から下宿探しだって言ってた」
「大変だね」
「あのー、それから……」
風花が椅子の上でもじもじと言い出した。
「なんですか?」
風花の言い出すことに予測がついた樹は、ジロリと眼鏡を押し上げた。
「彼が……小川君が、向こうに行く前に一度話がしたいって」
「ふーん……で?」
すっかり元の冷徹さを取り戻した瞳は意地悪く風花を見据える。濡れた髪を梳かしつけたせいで、前髪がギザギザになっており、よけい鋭い印象を与える。
「でっ……って。意地悪、隠すのイヤだから話したのにぃ」
「まだ何も言ってないでしょ?」
——目が言っての! 目が!
「うう……ダメかなぁ?」
「会いたいの?」
「そりゃ、色々話したいこともあるし。その……同じゲイジュツの道を行くものとして」
——小川さんはそんな話がしたいんじゃないと思うけどなぁ。
「ダメ?」
「わかった。いいよ。三十分だけならね。三十分経ったら迎えに行くから。それでいつ会うの?」
「予定では今日の午後……って! たった今、今日はおとなしく家で過ごすって言ったばかりじゃない! ダメだよ」
「ふむ、じゃあ、朝食が済んだら風花は帰りなさいね。今は送ってはいけないけど、午後には迎えに行くから」
「違〜う! 今日は一日おとなしくするって約束……」
「約束した覚えはないよ」
「うわぁ! 詭弁だぁ。心配してるのにぃ」
「心配ご無用。とにかく、そういうことだから」
樹は断言した。
「私は大丈夫だって」
「いいですね」
もうこれ以上は言わさないという目つきで樹は風花を黙らせる。風花は悔しそうに唇を尖らせた。
——昨日まで熱でダダこけで、ふにゃふにゃ甘えてたくせに~。熱が下がったら早速復活してるし〜。
「さて、そろそろおばあさんが見に来る頃かな? 風花、帰らないと」
「あ、じゃあとりあえず、また横になってて。休んでね」
「後でね」
樹はテーブルに肘をつき何か考え込んでいるようだ。
——そんなに信用ないかなぁ? 私。
「じゃあね。せめて午後まではゆっくりしてね。」
簡単な片付けを済ませた風花は、もう一度念を押した。
「はいはい、いろいろありがとう。お母さんによろしく伝えてください。そのうちお礼に行きますって」
「わかった、じゃあ!」
「後でね」
玄関のドアが重い音を立てて閉まる。
樹がエントランスに向いた窓際に立つと、しばらくして眼下に自転車を漕ぎ出す風花が見えた。あいかわらずわたわたしている。
「まったく……おちおち風邪もひいてられやしない。ちょっと目を離したらこれだ」
苦々しく樹は吐き捨てた。
その目は既に彼が戦闘態勢に入っていることを示していた。
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